五四話
海が割れ、水がうねる。
鷹司が放った一撃は浮上しかけた水中の要塞を海の藻屑へと変えた。
「あの人、本当に人間か?」
思わず口から出てしまう。
そのくらい常識から外れた光景だった。
「うっ……」
今の光景を見ていたのは俺だけではなかった。
ふと上部デッキを見上げると傷男、虎が驚愕に目を見開いている。
当然といえば当然かもしれない。
「そうだろうな」
上部デッキの虎と目が合う。
こうして身を乗り出していれば見つかって当たり前だ。
――――逃げるか?
そんな考えが頭に浮かんだが、虎の口角が上がるのを見てしまった。
姿をさらしてしまった以上、背中を見せるのは得策ではない。
「時間を稼ぐなら、相手の懐、だ」
意を決する。
遠くないうちに裂海も来るはずだ。
仲間を信じるしか、今はできない。
「……っと?」
上部デッキまで跳ぼうとして、急な吐き気に手を当てる。
せき込むと血が滲んでいた。頭もインフルエンザの時のように熱っぽい。
「遅行性の毒? 今頃?」
ここで弱みを見せるわけにはいかない。
左胸を叩き、血を拭ってから跳び、虎の近くへ降りる。
場所はフェリーの上場部、展望を備えた広場のような場所。
「よくもやってくれたな」
「アレは俺じゃない。うちの副長がやったんだ」
「副長? 誰かはわからないが、今後の反省材料にせねばなるまい」
「反省ってのは次があってのことだ。現状を鑑みるに、望みは薄いと思うが」
「 !」
「 !」
虎と話をしていると、こちらを取り囲むように銃を持った船員たちが集まってくる。
予想はしていてもこれはやばいかもしれない。
「 」
が、虎の言葉であっさりと彼らは後退する。
残されたのは二人だけ。
「援護を頼まないのか?」
「ふっ、貴様を過小評価などできない。刀を隠し持って私の毒に耐え、この船をほとんど航行不能にした」
過大評価してくれるなら構わない。
不利な条件は一つでも除いておきたいからだ。
「お礼、といえるほどのものではないが、こちらからからも一つお披露目をしよう」
「お披露目?」
「大陸ではどんな呼び方か知らないが、この船にアンタ以外に覚めたものはいない。それどころか、大陸には存外に少ないのではないか」
「ほう? どうしてそう思う」
虎が興味深そうに眼を細める。
できるだけこのまま時間稼ぎをさせてもらう。
「一つに、人海戦術をしないこと。アンタと同じ能力が二人いたら人員を二つにして、両端から虱潰しをすればいい、なのに船員たちはツーマンセルで偵察仕様。二つ、揃いの柳葉刀を使っていることと」
吐き気が強くなってくる。
虚勢のために笑みを浮かべて続ける。
「柳葉刀にアンタの毒が塗ってあるのも、全員がそうであるように錯覚させるため。戦力の均一化を図るのは当然でも、柳葉刀なんて普通は持たない」
「推理としては面白いな。だが、貴様がいうところの確証がない」
「三つ、アンタ等は刀を持ち出そうとしている。刀剣の類なら大陸にだってごろごろあるはずなのに、わざわざ刀を持ち出すのは研究する必要があるからではないか。以上、ここから導き出される答えは数の少なさではないか」
虎の言葉を遮り、かまわず続ける。
交渉とは押すタイミングが重要。相手の弱みはできるだけ利用する。
「大した洞察力だ。その大層な口と小賢しいまでの頭は潰しておく必要がある」
「アンタは特徴に溢れすぎている。自分がどれだけ特異な存在であるか、認識を改めた方がいい」
「貴様がそれをいうのか?」
虎が眉をひそめる。
自分の異常性、そんなものはない。
「挑発は効果的にやるものだ。軍人も煽り耐性がない」
「……貴様は、本当に自分の異常性に気付いていないのか?」
「では聞こうか?」
コイツはいったい、なにを言い出すのか。
「貴様の体に注入した毒は私が造ったもの。強力な複数の毒が混じり合っている。普通の人間ならば動き回ることなど出来ずに苦しみ、死んでいる」
「だったら覚えておくといい。近衛、日本の覚めたものには毒は効かない」
「本気で言っているのか? あの皮膚を変質させる小僧を思い出してみよ」
立花のことだ。
だが、口車には乗らない。
「アイツも、今頃回復してる」
「違うな。貴様を捕らえてから血液のサンプルを採り、簡易的ではあるが計器にかけた。あまりに異常だ」
「へぇ、大腸菌でもいたのか?」
「アドレナリン、ノルアドレナリン、βエンドルフィン、ドーパミン、アセチルコリン、メラトニン、セロトニン、あらゆる脳内物質が常人の数十倍の濃度だ。血液だけの簡易検査でこれだ。詳しく計測してみればさらに出てくるだろう。つまり、貴様は狂っている」
「極限まで理知的であるのが信条。嘘は上手くついた方がいい」
アドレナリン、ノルアドレナリンはストレスや抑圧された環境で分泌されるのは知っている。
エンドルフィンは脳内麻薬。人間の三代欲求を満たしたときに分泌される。
アセチルコリン、メラトニンはよく覚えてない。
セロトニンにはひらめきに必要だった気がする。
だが、それが増えていたからどうだというか。
極限状態ならでていても不思議はない。
「状況を考えれば不思議はないはずだ」
「アドレナリン、ノルアドレナリン程度ならば驚きはしない。問題なのはエンドルフィンやドーパミンだ。貴様は、自分の状況が分かっていない。その、鼻から流れる血、足の出血に気付いていないだろう?」
「鼻から血?」
言われてから音に気が付く。
ポタポタ、と白亜の床に深紅が滴り、虎が笑う。
裂海は、まだ来ない。