二七話
広重氏が倒れてから一週間、敗血症の進行は止まり容体は小康状態になった。
峠は越えたものの意識は戻らず、今でも目を閉じたままでいる。
原因は手に付いた一センチに満たない切り傷。
そこに通常では考えられないほどの腐敗菌が巣食い、広重氏の体を蝕んでいた。
通常、集中治療室にいる間は患者の体を拭くことはない。しかし、今回は無理を押してやってもらったことで症状の進行は止まり、最悪のケースから脱出することができた。
これには医者も驚いていたが、近衛と刀の存在を公にするわけにもいかず秘匿してもらうことになった。
これで最悪の予想が的中したことになる。
千景は時間の許す限り付き添い、励まし続けている。
しかし、容赦なく時間は進み、現実が押し寄せる。
人間は日々生活するだけでも金がかかる。これまで広重氏がしてきたであろう雑事に追われることになった。
「電気ガス水道、固定電話に住民税、町内会費」
郵便ポストに届く請求書に、口座から引かれていく金金金。
「人間ってそこにいるだけでも結構かかるものね」
千景とリビングのテーブルに書類を広げながら通帳とにらめっこをする。
幸いなことに朱膳寺家の口座には十分な金額がある。このまま使い続けてもすぐになくなったりはしない。しかし、問題は別のところだ。
「千景様、お話があります」
「なに?」
朱膳寺家のリビングで向かい合い、テーブルに書類を置く。
「これは広重さんと進めていた事業の進捗状況です。たくさんの人からの支援を受け、もう一歩ところまで来ています。ぜひ、ここから先を貴女に引き継いで欲しいのです」
「……」
千景は黙って書類を見つめている。
無理もない。これは彼女の望むものとは違うのだから。
「私としては、計画がなくなってしまっても構わないの」
「……はい」
「おじいさまが目を覚ましてくれれば、前の生活が戻ってくるのなら……私は計画の破棄を望みます」
千景の言葉が重い。
広重氏が倒れた今、千景にとって計画を進める利点などどこにもないのだが、これから先を考えるとそうも言ってられない。
「残念ながら、前の生活が戻ってくることはありません」
一一歳には残酷だと思いながらも告げる。
「広重さんが回復したとしても、後遺症からは逃れられません。入院が長引けば出費もかさみます。かといって通院を選択しても介助が必要となります」
「そのくらい私がやるわ」
「……千景様もお分かりになるはずです。貴女はまだ義務教育課程、介護のために学校を休むという選択肢はありません。加えて、意識を回復した広重さんが望むはずもない」
「だったら自治体や行政に頼むわ。こうした場合の保護制度くらいあるはずよ」
「京都は政令指定都市ですから、あるかもしれません。しかし、今は地域住民よりも観光客への政策を重視しています。十分な補償が受けられる確証はどこにもない」
「じゃあ、どうしろっていうのよ!」
千景の悲鳴にも似た絶叫に、心が痛む。
元は俺の失策。そこに二人を巻き込み、政治家まで引っ張り込んだ果てがこれだ。
しかし、ここで放り出すことなどできない。
ここまで来たならば、二人には幸せに、安全な生活を保障できるまでにしなければならない。
「これからの交渉役を、貴女にお願いしたいのです」
「……交渉役? ……私が?」
「お二人が平穏を取り戻し、かつ十分な環境を手に入れるには金が必要です。広重さんは貴女の将来と、朱膳寺の未来を胸に事業を始められた。ですが、こうなってしまっては事業で得た金をお二人の保障に使うほかありません」
「全部、全部あなたの責任でしょう? あなたが何とかしなさいよ!」
「私もそうして差し上げたい。こんなお願いをするのは恥ずべきことです。しかし、私は死人です。社会的な身分などありません」
「あなたがダメなら、帝都にいる連中になんとかさせなさいよ!」
「それも掛け合いましたが、今回の背景には京都を牛耳る旧華族の存在があります。私の上司が動いても相当の時間がかかることが予想されます。その間に、また何かがあっては……」
「なにかって……まさか、おじいさまが倒れたのも……」
