四四話
歓声と熱気が支配するコンベンションホール。
「失礼いたします」
紺色の上着にタイトスカート姿がまぶしい女性秘書が一礼をする。
確か、県職員リストにいた一人。
タイトスカートのスリットからのぞく脚が素晴らしく、左手の薬指にリングを付けていたので覚えやすかった。
「なにか御用ですか?」
殿下の前にでる。
基本的に殿下を含め、皇族と一般人は面と向かって話しはさせないことになっている。
威厳と体面のためだそうだが、分からなくもない。
「粗茶をお持ちいたしましたが、如何でしょうか?」
「恐縮です」
「……いえ、殿下に、でございます」
一瞬の間が空き、
「……ばか」
殿下に後ろから蹴られる。
しくじった。
こんな冗談が通じないとは思わなかった。
「冗談です。さて、殿下、如何致しますか?」
「……いただきます」
向き直るとふくれっ面の殿下と、必死に笑いをこらえる立花をみてしまった。
うん、立花は後で考えよう。
殿下は帰りの車でお仕置きだ。
「というわけで、頂きます」
「はい」
秘書からお茶のペットボトルを受け取る。
これも基本なのだが、過程が分からないものは口を付けないことになっている。
なので、用意する側もペットボトルや缶など、加工すれば分かるものを揃える。それでも、毒味は必須なのだが。
「開封は……大丈夫」
キャップを捻れば開封の音がして、空気が中に入って少し膨れる。
続いて一口。味も問題ない。
「申し訳有りません。これも規則でして」
「はい、存じております」
斜眼でアピールしてみる。惚れてくれると嬉しい。
「……でれでれ、してます」
「不可抗力です」
殿下にブーツを踏まれるが痛くも痒くもない。
面倒なのだが、こうした場面で受け取らないということはしない。
気遣いを無碍にすれば好感度が下がるからだ。
市販の紙コップにお茶を移し、殿下に渡す。
「さて、どうぞ」
「……いただきます」
殿下は丁寧に頭を下げる。
無論、俺にではない。視線は職員のお姉さん。
「はい、恐縮にございます」
互いに微笑む。
お辞儀をするとスリットが広がって素晴らしい。
「はい、本日は殿下にお越しいただき、県民を代表して御礼申し上げます」
深々と頭を下げる女性秘書。
笑顔、気配り、言葉遣い、どれをとっても大企業の秘書レベル。
地方職員に余る器量。殿下も珍しく穏やかな顔をしている。
「……新潟の人々のためになれば、この上ありません」
殿下が会釈をする。
前もって用意していた台詞ではあるが、悪くない。
心がこもる、とはこのことだろう。
「はい、殿下の御心、県民に伝えたく存じます」
端から見ればほほえましい光景だ。
不自然なくらいに。
「ストップ」
違和感を覚えて、女性秘書の手をつかんだ。
「……どうかなさいましたか?」
「お茶に賛辞とブラフが二つ。本命は指輪を使った暗示か催眠というところでしょうか。立花」
「おう! って、俺には全くわからんのだが」
立花が動けないのは女性職員の笑みが崩れないからだ。
「仰っている意味が分かりかねますが」
「キーワードははい、ですか? 殿下も気づきませんでしたね? 殿下?」
「……えっと、どうか、しましたか?」
殿下は我に返ったように俺と立花を交互にみる。
勘が外れていなければ軽い暗示状態にあるはずだ。
万が一を考えればこれ以上は頂けない。
ここは攻めの一手だろう。
「催眠や暗示は難しいことではありません。一定の動きとキーワードさえあれば案外簡単にかかる。公的な場所に赤い宝石をあしらった指輪は不自然です。それが薬指というのも気にかかる。フォーマルならばシルバーかゴールドが当たり前ではないですか?」
なぜ分かったのかと言われれば、同じ様なことを営業時代にやったことがあるからだ。
クロージングに使うと効果的だったのだが、よい子はマネをしてはいけない。
「私がそのようなことを?」
「貴女は不自然なんですよ、色々と」
気になったのはもう一つ、女性の眼。
普通を装うにしては緊張の色が全くない。
