二九話
殿下の護衛を終えて、急いで自室に戻る。
「勝つ、勝つんだ」
勝って望みを叶える。
金、ブランド、欲しいものが山ほどあったはずだ。
殿下の言葉で思考が揺らいでいるが、今はこっちを優先する。
なにせ、一億。一億なんだ!
そのためには、根本から見直さなくてはならない。
不利な相手に挑むとき、いや、そうじゃない。
難しい交渉、商談に挑むとしたらどうしていたのか。
わかっていることの列挙から始める。
「裂海優呼について……っと」
千葉県出身、一八歳、女、身長一五五センチ、体重は不明。
視力は左右二.〇、利き腕利き脚ともに右、近衛であった祖父に幼少期より剣術を学ぶ。
裂海流宗家次期当主で、居合いの達人。
「これだけだと、勝てる要素がないな」
残念ながら付け入る好きがない。
素人に毛の生えただけの俺とではあまりに差がある。
だとしたら、もっと別の角度から見なければ。
この情報のなかで、俺が勝っているものはなにか。
身長、体重、年齢。
「高さ、はダメだな。跳ばれたらおしまいだ。体重、質量は条件次第。純粋な重さだけならまだしも、雨乞いの太刀の超重量はまともに相手ができない。年齢、経験値は……未知数すぎるか」
どれもが決定打にならない。
「あとは性別と、自分の特技と結びつけるしか……」
特技は軽い話術と心理操作、カラーコーディネートを含めた色彩分野。あとは簡単な統計学。
性別と話術は……今のところひっかからない。
心理操作は有効そうだが、はたしてどこまで真に迫れるのか。
直情そうで思考の根が深い裂海にどこまで通用するかも未知数。これらは一つの手段として持っておいて、もういくつか確実なものが欲しい。
「カラーコーディネート、いや色彩心理学の方がマシだな」
考える間、ふと自分の腕に眼を移す。
洗ったはずなのに二の腕には血のあとが残っている。
「血……赤」
そういえばあの日、最後に絞めたネクタイは赤だった。
白のワイシャツに赤いネクタイは大統領でも使う基本的なコーディネート。
白の説得力と、赤の情熱を押し出す鉄板とも言える組み合わせ。
「いっそ、真っ赤な服でも着てみるか」
赤は膨張、前進色。
裂海でも少しは見間違いをしてくれるか。
「……見間違い、それだ!」
頭のなかで稲妻が走る。
女、赤、膨張、前進、見間違いと思考の鎖が繋がり始める。
が、もう一つ足りない。
「女、だけだと限界だな。じゃあ人間、類人猿? 哺乳類まで広げるか?」
人間、ホモサピエンスが持つ特徴、類人猿、哺乳類から引き継がれる特徴はなにか。
優れるものでいえば視覚。そして聴覚。
物を見るだけなら昆虫の複眼、あるいは猛禽類のものが秀でているし、聴覚ならばコウモリや海洋哺乳類がずば抜けている。
しかし、そこに色彩と立体を混ぜると話が違ってくる。
複眼の弱点は色の識別がしにくいこと、猛禽類は周辺視野が狭い。
コウモリは超音波に近い高周波が聞き取れるが、一定以上の音量に弱く、海洋哺乳類はそもそも水という便利な伝達物質がないと聴覚も半分も効果を発揮できない。
「人間だって哺乳類だ。ヒトという哺乳類を狙うなら最優先で視覚、次に聴覚になるか。この二つを物理的に潰せば、どんな達人だって……」
案が固まり始め、具体的な策を並べられる。
人間の感覚は五つ。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。
最重要の二つを何とかすれば、嗅覚、触覚、味覚では戦えまい。
段々とイメージができてくる。
同時に、心臓が高鳴る。
戦う事への恐怖、外出できない苛立ちが消えて、サラリーマン時代にあった商談に向かうときのような期待感さえあった。
「まずは視覚を、距離感を封じる。次は……」
思考が加速し続ける中にあって、殿下の星を湛えた瞳の奥が胸を刺す。
いや、今は、と振り払うように没頭する。
この日、裂海への対策は夜中までかかった。