「確証はありません。しかし、帝都の調べでは旧華族が大陸から多量のタングステンを仕入れていたことわかっています。同時に、広重さんは各地に散らばった西園寺にゆかりのある人たちとも連絡を取っていたようです」
情報が集まるごとに陰謀めいてくる。
確証がなくとも、今回の件で誰が得をするのか、誰が損をするのかを考えれば答えは見えてくる。
「先ほども申し上げたように確証はありません。しかし、状況から考えると私は間違いないと踏んでいます」
「……そんな」
「私も京都支部、そして旧華族からの圧力によっていつ帝都へ戻されるかわかりません。抵抗はしていますが、逆らえば反乱分子として処分されるでしょう。お二人の安全を保障するには事業を進め、旧西園寺の力を借りて旧華族が手出しできない状況を作りたいと考えています」
「……」
「恨んでいただいて構いません。差し上げられるものならば何でも差し上げます。ですから、どうか……」
頭を下げる。
もはやこれしか方法がない。
「…………顔を上げて」
「はい」
長い沈黙の後、千景が口を開く。
「あなたの言葉通り、事業は私が引き継ぎます。その代わり、事業を完遂させるまで、私とおじいさまの安全が保障されるまでは京都に残りなさい。帝都へ戻るなんて許さないわ」
「承知しました」
「処分されるというのなら、私の前で処分されなさい」
「はっ」
主人へと敬礼をする。
帝都で待つ小さな姿が脳裏を過ったが、今は振り払うことにした。
◆
千景がまとめた案件を整理しながら事業を始めるまで道筋を確認していく。
残る心配事は広重氏のこと。
容体は小康状態のままで予断を許さない。
「ねぇ……」
「なにかございますか?」
ソファに座りながら書類を眺める俺の真横に千景がいる。
しな垂れかかる様に俺の腕に体を預けて一緒に書類を眺めている。
別段隠す必要もないので放っているが、邪魔臭いことこの上ない。
「ねぇ、集中治療室って一日いくらくらいなの?」
「設備にもよりますが、あまり良心的ではありません。今のところ費用の心配をする必要はありませんが、このままの状態が一か月続くと苦しいですね」
隠しても仕方ないので千景には本当のことを告げる。
病院は慈善施設ではない。場所にもよるが、病院の集中治療室は一日約四万円かかる。
個室に移ったとしても設備に応じて一万円から二万円まで幅広い。それを支払わなければいけない。
「平蔵、わたしにできることはない?」
「今はありません。千景様、ご自愛ください」
「うん」
素直に頷く。
広重氏が倒れてからこんな状態が続いている。やり易いのかやり難いのか分からなくなる。
「千景様、この体勢はどうにかなりませんか?」
「いやなの?」
「……はい」
「主人に向かって、その口の利き方はなに?」
「……どけていただけますと幸いでございます」
「ダメ」
無駄な会話だ。
ちなみに、このやり取りだけで今日三回目になる。
これだけではなく、千景は物理的な距離が近い。
外出では手を握り、家に居れば隣に座る。体を預け、そのままべったり。
飽きることもなく一緒にいる。これでは俺のプライベートがない。
「……ご主人様、そろそろ入浴のお時間ですが」
「いっしょにはいる?」
「ご勘弁を」
そう答えると名残惜しそうに離れ、ふらふらと歩いていく。
これは、明らかにおかしい。これまでの千景からは想像もできない。
試しにスマートフォンで甘える、スキンシップで検索するといくつか該当がある。
症例を並べ、一致するものが多いのに目星を付けた。
「幼児かえり、か」
精神的なショックが原因で引き起こされるものとある。
唯一の身内が倒れれば無理もない。
「……殿下みたいだな」
抑揚のないしゃべり方はちんちくりん殿下を思わせる。
まぁ、あのチビ助はコミュニケーション不足と深謀遠慮からくるものであるが、千景の方はかなり根が深い。
どうしたものか――――。
「っと」
考え事をしているとスマートフォンが震え、表示は主様とある。
どうでもいいが、直虎さんのセンスは少しずれている気がしてならない。
そのままにできるはずもなく、通話ボタンを押す。
