二六話
このところ、毎日続く習慣がある。
ほとんど同じ時間、同じタイミング、キッカケも同じ。
「おぇ」
吐くことだ。
「げほっ、えほっ!」
出てくるのは血。
切られ、突かれて、殴られ、ボッコボコにされたのだから胃の中なんて血だらけ。
胃から上がってくる鉄臭さと嘔吐感に耐えられない。
「ちゃんと掃除してよね?」
「う、うるせー」
こういうときの裂海は素っ気ない。
普段の明るさや天真爛漫さを一切見せてはくれない。
くそが。
このところ、毎日のように立花とも稽古をしているのにまるで歯が立たない。
「毎日毎日やってるのに慣れないの?」
「こんなの、簡単に慣れるかよ。喧嘩すらしたことないんだぞ?」
「イマドキの若いものは軟弱ですなぁ」
「暴力に訴える理由がないだろう? 普通は手を出したら負けなんだよ」
「そうかな、力じゃなければ解決しないこともあるよ」
裂海はそそくさと着替えだす。
胴着を脱ぎ捨てると白い下着が見えた。
小振りな胸も、引き締まった腹部も、しなやかな下半身すら隠そうとはしない。
つまり、俺を男としてみていない。
「ヘイゾーのせいで汗かいちゃった。哨戒前にシャワー浴びたいなー」
ちなみに、これは誉めているらしい。
汗をかかせられるようになった。コイツはそういいたいらしい。
いや、こういわせるだけマシなのか?
「へっ、ざまぁみろ」
「その割には一太刀も届かないけどね!」
「うるせー」
「当ててから威張ってくださいー」
長大な雨乞いの太刀を鷲掴みにし、最後に帽子を被る。
帽子だけは海軍のもの。
これから海軍と合同で夜の哨戒、つまり任務にでる。
いったい、いつ寝ているのか不思議になるスケジュールと体力だ。
「ヘイゾーが手伝ってくれるようになるのは、随分先かなぁ」
「す、ぐに手伝って、やんよ」
「期待してるね! じゃあ、また!」
床でのたうち回る俺を後目に、笑顔で行ってしまう。
下手に介抱されるよりは惨めさは消えてくれるか。
「うぷっ」
呼び戻しのような嘔吐感に、口を押さえ、道場の外へと走る。
その間にも押さえきれない胃液と血の混合物がせり上がり、手の隙間から漏れる。
これ以上掃除の手間を増やしたくない。
「っは、まに、あっ……うげっ……」
地面にぶちまける。
いつ見てもイヤになる量。
成人男性でさえ三割の血を失ったら死ぬ。
それ以上でていそうなのに、覚めているからか、それとも裂海の絶妙な加減なのか死んではいない。
「ずいぶんとお楽しみだな」
声に顔を上げる。
道場の庭から本部へと続く石畳に鷹司が薄ら笑いで立っていた。
「これの、どこが、お楽しみなんで、すかねぇ」
嘔吐は胃が空になるまで続く。
食道も喉も、口の中ですら胃液でヒリヒリしてくるというのに、これが楽しいのは被虐趣味のヘンタイだけだ。
「楽しいだろ。ここで吐くだけなら大丈夫だ。ここでなら、な」
「……どいつもこいつも壊れてるよ」
まだ安全だと言っているつもりらしい。
「どうだ? 裂海には勝てそうか?」
「見て、分かるでしょう?」
「分かるからこそ聞いている。手は届きそうか?」
「一太刀も当てられませんよ。アイツと俺じゃあ才能も器も違います」
「なんだ、分かっているのか」
驚き、嬉しそうな顔をする。
鷹司は、別に俺をバカにするつもりはない。事実を確認していいるだけ。
俺にだって分かる。裂海の情熱と探求心、飽くなき向上心は本物だ。
心も含めて、並大抵ではアイツには届かない。
「分かるだけ大したものだ」
「……畑違いだから、でしょう。サラリーマンにだってオリンピック選手の偉大さは分かりますよ」
「なるほど、いいえて妙だな」
「これで勝てとか、俺を幽閉する気ですか?」
「バカ、だから戦わせたんだ」
「はぁ?」
一転、目が点になる。
せり上がっていた胃液混じりの血も引っ込んでしまう。
「貴様、会社にいた頃はずいぶんと暴れ回ったそうだな」
「……失礼な。善良な営業マンでしたよ」
「隠すな。真っ当な、それこそ教科書通りの文句ではペーペーが大口の契約など結べるものではない」
「俺の才能だとは言ってくれないんですか?」
「うっかり口を滑らせたのだと思ったら、誘い込まれていた」
「なんです、それ?」
「酒が入ると口が軽くなる、そう思っていた」
「……」
「自分のことをよく話す。ただし、どうでもいいか、大概は嘘ではないものの、ホラが多い。よく話す、酔うと陽気になる、自分のことを積極的に話す、共感覚を呼ぶものだそうだな。若いのによく計算されている」
筒抜けらしい。
本人を前にネタバレは止めてもらいたい。
「今のは取引先、同僚、上司、様々な人間からの総評だ。相手の懐に入り、簡単ながら心理学を用いて駆け引きをする。どこで覚えた?」
大学時代、心理学を専攻していた知り合いがいたからだが、正直に答える義理はない。
「貴様は裂海と同じだ。目的の為なら手段を選ばない。そんな人間が、欲したもののためにどんなことをするのか、私は見てみたい。貴様が持てる全てを使い、裂海に挑む姿が見たいのだ」
「どうですかね。もう使ってこれですよ?」
必要な部分は聞いた。
結果は現状で勝てないの一点に尽きる。
「アスリートと同じ土俵で勝負しているのにか? だとしたら私は買いかぶっていたようだ。しばらく今のままでいてもらおう」
「……安い挑発ですね」
「ならば少し高くしよう。勝ったら一億だ」
「お、億?」
思わず息が詰まる。
「ついでに携帯電話もやろう。特別に許可をだす」
「ま、マジっすか?」
「私に二言はない。まぁ、これで貴様がどれだけ奮戦してくれるか楽しみだ。ついでにいえば、奮戦の挙げ句に負けてくれれば尚嬉しいが」
「い、言いましたね!」
「ああ」
鷹司がふんぞり返る。
億、億。
そうだった。
俺は金が欲しいんだった。
ついでに言えば外出して使いたい。
「が、頑張りますけど……」
「大いにやれ」
本当にできるのか?
悩みが頭を埋める。