二二話
広重氏と二人でおこなった灰重石の調査で、川の源流にほど近い崖から鉱脈の一部が見つかる。
幸運にも地盤の隆起によって鉱脈が露出していることから大規模な掘削調査をせずにすんだ。
これで千景に怒られる心配が一つ消えたことになる。
事業を始めるに当たり最大の懸念は通り魔事件。
しかし、俺たちが山籠もりを始めて数日で事件はピタリと止んだこともあり、山籠もりは一週間で終わった。
そして灰重石発見以来、広重氏は変わった。
朱膳寺家再建のため、試掘した石の鑑定が行われる間に河川を管理する市や区に話し合いに赴き、夜遅くに帰るようになった。
俺はといえば、採掘事業のための事業計画書を作り、銀行へ融資を申し出るための書類をまとめている。
事業を始めるにあたり、一番の難関は資金だ。
開業資金と当面の運営資金、諸々重なる諸経費の捻出は頭が痛い。俺自身、サラリーマン時代に合弁会社の設立や個人の独立開業の手伝いをしたことがあるが、資金繰りはどこも大変だった。
今回、灰重石掘削事業に当たり朱膳寺家は大きな銀行からの融資が受けにくい。
京都市内を含む関西の金融界では三条家を含む京都三家が実権を握っている。
最初に突き当たった困難はまさしく金。その日、広重氏が戻ってきたのは日付が変わる手前だった。
「……お疲れ様です」
「ああ、榊君、まだ起きていたのか。千景はもう寝たかな?」
「ええ、先ほど。起きているとゴネたのですが、無理やり寝室に押し込みました」
リビングに入ってきた広重氏は上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながらソファーに腰を下ろす。
かなり疲れた様子だ。顔色もよくない。
「どうぞ。お水です」
「すまないね。君は千景の護衛だというのに」
「間接的には朱膳寺家にお仕えしているわけですから、このくらいはさせてください」
「ふっ、武士とは思えん言葉だな」
手渡したコップから一息で水を飲み干し、深くため息をつく。
「もう一杯お持ちしますか?」
「いや、酒にしよう。付き合ってくれないか?」
「……私で良ければ喜んで」
もう勝手知ったるなんとやらでキッチンからグラスと氷を用意してリビングへと戻る。
広重氏が戸棚から出したのは普段飲んでいる国産ではなく、安いスコッチ。
「さぁ……」
「恐縮です」
互いにグラスを満たし、一口含む。
まぁ、悪くないが味はそれなりだ。
「実は、コレクションを処分しようと思ってね」
「……ウィスキーの、ですか?」
「工場用地のための頭金がどうにも足りない」
広重氏がスコッチを呷る。
「申し訳ありません。私の努力不足です」
「君の計画書が悪いわけではないんだ。銀行が貸し渋る理由は、朱膳寺家が西園寺に連なる家だから、というのが大きいのだろう」
「銀行のバックは三条家ですからね」
「もともと、西園寺と三条は険悪とはいえないまでも良好とも言い難かった。それぞれ銀行を持っていたからね。しかし、西園寺が没落した後は名目としては統合という形で吸収合併をした。負債を抱えた西園寺側を救済してやった、世間からはそのように思われているだろう」
広重氏が手酌でボトルからグラスへ注ぎ、一息で飲み下す。
「三条と合併した銀行は、それまで西園寺へと肩入れしていた企業や家への当てつけが目立つと聞く。私たちに貸してくれないのも道理だ」
「……しかし、金がなければ事業は立ちゆきません」
「分かっている。実はいくつか樽を持っている。手元にある絵画や貴金属を競売に出す手続きをとってきた」
「それは、さぞ……身を切る思いをされたことでしょう。私がふがいないばかりに……」
「いいんだ。これくらいの覚悟はしている。しかし、工業用地の確保はかなりの金額が必要になる。現状では到底足りない」
