三四話
カードとはステータスである。
クレジットカードの種類といえば一般的にゴールド、プラチナ、ブラック。
俺が知るのはこのくらいまでだったが、世の中、上には上が存在する。
それがこの五菱から発行されるパラジウムカード。
「……こ、これが!」
思わず手が震える。
このカードに限度額はない。
つまり、その気になればなんだって買えてしまうことになる。
外出の朝、鷹司に呼び出されて執務室まできてみれば、手渡されたのがこれだった。
「ああ、使う時の注意、いや外出時の注意にもなるが」
「へっ?」
鷹司が鋭い目を向けてくる。
なんでもいいから早く使わせてほしい。
「お前を知っているところはダメだ。公式には死人になっているのだから、バレては面倒になる。サングラスでもかけていけ」
「……はい」
「カードに限度額はないが基本的にはお前の口座から引き落とすことになる。それを忘れるなよ」
「……わかりました」
母親か。
うるさいにもほどがある。
暫しの苦言を頭の中を空にして受け流し、解放の瞬間を待つ。
「……こんなところか。以上だ」
「承知しました」
「あとは、これだ。持っていけ」
手渡されたのは漆塗りの真っ黒い鞘に包まれた、
「……短刀、ですか?」
柄と鞘に金色の縁塗がなければ刀にも見えない。
刀とわかったのは覚めた部分が反応したからだ。
「護身用の一振りだ。近衛は任官するとこれを常に帯びる。人によっては体に埋め込むものもいるが、それは任せよう。この状態ならば水も入らんから、風呂にも持っていけ」
「風呂もですか?」
「全裸を狙われては元も子もあるまい?」
「間抜けではありますね」
確かにそんな話も聞いた。
受け取って引き抜こうとすると引っ掛かる。
「柄を少し回せ」
言う通りにすると音がして抜ける。
なるほど、これが防水対策。
「分かっているとは思うが、揉め事は起こすな。あと、事件や事故への介入も極力避けろ」
「極力、ですか?」
何となく含みがある。
「人命が最優先だ。報道機関への露出だけは避けろ。近頃では揉み消しも面倒でな」
「わかりました」
近衛の状況を考えれば分からなくもない。
心配そうな鷹司を尻目に、敬礼をするとそそくさと部屋をでた。
◆
「きた、ついにきた!」
念願だった外出が叶う。
まずは服だ。
帝都の中央区、銀座へと向かう。
「いらっしゃいま、せ?」
近衛仕様のジャージで入店したときは懐疑的だったブランドショップのスタッフも、
「ありがとうございました♪」
帰る頃には笑顔。揉み手でもせんばかりだ。
買いそろえたのは英国貴族御用達のスーツ一式。
もうサラリーマンでもないのだが、夢ではあったし、なによりスーツというのはどこでだってウケがいい。至極無難でもある。
なにより気持ちよかったのはパラジウムカードを見た時のスタッフの顔。
懐疑的な目が一瞬にして変わる様はもはや昇天の域ですらある。
ああ、コレだから金は素晴らしい。
ひとつだけ気になったのは、ネクタイピン。
光り物をみると、どうしても刀の反射を思い出してしまう。
特に銀色の細長いのをみると裂海と刀が浮かぶ。
完全にトラウマものだ。
「まぁ、いいや。これで服は問題ない。さて、次はどこから攻めるか」
頭を振って悪夢を追い払う。
銀座といえば高級ブランドのショップが立ち並んでいる。
片っ端から、いやそれでは成金と変わらない。
まぁ、成金なのだが、ここはクールにスマートにしたい。
「とりあえず時計だな」
スーツとくれば次は小物。
時計に、財布。このあたりだ。
「テンションあがるな」
足取りは軽い。
まだ、この時は。
◆
買った。
憧れた腕時計に高級小物の数々。
ネックなのはやはり戸籍がないこと。
株や投資ができないので明日への楽しみがない。
それでも三千万ちょっと。
サラリーマンだったころに比べたら買いに買った、そのはずなのに。
「……なんだ、この空しさは?」
押し寄せるのは表現し難い虚脱感。
