一八話
千景と図書館通いをすること数日。
この日、千景が図書館を出たのはまだ空が赤く焼ける一九時前。
先日の事件を受けて、俺が陽が落ちる前の帰宅を提案した。
未だ解決せず、新聞を騒がせる通り魔事件。
そして鶴来が薬物だと言い張った千景への襲撃事件が無関係に思えなかったからだ。
「じゃあ先にいくわ」
「はい」
図書館の入口で一言告げると、千景は歩き出す。
俺も少しを開けてから後ろへ続いた。
まだ寄り添って歩くほど距離が縮まったわけではないので、これは仕方がないといえる。
千景からしてもまだ素性もわからない人間と楽しく会話などできないはずだ。
ここは時間をかけて改善していく必要がある。
「焦るよりも積み重ねが重要ってね」
これはサラリーマン時代の鉄則でもある。
あまり急激に距離を詰めようとすれば、逆に警戒心が生まれてしまうもの。
小さな信用を積み上げるしかない。
「欲をいえば、もう少し人通りの多い道を選んでほしいもんだ」
千景が歩くのは地元民にしか知られていないような細い路地や小道。時には寺の敷地を抜けることもある。
皇位継承権を持っているにしては不謹慎なのだが、社の前までくると一礼を欠かさないくらいの常識はあるらしい。
小道からでてようやく人通りのある大通りに出てきたとき、事件は起こった。
千景の横を通り過ぎたはずのトラックが急停車し、十数秒の間を置いてから急な方向転換を始めた。
帰宅を急ぐ車が多い時間にも関わらず、無謀な運転に抗議のクラクションが鳴る。
しかし、暴走は止まらない。
「……嘘だろ?」
反転したトラックの進路上には無防備な後ろ姿。
まさか、そんな、なにかの冗談だろう。
俺の期待を裏切りながらトラックは加速する。
「千景!」「えっ?」
叫んで走り、左手で千景を懐に抱きこみ、右手をトラックのフロントへと向ける。
「くぅ!?」
衝撃と圧力。
トラックの質量をまともに受けて体がコンクリートの壁へと押し込まれる。
「くっ、お、おおお!」
フロント部分をあらん限りの力で突っ張り、体を回転させて壁にめり込むのを背中で受けた。
一瞬の出来事。
気が付けばコンクリの壁を突き破り、民家の敷地の中に入り込んでしまっていた。
「……ぐっ、大質量の突貫だけは防ぎにくいか」
「な、なにがあったの?」
腕の中で千景が目を丸くしている。
状況がまだつかめないというところだろう。
「お、お怪我は?」
「……な、ないわ」
言葉を交わす間にもトラックは後ろへ下がる。もう一度突っ込まれたら今度は民家が危ない。
フロントガラスにはひびが入ってドライバーの顔は見えないが、正気の沙汰ではない。
軋む体に鞭打って立ち上がる。
「ち、千景様はここに居てください」
「あなたは大丈夫なの? それに……」
「あれを止めます。このままにはできない」
「で、でもその体では!」
「大丈夫です。そのための体です。このまま引っ込んだのでは近衛の名折れだ」
体中が痛み、骨が軋む。
呼吸も苦しいから、肺にも損傷はあるだろう。
しかし、俺は固有持ちだ。
「このための、固有だろうが……」
意識を集中させる。
止めろ、あれを。
これ以上の犠牲は出させない。絶対、絶対にだ。
思う程に痛みが薄れ、高揚感が沸き上がる。
「は、ははははは!」
口からは笑いが漏れ、足が一歩を踏み出した。
「い、くぞ!」
「榊!」
ケースに入れて隠し持っていた”防人”安吉を抜刀、再び迫るトラックに対峙する。
「止まれぇ!」
動きを止めようと前輪を切りつけるが、質量があり過ぎて止めきれない。
フロント部分へと突進、動きが止められないのなら方向を変える必要がある。
唐竹割りの要領で切りつけ、入った亀裂に左腕を突っ込む。両足を突っ張って重さを正面から受け止める。
「くそがぁ!」
破砕音と悲鳴。
多少引きずられはしたものの、トラックは民家の玄関を崩したところで止まってくれた。
「……ってぇ」
瓦礫から抜け出し、地面に転がる。
荒い呼吸をしていると運転席のドアが開き、人影が崩れるように人が出てくる。
体を引きずるように寄ってみると男だ。作業着に帽子、顔は若い。
「おい、お前……」
頭と胸元には血が見えるが、呼吸はある。
しかし、その瞳は混濁し、口からは泡のようになった唾液。
「おい、大丈夫か? 何でこんなことをしたんだ?」
頬を叩くが、反応が鈍い。
指で下瞼を下げ、手を取って心拍数を測る。
眼は焦点が合わず、心臓は異常な早鐘を打っている。
「だれか、救急車を!」
周囲に叫ぶ。
道路から覗き込んでいた人垣が携帯電話を取り出し、通報をしてくれる。
何人かは面白半分で撮影をしているようだが、止めるだけの余裕がない。
「……京都府警は鶴来とつながってんだったけ」
パトカーのサイレンが遠くに聞こえる。
男を調べたいが体が動かない。最初の一撃、あれが効いた。
