二一話
「榊君、もう一杯」
「……恐縮です」
夜、満天の星空を見上げながら広重氏に差し出されたウィスキーをマグカップで受け、一口含む。華やかな香りと薄いピート香、滑らかな舌触り、心当たりは二つ。
「京都でマッカラン……というのは趣きに欠けますので、山崎でしょうか」
「最近ではカヴァランも随分と良いものを作るが、日本人ならば山崎だ」
「ワイン、ではないのですね」
少しだけ顔の赤くなった広重氏が曖昧な笑みを浮かべる。
「あの色は、もうこりごりだ。どうしても思い出してしまう」
ワインは救世者の血を意味する。
となれば、言わんとする意味を察することはできる。
「しかし、君がいてくれるなら安心だ。朱膳寺家は再興できる。二人とも喜んでくれているだろう」
「……」
こうしたとき、自らの経験不足を実感してしまう。
かける言葉が見つからない。沈黙が夜の静寂と重なってしまう。
「おじいさま、もうお止しになったら?」
ログハウスから千景が顔を出す。
濡れた髪にバスタオル。湯上りらしい。
「ああ、そうだね。少し飲み過ぎてしまった」
「お送りします」
「そんなに年寄り扱いしないでほしいな。このくらいならいつも通りだよ」
広重氏は少しふらふらとしながらも、ゆっくりとした足取りでログハウスへと戻る。
代わりに千景がやってくる。瞳には鋭い敵愾心。
「おじいさまを止めて」
「……」
答えが予測できなかったわけではない。
千景からしたら、余計な事実だったことは確かだ。
「私が主人なのでしょう? 命令するわ。止めさせて。ここは思い出の山なの、開発なんてしてほしくない」
「わかっています。ですが、お止めになるとは思えません……」
「私は、今のままで十分よ。幸せだし、満足している。お父様やお母様がいなくたって、今のままで幸せなの。お金がなくたって、家がなくなったって、いいの」
その通りであり、返す言葉がない。
不用意であったことは事実で、俺の失態に他ならないのだから。
広重氏の幸せと、千景の幸せは重ならない。
広重氏は自らの理想とする幸せが叶う方法を知ってしまった。
そのためには動かないわけにはいかない。
「お願い、止めて」
「広重さんは自力でやるでしょう。遅かれ早かれ、ことは進むはずです」
変えようがない事実だ。
俺という異分子が混じってしまったことで、朱膳寺家の明暗が大きく変化しようとしている。
「じゃあ、どうすればいいの?」
――――どうする。
―――――どうしたらいい。
「……これは私の失態です」
「認めて、どうするの? 私は止めてといっているのよ?」
「わかっています。ですが、時間を巻き戻すことはできません。私にできるのは、この場所をできるだけ残すよう働きかけながら、事業を遂行して貴女が平穏無事な生活を送れるようにするだけです」
「そんなの、できるわけないわ」
「最早、広重さんを止められる選択肢はありません。進むしか、事業を成功させて広重さんの欲しいものを手に入れるしかないでしょう」
財産と、千景の将来そのものを手に入れる。
「私も広重さんをお手伝いします。近衛になる前はこうした土石の専門でもありました。お力添えできるはずです」
「この景色を、できるだけ残してくれるのよね?」
「……ネックになるのは試掘作業時の重機乗り入れですが、それは私が行います。鉱床を見極め、掘削は最小限の範囲に留めます」
千景の視線が突き刺さる。
「……いいわ」
長い沈黙のあと、千景が口を開いた。
「……今すぐ信用はできない。でも、あなたは私を助けてくれた。だからチャンスをあげる。一日でも早く終わらせて」
「……承知しました」
逃げ込んだはずの別荘で、思わぬ事態に発展してしまった。
さっさと戻るつもりでいた京都への赴任は思わぬ方向へと動き始めていた。
◆
「お手伝いをさせてください」
そう申し出た俺に、広重氏は最初戸惑った。
「榊君、これは私の我が儘。千景の護衛をしている君を巻き込むことはできない。いや、申し出は素直に嬉しい。アドバイスさえしてもらえればこちらで何とかするつもりだったのだが……」
「千景様に怒られてしまいました。余計なものを見つけた、と」
「……そうか」
「千景様はご両親、そしてあなたと過ごした思い出が壊れるのを恐れていらっしゃいます」
向かい合う席で広重氏は俯く。
こちらとしても嘘はつけない。
「お金が大事であること……千景様の将来を憂う気持ちもわかります。同時に、静かに二人で過ごしたいという千景様の気持ちもわかります。異物である私が申し上げるのもどうかと思いますが……」
七〇を間近に控えた広重氏を千景はどう見ているだろうか。
両親を亡くし、肉親は広重氏ただ一人。一〇年は幸せに暮らせるだろう。しかし、その先は――――。
日本人の平均寿命は男性でも八〇歳を超える。しかし、それはあくまで寿命。健康でいられる年齢を考えるとこれからの一〇年、なにもないわけにはいかない。
千景は聡明だ。