買い物をしている間もチラつくのは目前に迫った裂海の刃、背筋が凍るようなあの太刀筋。
死と隣り合わせだったあの瞬間を想像すると、なぜか空しく感じられた。
まぁ、買っている間は良いのだが、問題は終わった後だ。
買い終わるたびにいちいち思い出していてはキリがないというのに。
「食事だ、何かおいしいものを食べよう!」
気を取り直して以前から調べていた三ツ星の店に向かう。
空腹が悪い。
悪い考えが浮かぶときは腹を満たすに限る。
一方的に決めつけて足早に雑踏をすり抜ける。
◆
「オマール海老と桃のゼリー寄せ、でございます」
シャンパンを飲んでいると、冷前菜が運ばれてくる。
手には最高級の酒、テーブルには料理、少し視線をずらせば夜景。
「絶景かな」
帝都東京の心臓部、中央区にある複合ビルの最上階。
少し前までなら手が届かなかったところにいる。これも金の力様々だ。
「ふっふっふ」
黄金の泡を飲み干せば、
「なにかお持ちしますか?」
ギャルソンは実に優秀だ。
リストを見ることもなく数種類のワインを挙げてくれる。
正直、ワインの種類は膨大すぎて分からないから、ここは任せるのが最善だろう。
「料理に合うものを、あとはお任せします」
「畏まりました」
今のオーダーは非常にクールでスマートだったのではなかろうか。
値段で一喜一憂することもなくストレスがない。
「さて」
ナイフとフォークを手にすると、
「……いかんな」
どうしてもナイフのエッジが気になる。刀に似ている気がしてならない。
ナイフなんて近衛の食堂でも使っているのに、ようやくあの血なまぐさい場所を離れたのに、こんな場所なのに気になってしまう。
ダメだ。意識するな。
自分に言い聞かせて冷前菜を口にする。
「旨い」
のだが、なぜか感激の度合いが薄い。
どうしてだろうと考えてみると、あれだ、食堂だ。
あそこの料理と比べてしまう。
加えて、一人というのも良くない。
サラリーマン時代は一人で外食をするのが当たり前だったのに、ここ二か月で殿下裂海、立花に囲まれて食事をする習慣がついてしまった。
そのせいか、一人でいるとつい色々と考えが巡る。
だめだ。
切り替えろ。
自分に言い聞かせて食事に向かう。
「フォアグラのポアレ三種類のベリーソースでございます」
次の肉料理にロゼワイン。
「スズキのブレゼ初夏の野菜添えでございます」
魚介料理に白ワイン。
「夏鹿のローストサマートリュフ添えでございます」
メインにはやはりに赤ワイン。
「旨い……」
はずなのに、やはりどこか物足りない。
「なんだ? どうしてだ?」
ワインもかなり良い値段がするのだろう。
花束のような香りも、蜂蜜を溶かし込んだようななめらかさも、感じ取れはする。
しかし、真っ赤なワインがどうしても血に見えてしまう。
そして、どうしても味気ない。
「どうかされましたか?」
「いや、なんでもない」
「お口に合いませんでしたか?」
「……大丈夫だ」
不審そうにするギャルソンを制して立ち上がる。
「失礼、急用ができてしまいました」
「左様でございますか」
支払いを済ませて早々に店をでる。
そのままブラブラと眩しいばかりの街灯の下を歩いた。
かなり飲んだのに、少しも酔えていない。
そんなに酒は強くなかったはずなのに。
「っと、失礼」
ぼんやりしていると肩が何かにあたる。
顔を上げれば、そこには金髪に刺青、じゃらじゃらと金属をつけた、絵に描いたようなチンピラの集団がいた。
「お兄さん、今の痛かったよ~」
「それは申し訳ない」
こちらの不注意なので頭を下げる。
「良いスーツ着てるね!」
一人が肩に手を回してくる。
汚ならしい溝鼠に這い回られる気分。
「痛かったから慰謝料ほしいなぁ」
「そうそう、治療代治療代!」
喚き始める。
カモを見つけた気分なのだろう。
いつもならこんなヘマはしない。都会を歩くなら尚更だ。
「ちょっとあっちまでいこうか」
まんまと路地裏に連れ込まれてしまった。
