五一話
「ん?」
異変に気づいたのは偶然、立ち止まってペットボトルの水を飲んでいる時だった。
耳をそばだてても船が波を切る音が聞こえない。
「足が止まった? いや、動いているのか。微妙に、ではあるけど」
船室の一つに入り、窓を開けて首を出す。
天気は曇り、風もかなりある。
見たかぎりでは動いているのかどうかを判別することはできない。
しかし、
「よっ、と」
ペットボトルを海に投げ捨てると次第に離れていく。
動いている。確実に。でも、違和感も残る。
落したペットボトルが大きく右に逸れているからだ。
「なるほど。スクリューは左右二つ」
つまり、片方のスクリューを動かして大きく旋回をしている最中。
あまりにゆっくりだったので波を切る音もしなかったということだ。
「操舵以外で航路を修正している最中。早くしないと元の位置まで戻されるな……」
「 !」
「ッ! しまった」
上からの声が降ってくる。
慌てて体を傾けると、そこには上階のデッキから体を乗り出す船員の姿があった。
「これ自体が囮だったのか」
首を引っ込めると同時に銃弾が窓を割る。
俺が船の動きに違和感を覚えれば、確かめようと顔を出す。
あぶり出しにかかるのは当たり前だった。
「やっぱりカロリー不足はダメだな。思考力までなくなる」
自分にいいわけをしつつ、走る。
「プランその一は棄却。プランその二に移行。ビジネスの基本その二、時間を稼ぐなら相手の手の内」
まだ捕まるわけにはいかない。
裂海の到着までは時間がある。
「……次、次だ」
走りながら考えを巡らせる。
先はまだ長そうだった。
◆
人間の認識能力は視覚への依存度が高い。
格段に高い知能を持つヒトという生物は視覚からの情報を元に事態の予測を行い、それを経験や思考といったものと混ぜて結論を導く。
しかしながら致命的な欠点もある。
それは記憶と混同しやすいことだ。ついさっき起こったことでさえ現在と過去が入り交じる。
簡単にいえばと見間違いをしやすいということ。
「消火器、あとは空き缶」
この策はかなりリスクがある。
が、全く危険のない策なんて今の俺には思いつかない。
「傷男、虎と鉢合うことだけは避けないとな……」
懸念はそれだけ。
とりあえず非常ベルを片っ端から押して船内を走る。
「俺が虎なら、どうするか……」
自分が見つければ確実に捕まえられる自信がある筈だ。
加えて獲物、つまり俺が刀を持っていることを知っている。
だったら部下には無理な戦闘をさせず、見つけたら連絡、後退することを徹底するだろう。
無理はせず、深追いはしない。
情報を集めてじわじわ追いつめる。
「俺なら動かない。どこかに座って報告を待つ。だとしたら……」
それを逆手に取る。
「 !」
「 !」
案の定声がして正面の通路から二人来る。
一人は自動小銃を構えて発砲、もう一人はすぐに無線らしきものを耳に当てた。
「っと!」
足下に突き刺さる銃弾を避けながらもと来た通路を戻る、ふりをする。
近くの角で身を潜め、追って来るであろう足音に耳を立てた。
船員相手なら攻撃力、防御力は格段にこちらが上。
相手側に積極的な攻勢はない。しかし、偵察くらいはするだろう。
それも日本に潜み活動するほど優秀な連中ならば。
「……きたな」
近づく足音に、こちらは足音をまねて強弱を付け、床を叩く。
「……」
普通だったら、こんなのに引っかかったりしない。
よくよく聞けば足音ではないことにも気づくはずだ。でも、今は互いに極限状態。
聞き違えるはずだ。
聞き違えろ。
祈るような気持ちが心臓を圧迫する。
空き缶を置き、手に持った消火器を構えて音をさせないように、浅く呼吸を繰り返す。
一歩、また一歩と二つの足音が、気配が近づく。
空き缶を蹴り飛ばし、一拍の間を置いて飛び出した。
「っ!」
思った通り、銃口は空き缶を狙っている。
船員たちの顔には驚愕。
銃口と無線機が反応する前に白い粉をまき散らす。
「そら、お前はこっち! アンタはあっちだ!」
消火器を投げつけ、銃を蹴り飛ばして二人を別方向へと投げ飛ばす。
当然、二人とも逃げる。
そうしてすぐさま近くの船室へと逃げ込んだ。
「ああ……緊張した」
肩で荒い息をする。
呼吸を整えていると上の階から銃声が聞こえる。それも断続的にだ。
「人間、見間違いをするもんだ」
俺の情報といえば、白い服に黒髪。
遠くから見ればそれ以外に特徴はない。
船員たちは紺色がベースの船員服。それが消火器で真っ白になったら、遠目から見たら分からないだろう。
増して緊張状態、しかも逃げまどうように走っていたら見間違う。
「……一回、二回が限度か」
逃げる方だって撃たれたら叫ぶだろう。
そうしたら直ぐにバレる。
「いいんだ。三分、いや一分だっていい。少しでも注意が向いてくれたら、それで……」
少しでも混乱してくれたら、それでいい。
呼吸が整うのを待って、船室からでる。
次に使う消火器を探しながら機関室へと急ぐ。
プラン二は機関室の停止、もしくは破壊。
鷹司の考えが正しければ近くに潜水艦が潜んでいる可能性が高い。
増援を送り込まれたらそこでアウトだ。
それまでの時間稼ぎをしなければならない。
「空軍はまだか? それに裂海は……」
時間は遅々として進んでくれない。
でも、やるしかなかった。