六話
殿下の朝といえば髪を梳くことから始まる。
俺も鷹司からの呼び出しや別の任務がない限り朝は殿下の私室に伺い、支度を手伝う。
「~~~~♪」
殿下がかすかに歌っている。
この様子だと今日のご機嫌は良さそうだ。
「殿下、痛くはありませんか?」
「……だいじょうぶ、です」
肩口から毛先まで櫛を入れながら言葉を交わす。
最初の頃、殿下の艶やかな髪を触るのは抵抗があったが、今ではだいぶ慣れた。
「本日は横浜への視察があります。そのあとは接見と会食です。会食は忌日ではないためそのままお召し上がりください」
「……はい」
俺が髪を梳いている間、殿下は指の爪を整えている。
接見をするとき、相手がどこを見ているのかと言えば、細部だ。
畏れ多いのもあって皇族の顔なんてまともに見れない。
そうした場合、細かいところを見ている。指先、靴、姿勢。
殿下もそれがわかるから整える。
「……どう、ですか?」
両手をウサギの耳のように頭の上へ持ってきて俺に見せる。
「お綺麗です」
「……よかった、です」
この笑顔は悪くない。役得と言える。
最初はマセたがきんちょだと思ったものだが、その実は内気なお姫様そのもの。
さぁ、このあとは軽めの食事をしてから横浜。
そう思っているとどたばたと足音が聞こえてくる。
この無遠慮は裂海だ。
あいつが御所に来るなんて珍しいと思っていると、
「殿下、裂海優呼です」
さすがにこうした場所では裂海もちゃんとしている。
昨日のフランクさなんてまるでない。
「……どうぞ」
殿下の声音が少し変わる。
不機嫌、まではいかないがむっとしている。
静かな一時が終わったことへの抗議だろうか。まぁ、気持ちは分からなくもない。
「失礼します。殿下、今朝もご機嫌麗しく」
「……ゆうこも、たいぎであります」
そこで髪を梳く俺を一瞥、
「榊中尉に呼び出しです。至急、副長室まで出頭せよ、と」
「俺に?」
「はい」
なんだろう、別段心当たりはないが、至急という言葉が気になる。
「護衛は私が引き継ぎますから、お早く」
「あ、ああ。承知しました。殿下、失礼します。また後程」
「……はい」
殿下が手を振るのを見届けてから裂海に任せて部屋を出る。
これが殿下とのしばらくの別れになるとは、この時思いもしなかった。
◆
辞令というのは突然やってくる。
サラリーマン時代も資材部から営業部への異動は唐突だった。
渡されたのは簡単な事例の書面。
「関西、正確にいうならば京都だ」
執務室のイスで頭を抱えながら鷹司が告げる。
俺は酒で酔えないのに、この人が二日酔いなんて不公平にもほどがある。
アルコール分解酵素を分けてやりたい。
「理由を伺ってもいいですか?」
「そこにあるだろう。京都での皇位継承権保持者の護衛だ」
「こんなに突然ですか?」
「策謀の兆しあり、とあるだろう。緊急の要請であり、固有能力持ちの貴様に白羽の矢が立ったのだ」
「天探女の神話を思い出します」
「……妙な話を持ってくるな」
あまり良さそうな話しとも思えない。
何となくだが。
「分かっているから、そんな顔をするな。私とて抵抗したのだ。貴様には殿下の護衛もある、だが……」
苦々しく顔を歪める。
いつも思うが、この人は苦悩が絶えない。
「はぁ、つまり副長の立場としては断れない理由があったわけですね」
「……その通りだ。貴様も正式所属。ともすれば、こうした事態も有りうる」
「私も組織の人間です。辞令であるならば従いますよ」
「助かる。期間は設けられていないが、脅威が去れば速やかに戻れるともある。そういう意味では片道切符でないことは覚えていてほしい」
「分かりました。あともう一つ質問がなのですが、察するに関西は近衛に対して発言力があるわけですね」
「……ある。幕末、公武合体に際して皇族の支援をしたのが向こうの財界。陛下や殿下も代をたどれば向こうに行き着く。皇族全体からしても影響は大きい」
「なぜ私が、と思わなくもないですが」