「失礼ながら、目途は?」
「地元が難しいのであれば他県、場合によっては帝都へも行かねばなるまい。三条の手の及ばぬところまでね」
「私も最善を尽くします」
「大丈夫だ、千景の未来がかかっている。この程度では諦めないさ」
笑い、酒を飲む。
その姿は気力に満ち溢れ、とても家庭菜園が趣味の人だとは思えなかった。
◆
「これでもダメか」
目の前には銀行から突き返された分厚い紙束が積まれている。
広重氏が資金繰りに奔走する一方、俺は千景と一緒に右京区にある朱膳寺家で事業計画を作成し続けていた。
しかし、やはり結果が芳しくない。
かなり入念な資料も添えたはずなのに、銀行からの返答は渋いものばかり。状況の改善が見られない。
「またダメだったのね」
「……」
小学生に返す言葉がない。
やはり西園寺の系譜というのがネックなのだろうか。
計画がまともでメリットのほうが大きければ乗ってくると踏んでいたのだが、京都三家の影響力は予想を超えていた。
いや、俺自身が甘く見ていたということなのか。
「榊、あなた、本当に優秀だったの?」
痛い一言に押し黙る。
「ねぇ、言い訳はあって?」
「……面目次第もございません」
「それで、普段通りの生活はいつ戻ってくるの?」
「最善をつく……」
「おじいさま、今日も遅いのかしら」
小学生に一蹴される。
ここまで手詰まりなのは営業に配属されたばかりの頃、度胸試しにと飛び込み営業をさせられて以来だ。
「困りました」
「あら、大丈夫なのではなくて?」
「……はい」
独自のコネがある広重氏と違って、榊平蔵と商社時代のコネがない。
資金の調達や協力者の募集には限度がある。
己惚れた訳ではないにしろ、計画を過信したのは事実だ。こうなっては手段を考えてはいられない。
金、そしてコネ。両方を持つもの。
心当たりは、二つ。一つは近衛の仲間たち。
裂海や立花なら事と次第によっては融資してくれるかもしれない。
もう一つは政治家、城山英雄。
あまり関わりたくはないが仕方ない。
皇族信奉者で与党のタカ派。金も、コネもあるはずだ。
「千景様、二時間ほど外します」
「そう」
千景は素っ気ない。
信用しているのか、単に呆れているのか判断が難しい。
しかし、俺としては豪語した以上、責任がある。
「……やるしかないか」
資料の作成と郵送にはそれくらい必要だった。
◆
何が切っ掛けだったのか、それは本人にすらわからない。
ふと気が付けば心が苦しかった。
「……どうして」
日桜は独白する。
自分の心が、これほど苛まれることがなかったからだ。
衆人環視の前に立つことが、誰かと言葉を交わすことが、こんなにも怖いと思ったことはない。
これまでの自分がどうやって来たのか、それすら思い出せずにいる。
それでもどうにか誤魔化し、自分を奮い立たせてこれたのは両親の存在と責任感があったから。
病床の父は我が身よりも国民を想うあまり無理をしてきた。それこそ支える母と共倒れになってしまうほどに。
だから、今の状況は二人の子供という立場から考えれば悪くない。
休めるときに休んでほしいからだ。
自分が父の名代を受け継ぐ。
必死に学んできたのもそのため。その責任感が感覚を麻痺させていたといってもいい。
「……こわい、さかき」
名前を呼ぶ。
――――大丈夫です。
あの一言が聴きたい。
重圧など意に介さず、一人でも我が道を歩む姿はどこか父と重なった。
それでいて他人を気遣う余裕を持ち、周囲を明るくしてしまう優しさは母を思わせた。
寂しい。
恋しい。
忘れかけていた、麻痺していた心が騒めきだす。
「……さかき」
一度言葉にしてしまうと、もう止まらない。
安心感と心強さ、優しさが恋しくてたまらない。
「……どう、して?」
自らに疑問を抱く。
それは、日桜が初めて抱く我が儘だった。