四三話
人、人、人。
見渡す限りの人の群れが目の前にある。
一度に数千人を収容するコンベンションセンターの大ホール、人の群れを一望する壇上に立つというのは、いくら心臓に毛が生えたとは言え、緊張する。
加えて、大勢の聴衆たちは物音一つ立てない。
恐ろしいまでの静寂が場を支配している。
「多様になり続ける社会、複雑化する国際情勢の中で、新たな交流の場所においてお話の機会を得るということは、私にとっても大きな喜びであります」
耳が痛いほどの静寂の中、数千の眼が集中するというのはかなり圧迫感がある。
にもかかわらず、殿下は朗々と謳うかのように言葉を紡ぐ。
寝不足でへろへろになり、乗り物酔いで吐きそうになっていたのが嘘のようだ。
まるで別人。
壇上の袖にいる俺の方が心拍数があがる。
「三年前の一〇月に新港の計画が起こったと記憶しています。開港とは人と物を結ぶ重要な場所であり、これからの我が国にとっても重要なものとなることでしょう」
正直、どうなるかとも思いもしたが読み方の善し悪しなんて些細な問題だったのではないかとまで思わせる。
視線を横へ向ければ、同じく袖で腕組みをする立花と目があった。
心配ないだろう? とでも言いたげに笑みを浮かべてみせる。
「取り越し苦労か」
独り言も出てくる。
サングラスの向こうには群衆。
こんな色付き眼鏡越しでないと直視もできない。
サラリーマン時代でもこれだけの規模になると相当な事前予習と当日エナジードリンクがぶ飲みでもしなければ耐えられそうにない。
「へなちょこというのは、今だけ取り消しましょう」
聞こえないように声援を送ると、
ちらり、と殿下が横を見るように視線を投げかけてきた。
――――どうですか?
そう問いかけてくるような眼差しだ。
「恐縮にございます」
肩を竦める。
大衆を引きつける魅力が殿下にはある、そんな確信を得た瞬間でもあった。
◆
割れんばかりの拍手に会場全体が包まる。
「日桜殿下よりお言葉を頂戴致しました。それではこれより歓談に移らせていただきます。みなさま、お手元のグラスをお取りください。御発声は県知事にお願いを致します」
司会の声に会場が揺れる。
数千人が一斉に立ち上がるのは地響きに等しい。
殿下に代わり、壇上にあがるのは壮年の男性。
資料では帝都大を卒業し省庁へ勤め一昨年退職、地元に戻り立候補。
昨年初出馬ながら県知事に就任し、主に経済政策を重視とある。
「県知事を務めます和泉と申します」
壇上にあがり、深々と頭を下げた男性がちらり、とこちらに目を向ける。
なんとなく嫌な視線だ。
舐め回すような不躾さがある。
「それではみなさま、新潟県の益々の発展を祝しまして、乾杯!」
「「「「乾杯!」」」」
無数の声が唱和し、再び拍手と歓声が沸き上がる。
これで式典の大部分は終わった。
この後は懇親を兼ねた交流会があるだけ。
殿下の仕事はもうない。
「殿下、戻りましょう」
「……もうすこしだけ、ここに」
「大体終わりましたよ」
「……このねっきを、もうすこしだけ、かんじたいのです」
殿下の視線の先には笑顔で語らう人々がある。
このために来たとでもいいたげに、言葉を交わす姿に見入る。
立花に視線を送れば困ったように、曖昧に笑う。
少しくらいは、ということに解釈する。
「まぁ、いいでしょう」
このくらいは、自由にさせてあげたい。
今だけは。
帝都に戻れば、また多忙な公務が待っているのだから。