迫りくる刻限まで寄り添おうとしている。
それが愛してくれた祖父への恩返しであると考えていることだろう。そして、そのあとは……。
広重氏としては自分が健康である間に千景が結婚してくれたら、と考えているに違いない。孫の幸せ、直接の介助とはならなくても資産があれば一人でも、二人でも、あるいは三人でも幸せに暮らしていける。
互いを想うからこそ、今を大事にしたい千景と未来を憂う広重氏で齟齬が生まれる。
「山……だけではね」
ぽつり、と漏らす。広重氏の言葉の意味も、分からなくはない。
思い出は一円にもならないからだ。しかし、人は思い出を抱いて生きるもの。
生い先が長いか短いかによって違う。
「榊君は、やはり反対なのかな?」
「半々……いえ、正直を申し上げるなら賛成です。私もかつては金の亡者でありました。金とは現代における免罪符にして万能の薬。あればあるだけ良いものと考えています」
「かつて、というところが気になるな。訳を話してくれるかい?」
「金は地獄へ持って行けません。近衛となった私は、常に死と隣り合わせにいる。金を稼いだとしても、いえ、金など何の価値もありません」
つい数か月前に抱いた苦悩を吐露する。
「近衛としての悩み……ですか」
「お恥ずかしい限りです。しかし、それが一般的でないことも存じております。千景様の将来は平均寿命を考えるとまだ七〇年以上の時間がある。広重さんがお金のことで苦労を掛けたくないという気持ちも痛いほどにわかります」
「その通りだ。七〇年、とはいかなくとも千景が成人するまで……いや、結婚するまでの蓄えが欲しい。しかし、それでは今のままでは足りない。私と息子の遺産で千景が大学を出るまでの保証はしてやれる。だが、そこまでだ」
「それで十分……と千景様ならば仰ることでしょう」
子供ならば、千景の場合は孫だが、肉親にそこまで求めはせず自らの道を探す。
「この事業が成功すれば、朱膳寺家の再興と同時に千景が皇族としての地位を後押しするものとなるだろう。さすれば、千景の行く末は盤石となる」
「確かに、千景様ならば皇族としても立派にやっていかれるでしょう」
なるほど、広重氏の真意はそこか。
高い地位は必然的に安全性も備わる。
「それにね……榊君」
「はい」
「君が護衛としていてくれるのなら私は安心して逝ける。どうだろうか」
「広重さん、まだなにも始まってはおりません。まずは試掘、あとは事業は成功してからにしてください」
「……分かっているよ」
二人で酒を酌み交わし、笑った。
「リスクはありますが、いったん山を下りましょう。ここではなにもできません」
「そうだな。手伝ってくれるというのなら、榊君には事業計画書をお願いしたい。正直、私ではビジネスモデルを想像しにくい部分がある」
「お任せください」
「私は事業資金の調達や市役所、自治体への交渉をしよう。なに、昔取った杵柄だ、まだやってみせるさ」
差し出された右手を握る。
◆
皇族の一日はかなり多忙だ。
起床から就寝までとはいかないものの、スケジュールが詰まっている。
なのに、
「殿下……」
寝室の前で鷹司が頭を抱えている。
時間になっても、日桜が起きてこないからだ。
「お加減が悪いのですか?」
「……」
「医者を呼びますか?」
「……いいです」
障子越しの会話ながらこの繰り返しだ。
鷹司は正直、頭が痛い。
「殿下、どうなさったのですか……」
これまで日桜は職務に対して非常に真面目であり、文句一ついわずこなしてきた。
それが当たり前だと思っていた。
なのに――――。
「……」
裂海や立花からは口数が少なくなっていると報告にはあったが、鷹司はさほど気にしていなかった。
そもそも、榊が来るまでの殿下は無口な部類であったし、立場もあって周囲と積極的な交流を持っていない。
状態が戻っただけ、その程度の認識でしかなかった。
「どうしてこうなった」
あの妙に社交性が高く、殿下を甘やかし、周囲を巻き込んで自身の影響をパンデミックのごとく広げた新入りの存在が腹立たしくてならない。
ダメだ。
これでは様々な事柄に影響を及ぼす。
殿下のためにならない、と鷹司は腹をくくる。
「殿下、本日は最高裁判所長官と午餐があります。現在の長官は陛下のご朋友、名代としてお会いしていただかなければ……」
「……」
「殿下」
呼びかけに動く気配がした。
良かった。
鷹司は胸を撫で下ろす。
今の最高裁長官は法曹界の名門の出身であり、最も若く長官に就任した。
現帝とも親密な関係にあり、大切な皇族の支援者の一人でもある。
「……」
日桜が自室から出てくる。
目は泣き腫らしたように赤く、パジャマには無数のシワがよっているのはあまり寝ていないからなのか。
「殿下、今しばらくのご辛抱を」
「……はい」
頷くのを見届けて立ち上がる。
「さぁ、参りましょう」
手を引いて歩く。
日桜の指先には鷹司の手を握り返すだけの力など、残っていなかった。