「金出せよ!」
おお、表現が直球になった。
チンピラの手にはナイフ、人数も多いせいなのか完全に見下してきている。
「肩が当たったことについては謝りましたよ?」
「謝っただけですむのかよ!」
「治療費っていってんだろ?」
清々しいまでのクズに和んでしまう。
こちとら朝から晩まで刀を相手にしていてナイフ程度では怖いとも思わない。
それに、腰には鷹司から持たされた脇差しが挟まっている。
が、ここは彼らの更正を優先したい。
「金はない」
諸手を上げる。
「舐めんなよ!」
「殺すぞ?」
「金がないならカードでもケータイでもだしな! 持ってんだろ?」
ナイフが首に当たる。
せっかくなので首を伸ばした。
皮膚に鈍いながらも刃が食い込み、血が滴る。
「わっ、バカか?」
慌てて引っ込めようとした手を掴み、流れる血を見せつける。
「ダメだろ、途中でやめたら」
首の皮膚は薄く、すぐ下には軟骨、気道がある。
逃れようとする刃を押し込めば口から血が溢れる。
一般人だった頃ならすぐに財布を差し出すところだろうが、毎日のように切られていたら痛みにも苦痛にも慣れる。
この程度、なんともない。
「人を、切る、のは、イヤなものだ、ろう?」
喉に血が溢れ、噎せるようで巧く話せない。
「ひぃぃ?」
「な、なんだ、コイツ?」
「イカレてやがる!」
チンピラの集団は驚き、俺が手を掴んでいる一人を残して走り去ってしまう。
なんだ、根性のない。
「お、お前が悪いんだからな! 俺はやってない!」
残された一人は涙目で首を振る。まぁ連れない。
「ほら」
手を離すと、勢い余って尻餅をつく。
「金はじ、ぶんで、かせげ、よ」
「わ、わぁぁー!」
行ってしまった。
少しは彼らの薬になっただろうか。
「んんっ、げぼっ、えほっ」
咳をして血塊を吐き出す。
「ちょっと悪趣味だったかな」
でも、少し楽しかった。
こうしている間にも傷は治り、元通りになる。
残されたナイフを握ると簡単に砕けた。
「こんなの、裂海に比べたら子供だましも良いところだな」
なんといっても圧迫感が違う。
差し迫った恐怖がない。
「だいたい、死ぬことについての考えが薄っぺらなんだ。簡単に殺すとかいうもんじゃない」
殺すことへの恐怖、死への恐怖を軽視しがちだ。
死んだら、それこそなにもならない。
――――死か。
「……そうか、そういうことか」
自分の心に気がついてしまう。
正式所属となった今、このまま近衛を続ければ最前線にでて戦うことになる。
それはイコール死に近づくことになる。
この先、どんなに金を稼いでも、ブランド品も、時計も、すべては無意味になる。
友人がいてくれたなら奢って、せめて優越感に浸ることができる。が、今の俺は死人だ。連絡をすることはおろか、遺すことさえできない。
時間を共有する楽しささえ今はない。
「……そう、いう、こと……なのか」
孤独。
空しさの名は孤独。
裂海や立花が出かけない、ほとんど通販で済ませるという理由が、分かった気がした。
「……これは、キッツいな」
高価なスーツが妙に重たく、鬱陶しく感じてしまう。
一人で食べる食事も、なんと味気ないことか。
これなら近衛の食堂で食べる方がマシだ。
どれだけ高い時計、小物であっても見せる相手がいなければ、価値がわかる人間がいなければ同じ。
「はははっ」
思わず笑ってしまった。
金とは、なんと便利で、万能で、これほどまでに寂しいものか。
こんなものに自分はすがり、欲していたのか。
「おれが、ほしかったのは、こんなものなのか?」
爽快感の欠片もない。
先程までの優越感はいつのまにか消え去り、心を埋めるのは空しさだけ。
なのに、腕に巻かれた時計は今を刻み、極上の装いは羨望を集める。
ものの価値、その行方が今はわからなくなり始めていた。
「……なんのために」
呟く、が答えは出ない。
求めていたもの、その正体について、俺は見誤っていたのかも知れなかった。