五七話
「な、なんなのだ、あの光は」
虎にとって刀を奪われたのは半ば仕方なかった。
あれを庇いながら戦うことは難しかったが使われたとしてもそれほどの脅威ではない。
だから始末したあとで再び奪い返せばよかった。
しかし、実際は手に渡った途端に嵐を巻き起こし、危うく船を転覆させかけた。
「危険だ」
あの刀も、青年も。
特に青年は虎の切り札ともいえる毒に耐えている。
効かないわけではなくただ、耐えているというだけではあるが原理が分からない以上は放置できない。ただ、幸いにも痛みも効果も、十分に現れている。
その証拠に、
「ぶふっ……」
目の前の青年は立ちながらにして派手に血を噴く。
口を手で覆ったにも関わらず、指の隙間から漏れ、逆流して鼻からも滴っている。
臓器ばかりか肺まで侵す出血毒が涙腺をも蝕み、血が溢れて、眼まで真っ赤という有様だ。
なのに、
「何故倒れない」
それが疑問でならない。
これまでの相手ならば這いつくばって命乞いをするか、すでに事切れている。
なのに、この青年はまだ意識を保ち、自分に向かってくる。
「首を落とすしかないな」
毒が決定打にならないのであれば、それしかない。
青年の回復力に勝てるかは疑問だが、技量差は歴然。
機会は十二分にあるといっていい。
◆
反応が遅れた原因はいくつもある。
何度目かもわからない血を吐いて、痛みで目が霞み、挙げ句の果ては熱量不足。
しかし、その一撃は明らかに質が違っていた。
万全の状態でも受けられていたか怪しい。
確実に命を奪いに来たもの。
そう、知覚したときにはもう遅い。
偶然や油断ではなく、必然の一撃で首に柳葉刀が食い込む。
「……ぐっ!?」
何かを思う暇もなく刃は左の頸動脈を切り、頸椎にまで達する。
――――っ!
刃の腹が喉を裂いて、意識が消えそうになる。
本能が警告を発し、顎を引き、辛うじて刃を押しとどめたのは首が半分落ち掛けてからだった。
「……」
息なんて、できない。
ただ、明滅する意識の中で立ち尽くすだけ。
――――もう、おわりなのか
ドクン
心臓と刀の鼓動が重なる。甦るのは衝動。
覚めたときと同じく、生きたいと叫ぶ、獣の性。
「……!」
左手が勝手に蠢いて強引に首を掴めば、うぞうぞと筋繊維が伸びる。
柳葉刀を食い込ませたまま癒着するのはさすがの虎も驚いたらしく、刃を引く。
「それが貴様の正体か……」
「……そん、な、わけある、か」
今にも消えそうな意識を痛みがつなぎ止めてくれる。
気が付けば足が突き立てた”防人”安吉を蹴り上げている。
「く、そが!」
ぎちぎちと治癒が進み、首が繋がる。
左手は落ちてきた”防人”安吉を勝手に掴み、構えをとる。
「うご、くな!」
護身刀を抜き、左腕に突き刺す。
ふざけるな。
また勝手に動かれて、意識のないところで仕方のない罪を重ねるのはごめんだ。
やるのならば俺は、俺の意志で、明確な殺意の元で殺す。
それ以外は認めない。
「俺の体は俺のものだ。勝手に使、うなよ!」
メッタ刺しにしたところでようやく動かなくなる。
護身刀を左腕に突き刺したまま”防人”安吉を右手に持ち替える。
「待たせたな。今度は、こっちの、ばんだ」
虎の戦慄が伝わってくる。
俺だってこんなことはしたくない。
「狂っている……」
「生憎と刀の、扱いに関しては素人なも、んでな。躾に手間取ってるんだ」
「やはり近衛、いや、貴様自身が脅威だ。祖国のためにもその狂気を排除する! 死ね、化け物!」
再び迫る虎、そして刃。
迅雷の軌跡を受けることが出来ずに三度首に食い込む。
が、狙いは分かっている。だったら対処は可能だ。
「な、に?」
虎の目に驚愕。
必殺の一刀は上げた肩をそぎ落としながら喉を浅く切っただけ。
さぁ、今度は俺の番だ。
「ぶふっ」
間近に迫った虎の顔へ喉から溢れる血を吹き付ける。
視界を奪えるかとも思ったが、甘くない、虎は瞬きをすることもなく、
真っ赤になりながらも間合いから引く。
「すこし、くらいは驚け、よ」
でも、布石は打てた。
好機を逃すまいとこちらから距離を詰め、刀を振り上げる。
「っ!」
「ふっ!」
