五話
緊張の根源は大きく分けて二つ、恐怖と興奮にある。
サラリーマン時代から前者とは縁遠かった。周到な準備と己の知識さえあれば恐怖は遠ざけることができたからだ。
逆に、後者の経験は多かった。大きな商談やプレゼンに臨むとき、難しい交渉も準備の甲斐あって失敗したことはない。
近衛になってからは一度目標を失い、そこからは固執するものが無い。だから、自分がこれまでしてきたことを繰り返すだけだった。自信、いや自負というのだろうか。こうした部分に揺らぎはない。
それでも、
「…………」
ただ、相談に乗るだけだ。
そう自分に言い聞かせても心臓は早鐘を打つ。
これまで日桜殿下から相談されたことはない。いや、日桜殿下は誰にも相談はしない。自らが悩み、決める。それがどんなに苦しいことであろうとも、だ。
俺自身、体に悪かったり、成長を阻害するようなことは諫めたことはあったが、それ以上干渉はしていない。
自分がやろうとしていることは、殿下の不可侵の領域に踏み込むことだ。
もしかしたら、これまで築いてきたものが崩れてしまうかもしれない。殿下との信頼関係にヒビが入ってしまうかもしれない。いや、そもそも信頼関係などなかった、主と臣下の関係だったことを突きつけられてしまうのではないか。
日に日に険しくなる日桜殿下の表情を見ていると、そんなことを考えてしまう。
以前、頼ってほしいと申し出たことはあっても、現実になったことはない。それが何を意味するのか、考えれば当然とも思う。
殿下の気を紛らわすだけなら、いくつも案はある。
しかし、相談となると話は別だった。
「……さかき、さかき」
殿下の言葉に現実に引き戻される。
気付けば殿下の食事が終わっていた。
「失礼しました。ただいまお茶をお持ちします」
嫌な考えを振り払って皿を片付け、お茶の用意をする。
茶葉を入れた急須にお湯を注ぎ入れようとしたところでこぼしてしまった。
我ながら滑稽だ。
緊張が限界に達している。共和国の虎、白凱浬、欧州の騎士王、雷帝、誰を前にしても顔を出すことのなかった恐怖が手を震わせていた。
「明日にしよう」
このままではお世話にまで支障が出る。今は余計なことを考えず、夜までに策を練ろう。この後でアシュリーに相談してもいい。彼女なら簡潔な答えをだしてくれるかもしれない。
そうと決まれば今は給仕に集中しよう。頭を振ってから頬を叩く。
新しいお茶を淹れ、蒸らすための時間を待っていると袖が引かれた。
「……さかき」
「で、殿下、どうかされましたか?」
「……どうかしているのは、さかき、です」
「私はどうもしていません。普段通りですよ」
「……うそ、です。まばたきがおおいですし、しせんが、およいでいます」
「そうですか? 殿下の気のせいです」
「……ても、ふるえています」
殿下の追求に抗弁ができなくなった。
どう誤魔化したものかと思案するが、答えが出ない。
そうこうしていると殿下は妙に大人びた顔でこちらを見ていた。
「……なおとら」
「ははっ」
「……じゅんびを、しておいてください」
「承知しました」
雰囲気を察した直虎さんが目礼して退室する。
殿下と二人で部屋に残され、逃げ場がない。
「……こっち、です」
「はい」
どうしたらいいのか考えがまとまらないまま、殿下に袖を引っ張られてソファに座らされる。膝枕かと思っていると隣に座る。
「……なやんでいますね?」
「そう、ですね。悩んでいない、といえば嘘になります」
「……いじめられたのですか?」
真顔で聞かれ、吹き出しそうになった。
「でしたら幾分楽なのですが……残念ながら違います」
「……だれかに、なにかいわれましたか?」
「いいえ」
「……わたしのこと、ですか?」
どう誤魔化したものか悩んだ。
悩んだ末に出てこなかった。
目の前には真剣な顔の主がいる。誰でもない俺のために時間を使ってくれている。
限界だった。
「城山首相から、殿下の相談に乗ってほしい、と依頼されました」
「……そうですか」
主の顔がわずかに曇る。
そんな顔は見たくない。
なんとか言葉を探す。
「これまで、私から殿下のお考えに立ち入ったことはありません。頼まれはしたものの、そのような分不相応なことはしたくありませんでした。ですが、殿下もずいぶんと大変なご様子です」
「……」
「城山首相もずいぶんと疲れて、いえ、疲弊していらっしゃいました。内容は伺いませんでしたが、どうやら米国との交渉が上手くいっていないか、あるいは前例のない難題を突き付けられていることが予想されます」
「……そうですね」
「考えてしまいました。どうにかして差し上げたいとは思っても、私ではどうにもできない。軽々しく引き受けるべきではなかった。ですが、殿下の心労を少しでも軽くできるのなら……」
口に出して分かる。
国を背負う御方に、何をどう話したとして楽になるわけがないからだ。
鷹司がいたら苦言を呈されたことだろう。まさか、こんなことを殿下に話すことになろうとは思わなかった。
アシュリーの言葉が脳裏を過る。
これこそ息苦しい考え方だ。
こんなことなら立場などに固執しない考え方のままでいるべきだった。自分にできること、普段通り世話を焼き、殿下が日本にいるときと同じ環境を用意することに徹すればよかった。
今更ながらあの老獪な政治家の言葉など聞くべきではなかったと思い至る。
「……さかき」
「し、失礼しました。私が至らぬばかりに、殿下にご迷惑を……」
「……あやまるのは、わたしのほうです」
優しい主はこんな時も慮ってくれる。
「……わたしはこれまで、できるだけ、じぶんできめてきました」
「ご立派であらせられます」
「……ちがいます。そうだんをしたら、わたしはらくになる。でも、それは、あいてへのおもにになるだけではないか、と」
「殿下」
「……ちちうえが、いっていまいした。たちばをこえて、ことばをかわせることがだいじだ、と。わたしには、まだそのどりょうがありません。きらわれたく、ありません」
殿下の瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。
心臓が掴まれている感覚になる。
「滅相もございません」
「……さかきのおもいやり、うけとりました。こんや、ゆっくりはなしましょう」
「承知しました」
差し出された小さな手を取り、ソファーからおろす。
手をつなぎ、部屋を出て直虎さんの待つエントランスを目指した。
「……さかき」
「ははっ」
「……きょうはなるべく、はやくもどれるようにします」
「美味しいものをご用意しておきます」
「……はんばーぐがいいです」
「承りました」
直虎さんの前まで来ると、殿下の手が離れる。
「……いってきます」
「いってらっしゃいませ」
手を振り、主を見送る。
心が軽くなっているのが、自分でもわかった。
よし、今夜のために良い挽肉と、卵、パンは生パン粉を使おう。飲み物も用意しなければならない。
品ぞろえが自慢の大手スーパーマーケットで買うのもいいが、ここは演出も大切だ。そういえばコマーシャルでジューサーがでていた。果物を用意して、殿下の目の前で絞るというのはどうだろうか。驚き、目を丸くする姿が想像できる。
決まりだ。
あとはちょっとしたプレゼントもあったほうがいい。そうだ、アシュリーにも今時の女の子が喜ぶものを聞いてみよう。
少し前までの鬱屈とした気持ちから解放されて良いと思えるアイデアが次々と浮かんでくる。我ながら単純だ。
「さぁ、さっさと仕事を済ませて準備をしよう」