「はい?」
『……さかき』
「殿下、良い子はそろそろ寝る時間ですよ」
『……いいのです』
時刻は二二時。
別に眠る時間でもないが成長ホルモンは二三時から午前二時にかけて分泌される。
背を伸ばしたいならさっさと寝た方がいい。
「それで、なにか御用ですか?」
『……さかきは、いそがしいですか?』
「いえ、大丈夫ですよ。今の仕え先からも良くして頂いています。ご心配なさらずに」
『……よかった、です。すこしきになっていました』
「殿下こそ、お体に変わりありませんか?」
『……はい。みな、よくしてくれています』
やわらかな声音。
この声を聴くと、少し安心できる。短いとはいえ、帝都での日々を思い出すことができるからだ。
入隊から新潟での一件を経て、京都にきてからもう一か月。
あまりに密度が高すぎて、つい数か月前のことまで懐かしくなってしまう。
「護衛は裂海ですか? それとも立花、あとは副長あたりですか? 副長や立花はいいとして、裂海は結構キツいでしょう」
『……そう、ですね。ゆうこがあれほどいけんをおしだすとは、すこしおどろきました』
「殿下がお花畑のお姫様だとすれば、裂海は正義を体現するスーパーヒーローです。騎士としては優秀ですが、連れて歩くにはやや優柔が利きません」
『……おはなばたけ』
ぷっ、と頬を膨らませる姿が想像できる。
「客観的に評したまでですので、悪しからず。しかし、護衛としては申し分ないはずです。私の様に戦力として遅れをとることもないはずです」
『……さかきは、よくやってくれていました。あめも、うわぎも、うれしかったです』
「光栄に存じます。しかし、仕事であることをお忘れなく。仕事には個々の能力を生かして最大限を尽くすことが肝要。私にはできないことが裂海にはできます。それは立花や副長も然りです。あまり求めてはいけません」
殿下の声音には少し憂いある。
心配事、なのだろうと思うが特定できない。
『……わかって、います』
「殿下?」
声がわずかに震える。
『……わかっています。でも、さかきは、とてもやさしかった、です。だから、すこしあまえてしまいました』
「殿下……」
不満はないと口にしながらも、思うところがある。
不意に、帰りたいと思ってしまった。
チビ殿下も飢えている。母親と同じ愛情、同じ優しさに。
しかし、残念ながら帝都、それも近衛にはそうした役割はいない。
「殿下、暇を頂けたら帝都に戻ります。愚痴はそのとき伺いますので、どうかお心を強くお持ちください」
『……はい』
「誰しも、殿下を想っています。ただ、先ほども申しましたができることには個人差があることをお忘れなきようお願いします」
『……わかっています。さかきとおはなししたら、すこしらくになりました』
「それは何よりです」
殿下の声音も少し上向いてきた、そう思いかけた時だった。
「平蔵、誰と話をしているの?」
湯上りにバスローブ、髪にタオルを巻いた千景が背中に寄りかかってきた。
「ち、千景様?」
『……へいぞう? ちかげ?』
「ねぇ、誰? ご主人様はわたしでしょう?」
「あー、いえ、帝都でお世話になった……」
『……さかき、ごしゅじんさま?』
左右の耳に声が突き刺さる。
なぜだろう、猛烈に胃が痛くなってくる。
「ねぇ、だれ?」
『……さかき、だれですか?』
立ち上がる。
ダメだ。
これは、たぶん良くない。うん、きっと事態の悪化を招く。
「おっと、電波がっ!」
スマートフォンのマイク部分を袖で擦った後、通話を切る。
次に振りほどかれて膨れっ面の千景に向き直り、
「仕事の電話をしているのに、そういうことをしたらダメですよ?」
少し眉根を寄せてしかめっ面をして見せる。
すると、千景は俯き、
「ごめんなさい」
素直に謝ってくる。
これはこれで良くない兆候なのだろうが、今は仕方ない。
殿下にはあとで釈明しよう。
「さぁ、寝る時間ですよ」
「うん」
手を伸ばしてくる。
抱っこ、なのだろう。
「やれやれ、問題山積……か」
「なに?」
「いえ、なんでも」
抱え上げ、寝室へと向かう。
どうしたものか。糸口はまだ見えなかった。