一話
白が見えた。
それが天井の色なのだとは最初、分からなかった。
「うっ……」
目を動かすとそれだけで気分が悪くなる。
頭がひどく重い。
それにマラソンを走った後のような倦怠感がある。あるいはビールばかり飲んだ翌日の二日酔い。アレに似た最悪の感覚。
もう少し寝ていよう。
こんなにも気分が悪いのに、目を開けてなんていられない。
不快感を振り払うように目を閉じ……れなかった。
なんで、俺は寝ているんだ?
会社は?
家は?
仕事は?
いくつもの考えが浮かぶ。
そんな中で手からあの愛しい感触と重みが消えていた。喪失感。今まで味わったことのない耐え難いものが沸き上がる。
あの愛しい重さを得た切っ掛けは、あの変な外国人たちだった。そして、俺は奴らに、
「――――そう……だ」
切られた。
とっさに喉を手で押さえようとしたのに身体が動かない。
力が入らないからじゃない。首の下が動かないのは体中が縛られているからだ。
「なんなんだよ、これ」
抜けられないか、あるいは切れないか、と考えたが、途中で止めた。
待て、落ち着け、冷静になれ。
焦ったままでは最適な考えには至らない。
「ふぅ」
荒くなった呼吸を整えて状況を整理する。
まず傷だ。
切られたはずの喉に痛みはない。身体に不快感はあるが、あとは大丈夫だ。
深呼吸をして唯一自由な目で、不快感を押し退けながら見渡す。
大して広くもない部屋。窓はなく、あるのはドアだけ。
部屋には俺のいる鉄格子のような柵が付いたベッド。
ここはどこだ。
それに俺は――――。
切られたなら普通は病院のはずだ。しかし、病院ならこんな縛られることはない。
白衣に着替えさせられたのはいい。縛られるのも、百歩譲って大目に見よう。最大の疑問は切られて、あんなに血が出たのに生きている、無事だということ。
噴水のように血が吹き出して、あんなに痛かったのに、今は何ともない。
治療されたとしても痛みは残るはずだ。
「まさか、ここが地獄?」
口にしてみて笑った。
これは現実だ。
不快感があって、心臓が動いている。だったら地獄であるはずがない。
それにしてもなんて日だ。
コンビニまでは普通の日だったはずなのに、今はこうしてベッドに括り付けられている。
考え事をしているとドアが開いた。
「目が覚めているみたいだな」
ドアの前には女。
黒くて長い髪に切れ長の瞳、どこか猛禽類を想像させる気高さ。
美人で、気が強そうだ。そこまでならモデルかグラビアアイドルにも見える。
ただし、女性が着ていたのはドレスでもなければ水着でもない。白を基調とした服装は時代錯誤のように古めかしい軍服、というか軍服に似たもの。
「誰、ですか?」
サラリーマンとしての矜持、鉄壁の理性はこんな状況でも敬語を紡ぐ。
女は無言。
「気分はどうだ?」
愚問だ。
こんな状況でいい気分はしない。
「……良くはないですね」
「そうか」
女の顔が近づき、頭の天辺から爪先までを視線で舐め回される。
あいにく、こちらに視姦される趣味はない。
数瞬の後、観察が終わったのか女は姿勢を正すと拍手をした。
「おめでとう」
まったく嬉しくなさそうな賛辞。
つり上がった眼が細くなり、唇が弧を描く。
笑顔だったら天使に見えたかもしれない。
「君は“特別な力”を手に入れ――――」
「特別?」
ここまでならば、俺も冷静でいられただろう。
「――――そして自由を失った」
だが、事態は思いもよらない方向へと進んでいた。
◆
沈黙は何分も続かない。
「い、意味を教えて頂けますか?」
「ああ、もちろんだ」
女は鷹揚に頷き、懐から丸いモノを取り出すと、こちらに向けてくる。
「自分の首が見えるな?」
手にしているのは鏡。
首には左右の頸動脈を縦断するように裂けたような古傷がある。
「貴様は切られた」
「……それは、覚えています」
「ほう、記憶があるのか。ならば話しは早い」
女の口元には笑み。
見透かしたような、気にくわない顔だ。
「傷はかなり深かった。私が到着したときには辛うじて頸椎で繋がっている。そんな状態だったな」
聞いているだけでも気分が滅入る。確かに、あの時はヤバかった。
「……ヤバかった?」
口にして、自らの言葉が疑問へ変わる。
あれは、あの傷はヤバいなんて程度じゃすまされない。首、それも頸動脈を切っていた。
「ふっ」
女の笑みが皮肉へと変わる。
「そう、貴様の考えるとおりだ。あの傷では助からない。普通ならば、な」
「普通じゃない、それが“特別な力”ってことですか?」
「さすがに社会人ともなれば落ち着いている。騒ぐ学生相手に説明するのは面倒だが、これならいい」
「は?」
「こっちの話しだ。力というのはそれだけではないが、一端だと思えばいい。その一端が貴様を助けた……」
女が少し考える仕草をする。
「いや、まぁ、いいだろう」
なんだ、気持ち悪いから話せ。今すぐに。
「急いた顔をするな。物事には順序がある」
知るか、そんなもの。
状況考えろ。
「ここでも良いが、その格好では不便であろう。意識もしっかりしている。これなら大丈夫だな」
女が拘束を解く。
ようやく自由になったからか、体が軽い。
「さて行くぞ」
「行く?」
痕の残る手足をさすっていると女がドアの向こうを指し、
「上だ」
上を指差す。
もうすぐ帰れる。このときはまだ、甘い考えでいた。