迎撃され、刃が互いに火花を散らす。
「こんなもので視界を奪ったつもりか?」
一合、二合と剣戟が響く。
「奪ったさ」
三合目、とは続かない。
虎の肩口に”防人”安吉が深々と食い込んでいたからだ。
「き、貴様、どうやって!?」
「そう、簡単に、教えてやるかよ!」
虎が反撃してくるが、わずかに精度が足りない。
これくらいなら使い物にならない左腕でも受けることが出来る。
「痛ぅ」
それでも痛みは相変わらず。
いっそのこと痛覚を遮断してほしい。
「ちぃ! どうなっている」
「自分の老眼を呪えよ!」
面白いようにこちらの攻撃が当たる。
これは前に裂海に仕掛けた色のトリックとほぼ同じ。
血液はかなり粘度が高い上に、涙ももとは血液。
眼球に貼り付けばかなり落ちにくい。そんな真っ赤になった視界では遠近感が薄れてしまう。
さらにアジア人、特に男は加齢とともに赤系統の視覚障害を起こしやすくなる。
遠近感を二重で狂わされたら達人だろうと当たる。
虎がそれに該当するかどうかは賭だった。
「小癪な!」
距離感を潰されてなお虎が反撃にでてくる。
互いに削り合う中、
「ぐっ……!?」
虎の口から血が滴る。
残念ながら”防人”安吉の刃が届いたわけではない。
「はっ……」
思わず笑った。
毒蛇に毒が効かない道理はない。
強力な毒であるならば、眼球や網膜といった粘膜からでも毒は浸透する。
「出血毒と神経毒をもっと強力にしたもの、だったな」
「き、貴様!」
虎の膝が震える。
顔からは血の気が引き、攻撃の手が止まる。
血を浴びた時、瞬きをしてさえいれば、あるいは防げたのかもしれない。
いや、俺が倒れる方が早かったか、どちらかだろう。
しかし、歴戦の虎は視界を封じるという古典的な手法から逃げなかった。
一瞬の隙も嫌った。正解、だったのだろう。これまでは。
「ぐ、ぐうぅ……」
あれだけ冷静で屈強な虎が苦悶を浮かべる。
当然だ。微量とはいえ、自らの毒に侵されているのだから。大げさにでも避けておけば防げただろうが、俺を格下に見たこと、そんなやつから逃げることを嫌った自らのプライドを呪えばいい。
「ぐ、うぐぐ……」
虎の目がぐるり、と反転するのを待って、ようやく力が抜ける。
「終わりだな」
そう思った矢先、
「シャアァァ!」
「!?」
虎は柳葉刀を白目のまま意識が混濁したままだというのに柳葉刀を振り回す。
もう的確な攻撃ではない。無闇な最後の足掻き。
なのに、それを避けるだけの力が俺には残されていなかった。
「くっ……」
縦横の刃が全身に突き刺さる。
反撃を、そう思っても最早こちらにも余力がない。
ダメなのか――――。
ここまで来て。あと一歩だったのに。
「ツメが甘いのよっ!」
「……うぐっ?」
突然、後ろから声がして襟から引っ張られる。
目をあければ、そこには膨れっ面の裂海がいた。
「あーあー、もうこうなると虎も形無しね」
俺を投げ捨てるようにさがらせると、裂海は腰の刀を抜き、無数の剣戟を避けることもせず、一刀で腕を落としてしまう。
「万全の貴方とやりたかったわ」
捨て台詞まで吐く。
それは俺の役目だったのに。
「よう……はやかったな」
「大変そうだからって急いできたのに、なに諦めてんのよ」
向き直った裂海の笑顔に今度こそ安心できる。
「うる……さい」
「まぁ、でも、ヘイゾーにしては頑張ったのかな」
「うやまえ」
軽口を叩き合っていると妙なものが視界に入る。
裂海の後ろにもう一人、虎を担いでいる裂海がいる。それも裸で。
「ふ、ふたり?」
見間違い、ではない。
現に、もう一人の裂海は俺の視線に気付いて手を振る。
「あ、ああ? あれ? そっか、ヘイゾーは知らないんだっけ」
あっけらかんと笑う裂海。
さらにデッキのドアを開けて何人もの裂海が現れる。
そのどれもが俺を見て手を振る。
「私の固有よ。さすがに服まで分裂できないけど。じろじろ見たら握りつぶすわよ?」
「は、ははは」
これはもう笑うしかなかった。
脳内麻薬どころじゃない。もっと変なのがいた。
「じゃあ脱出しましょうか」
「……まかせるよ」
安心できたのか、意識はそこで途絶えた。