プロローグ その二
仕事が終わって、気がつけば夜。
外回りの時は青かった空も赤を過ぎて黒に変わっている。
疲れた。ったく、アホのフォローは肩が凝る。
腕時計の針はもうすぐ二二時になろうとしている。業者への連絡をしていたらこんな時間になってしまった。料金が少しばかり高かったが、まぁいい。
「部長への覚えもいいだろう。これで次の春には係長かな」
二五歳で係長なら社内でも異例の早さ。でも俺ならやれる。
「ふふふ。今日は前祝いだな」
帰りの道すがらコンビニ立ち寄る。
普段は夕食をする店も決まっているのだが今日はもう遅い。ビールと惣菜を買って外へでると風が吹いた。
前祝いには良い夜。
そんなことを考えながら角を曲がった時だった。
「――――うぐッ?」
思わぬ衝撃で尻餅をつく。
痛みが尾骨から脳天に駆け上がり、一瞬遅れて体を支えた腕に痛み。
なにが当たったのか、目の前がチカチカする。
反射的に頭を振り、自分の顔を触っていると白黒だった視界が色を取り戻し始めた。
「なんなんだ、ったく」
鼻が痛い。
腕が痛い。
それ以上に、尻の下には嫌な感触がある。
クソ、さっきコンビニで買った惣菜だ。
「いってぇ……誰だよ! ちゃんと前を見ろよ!」
当たった箇所をさすりながらうっすらと目を開いた。
腹の上に何かがある。
銀色で細長い棒。
微妙に反っていて、腹にのしかかる感じは見た目の割には重い。
「あん?」
刀?
そう思った時、手が伸びた。
もちろん俺のじゃない。
目の前にはいつの間にか強面の外国人が数人。一人がアタッシュケースを持って、あとの数人は俺に背を向けて、激しく首を動かしている。何かに怯えているようにも見えた。
「な、なんなんだ。アンタ等は?」
アタッシュケースを持った一人が白い布を刀に被せる。まるで俺のことなんて気にも留めていない。
「おい!」
くそが!
そう思い、怒鳴った。
普段なら口にはしない。
でも今は怒りが勝る。謝りもせずこちらもみない。なんてやつらだ。
「おい、聞いてんのか!」
「……」
そこで初めて外国人、たぶん大陸系の男と目があった。
黒い髪、細い顔に細い目。チンピラのような真っ赤なシャツがまるで似合っちゃいない。無理矢理着ているかのような違和感がにじみ出ている。
「閉嘴」
「はぁ?」
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。
鋭く、短く、それでいて強い言葉。普通とは言い難い男の眼力が俺を貫く。
「なんだよ、これは立派な傷害だ。警察を呼んでつきだしてやる!」
言い返してやろう。
体を起こそうとしたのに、そのまま後ろに倒れてしまった。なぜ、どうしてと考える前に原因がわかった。右手がいつの間にか刀を握っていた。
刀。
名前も形も知っている。でも手に取ったことはない。
どんな重さなのかも、テレビやネットで騒がれる切れ味も、本当のところは知らない。
たぶん、良く切れるんだろうな。認識としてはその程度だ。それが手の中にある。握っている。
――――そう思った瞬間に思考が沸騰した。
色を持っていたはずの世界が真っ赤に染まる。
体中の血液が泡立つような錯覚と感覚、細い支柱に逆さまに立つような背筋の冴え、指先から広がる電流。あらゆるものが綯い交ぜになって迸る。
歓喜にも、絶望にも似たそんな感覚に支配された。
「―――っははは、ははははははっ!」
訳もなく声が溢れる。
頭が痺れて体が熱い。
頭の天辺から爪先までどっぷりと幸せという液体に浸かっている様な、そんな感覚が押し寄せてくる。
「良い! なんて気持ちいいんだ!」
陶酔と快楽に続いて全能感、或いは万能感ともいえる感覚が襲ってくる。
全ては一つで一つは自分。
なんでもできる、どんなことでもやれる。
全能感の中で、喉が灼けた。
男の手には大きなナイフ、切られたのだと理解した頃には真っ赤な花が咲き、脳が悲鳴を上げる。
灼けたと思ったのは痛み。花は鮮血。
普通なら手で首を押さえていただろう。なのに、俺の手は刀を握ったままだった。明滅する視界の中でも刀は美しい。
一振りを手は何よりも大事そうに、誰よりも愛おしそうに放しはしない。
そう、俺の命よりも。
高揚感に包まれながら、意識は消えていった。