殿下を前にして緊張しない国民はほぼいない。
付け加えるのならば瞳孔が開いている。この人も、あるいは……。
「身体検査でもされますか?」
「そこまでは結構です。指輪をこちらへ」
「わかりました」
素直に答えたまでは良かった。
が、女性秘書は動作の途中で身を翻し、脱兎のごとく逃げる。
「立花より全ユニット、脅威一、ホールの外へ逃走。コールを頼む」
立花が素早くインカムを通して会場を護衛する第五大隊へと状況を伝える。
すると、ものの数秒でホールに非常ベルが鳴り響き、喧噪が沸き起こる。
『土岐より立花、貴様等は引き続き殿下を護衛せよ。外の警備は残し、私と三人で追う』
「承知です。脅威は県職員の女性秘書。装備は不明です。詳細は……」
こうしたとき、日本という国はとても管理が行き届いていると思わせる。
非常ベルから数分で数千人が速やかに避難できる。
広い会場に取り残されたのは殿下と俺、立花に第五大隊の護衛が二人。
「殿下、退路を確保いたします」
「新入り、離れるなよ」
第五大隊の二人は周囲の警戒を怠らない。
「立花、抜刀の許可が下りた。解放してかまわん」
「さすが土岐隊長、決断が早くてらっしゃる」
立花と護衛のやりとりを耳に流しつつ、殿下に向き直る。
「大丈夫ですか?」
「……ちょっと、へんなかんじが、します」
「軽い暗示のようなものです。特に害はないと思います」
確かめるように殿下の柔らかい横腹を突っつく。
「……やっ、さかき」
「未然に防げなかった私の落ち度です。申し訳有りません」
まさか、本当に殿下を狙うなんて思いもしなかった。
「榊、殿下の様子は?」
「大丈夫、だと思う。戻ったら詳しく検査する必要がある」
「防げたわけでは、ないのか?」
「わからない。こういうのは相手の意図にもよるから、何ともいえない」
しゃがんで殿下の顔を両手で押さえつけ、じっ、と眼を見る。
「……なん、ですか?」
「診断中です。しばしお待ちを」
眼の焦点にブレはない。意識もハッキリしている。
たぶん、大丈夫だとは思うが、断言はできない。
こういうことなら心理カウンセラーの資格でも取っておくんだった。
「こちらです!」
県の職員とおぼしき数人が非常口を開ける。
「立花、新入り、退路の確保ができた。非常口を通って海側にぬけ……」
非常口の前にいた護衛の一人が血を流して倒れる。
もう一人も複数の職員に囲まれ、もみ合ううちに倒れた。
職員だと思った連中の手には銀色に光る刃物。
人間を超える近衛が、覚めているものが刺されただけで昏倒する事実に理解が追い付かない。
◆
「嘘だろ?」
思えば、身内以外を簡単に信用するものではない。
二人いた第五大隊士が伏し、残るのは日桜殿下を含めて三人。
襲撃があるとするならば外部からだろうと高を括ったのも落ち度といえば落ち度か。
「職員のなかに紛れ込んでいたのか? それとも罠に嵌った?」
立花が舌打ちをする。
仲間が倒れた原因はわからない。
少し冷静になれば観察する余裕もあったのかもしれないが、目の前で起こっていることが信じられず思考が連続しない。
殿下が狙われるという事実もさることながら、近衛の、覚めたものへの過信が邪魔をする。
「榊、殿下を頼む!」
立花が腰の胴田貫正國を抜き、壇上の演説用の机を片手で持ち上げ、非常口の方へ投げる。
「っ! 立花!」
耳を塞ぎたくなるような破砕音に紛れ、影が飛んだ。
誰もいなくなった大ホールに立つのは、スーツ姿だというのに異質な雰囲気を持つ男が一〇人。
全員が職員に紛れていたのか、それとも潜んでいたのかさえ分からない。
「まずった。本命はこっちだったか」
立花の舌打ちに、男の一人が前へでる。
「こちらも穏便に済ませたかったのだが、露見しては仕方がない。それに……」
鋭い目がこちら睨む。
「せっかくの好機。逃す手はない」
一〇人がそれぞれ取り出したのは明らかに日本のものとは違う極端に刃の薄い湾刀。
「散」
悪夢の始まりだった。