「理由はいくつかあるだろうが、やはり固有の獲得は大きい。あとは、私への圧力もあるやもしれん」
「私の固有なんてどうにでもなるでしょうが、副長への嫌がらせなんてあるんですか?」
俺自身の固有能力は脳内物質の分泌過剰。そうたいしたものではない。
しかし、鷹司は近衛の全権を握り、なおかつ尋常ではない強さがある。
この人に圧力を加えようなんて命知らずもいいところだ。
「私はあまり人望がなくてな。鷹司も家は大きいが、ここ一〇〇年ほどの成り上がりにすぎない。鹿山翁や伊舞さんがいるおかげで辛うじて副長の任にある」
「それは……心中お察し致します」
「先帝の意向で関西への過剰な厚遇がなくなり、陛下もその意志を継いでおられる。私も方針として関西だけに経済が集中する事は反対している。ともすれば軋轢もうまれよう」
「なるほど。確かに有力な企業は大阪や京都、神戸に集中していますからね」
今でも千古の都であった京都の敷居は高い。
全国展開する企業も京都や大阪に本社を置くものが多く、一種のステータスともいえる。
一方で現在の帝都、東京は人口が集まりつつあるものの、経済力では関西に及ばない。
「複雑な情勢の上にあると考えておけばよろしいですか?」
「栄転だと思ったか?」
「ご冗談を。今の私に出世欲なんてありませんよ」
これは本当だ。
金も名誉も地位も、今は魅力的に映らない。
逆をいえば目標を見失っている状態に近い。
「……できるなら早く戻ってきてほしい」
「は?」
鷹司の殊勝な言葉に目が点になる。
昨日もそうだが、この人は結構どころか随分疲れているらしい。
「帝都は今、非常に多忙だ。正直、貴様に抜けられるのも皆に負担を強いている状態にある」
「では、できるだけ早く戻れるよう努力をします」
「そうしてくれると有り難い」
鬼の鷹司もしおらしい顔をすれば美人か。
覚えておこう。
「それで、いつ行きますか?」
「早ければ午後にでも」
「……ずいぶんと性急ですね」
辞令が来て、その当日とはいくらなんでもあんまりだ。
「荷造りもなにもあるまい? 向こうも見越している。書面にも可及的速やかに、とある」
「それはそうなんですが、異動なら周りへの挨拶とかありますよ」
「今は皆任務中だ。電話でしろ」
鷹司が何かを投げてよこす。
手に取れば新幹線のチケット。それも自由席。
「副長、せめてグリーン車にできません? 指定席でもいいんですけど。自由席って、急なサラリーマンの出張でももう少し融通ききますよ?」
「文句は鶴来殿にいえ。それから……」
「はい?」
鷹司が急に挙動不審になる。トイレだろうか。
「いや、その、なんだ……殿下にはどうする?」
「殿下ですか? それこそ副長にお願いをします。今は横浜へ視察の頃ですから、挨拶の時間はありません」
「そ、それはそうだが……できるならば真っ先にお伝えしろ。できる限り低姿勢で、だ」
「なんで低姿勢なんですか? 殿下も仕事、私も仕事です。聡明ですから理解してくださいますよ。……ははぁ、昨日の件で言い辛いわけですか」
「っ!」
顔が赤くなる。
おーおー、こうなると天下の鷹司霧姫も形無しだ。
「分かりますよ。敬愛する殿下に部屋を掃除していただいたわけですから、恐れ多いんですね」
「き、貴様……っう」
立ち上がったところでこめかみを押さえ、椅子に戻る。
ふと殿下の顔が浮かぶ。
あのちんちくりんはきっと頬を膨らませて抗議をするだろう。
しかし、仕方がない。
組織である以上、飲み込まなければならないこともある。
それに、あの子なら鷹司の苦悩を分かってくれるはずだ。
「副長、落ち着いてください。大丈夫です。殿下には連絡をしますから」
「そ、そうしろ」
「では、このまま行きます。副長、どうか無理をなさらないでください」
「……貴様もな。ちょうど、向こうには直虎がいるらしい。京都支部までの案内を頼んでおこう」
「恐縮です」
よろよろと立ち上がった鷹司と敬礼を交わして部屋を出る。
こうして突然、関西へと行くことになってしまった。