「また何か言われそうだな……」
瞼の裏に映るのは小さな笑顔。
千景か、殿下か、分からないまま意識は消えていった。
◆
意識を取り戻したのは救急車に乗せられる直前、京都府警に水をぶっかけられたからだった。
救急車のストレッチャーに乗せられたところで警官に拘束され、そのままパトカーに押し込まれる。
無線機を渡され、耳を押し当てた。
『京都府警本部、鷺宮だ』
「……榊平蔵と申します」
『お手柄だったな。榊中尉』
脳みそがまだ動かない。
中尉ということは、俺のことを知っている。
つい先日も一人捕まえたし、千景にも一度通報されているから不思議はないか。
「……なにが御用ですか?」
『鶴来さんから言伝だ。この件は府警と京都本部で処理する。治療を受けた後は任務を継続するように。以上だ』
「……左様で」
俺も男のことを調べたい。
もしくは直接的な尋問がしたいのだが、無駄だろう。根回しがいいのはそういうことだ。
京都府警との話が終わると、ようやくパトカーから救急車に移される。
そこには千景の姿。
「榊……」
「ご無事で……何よりです」
「あなたこそ大丈夫なの? ケガは? 体は?」
抱き着いてくる千景の温度に気が緩む。
再び意識がなくなるまで、さして時間はかからなかった。
◆
この通り魔事件は何かがある。
そう思わざるを得なくなったのは、トラックに押しつぶされた事件の翌日。
コンビニで買ってきた新聞や週刊誌の記事を見てからだった。
事件を調べると、奇妙な一致が見つかる。
最初の通り魔事件が起こった日は、俺が朱膳寺家へ来た日と同じ。
付け加えるならば鶴来からの申し出を断った日と同じなのだ。
おかしな点はまだある。
通り魔事件の容疑者が逮捕されているのに犯行が終わらない。
「なにを見ているの?」
「これを……」
起きてきた千景に開いたページを見せる。
「”連続通り魔事件、その犯人に迫る。”普通の見出しだと思うわ」
「それは五日前のものです。一昨日。一週間に二件の通り魔が発生していることになります」
「模倣犯、と今日の新聞にはあるけれど?」
「ええ。それも十分に考えられます。しかし、期間が短いのが気になります。模倣犯なら模倣すべき場所や手順を踏む傾向にある。今回はそれがない」
「衝動的な模倣犯がいない理由がないわ」
「それも仰る通りです。なので、続いて被害者に着目しました。これを見てください」
「……?」
千景に集めたスクラップを見せる。
被害者は分かっているだけで五人。
最初の事件、その被害者は二十代の女性。残る四人も全員が女性。
「年齢も容姿もバラバラじゃない」
「はい。ですが、全員がロングの黒髪で、身長が一五〇センチから一六〇センチ。体格も似ています」
「共通点として弱いのではないかしら。襲われる時間帯もまばらだし、決定的なものではないと思うわ」
週刊誌のは逮捕された二人のことが載っている。
二人の年齢は二〇代と三〇代、職業はフリーターと会社員。妻子はなく、一人暮らし。
出身から現住所、経済状況まで一致がない。
唯一といえるのは合法ハーブ、いわゆる脱法ドラッグを所持していること。
千景様を襲った犯人もドラッグ。そして昨日も。
しかし、あれがドラッグ使用者の行動なのだろうか。
図書館からの帰り道で千景を襲った男はかなり急激な変貌を遂げたように思えた。
トラックの運転手はドラッグを摂取した状態で車の運転なんてできるものだろうか。
なによりも不気味なのは被害者に共通するすべてが千景に当てはまる。
「千景様、本日より外出を控えて頂きます」
「どうしてよ?」
「貴女が二度も続けて事件に巻き込まれたことが偶然とは考えにくいからです」
「それは……私もそう思うけれど。でも、断定できるだけの要因がないじゃない」
この子は頭がいい。
理屈で考えれば万に一つの偶然が重なったと考える方が妥当だ。しかし、狙われていたのが千景だったとしたら、そして通り魔事件の被害者が千景との誤認だったとするならば、この子は事実に耐えられるだろうか。
いや、もうすでに思い至っている可能性すらある。
人間とは往々にして言葉と感情とは一致しない場合が多い。
感情では苦しみながらも理屈によって拒否するのはストレスがたまる。
「……私、勉強したいんだけど」
「それなら私がお教えしましょう。一応国立出身ですから」
怪訝そうな目をされる。
武士なのに大卒というところが引っかかったらしい。
まぁ、そのあたりは追々説明しよう。
「では、雲隠れなどどうだろうか」
「おじいさま」
家庭菜園から戻った広重氏がタオルで汗をぬぐいながらそう告げる。
「京丹波に別荘があってね。人もいないし静かだ。それに、せっかくの夏休みなのだから少しくらい遠出をしてもいいだろう?」
広重氏の誘いを断る理由はない。
こうして雲隠れ、もとい小旅行はその日のうちに行動に移されることになった。