二話
「日本の首相はあまり信用できない。コロコロ変わるのに、主張は誰も変わらない。穏健保守、日和見で経済に疎い。就任直後も観光立国を目指すと宣言したようだけれど、インバウンド需要は流動的で、簡単に主軸にならない。有事や病気の流行、少し前に流行った中東呼吸器症候群みたいなものがでてくれば深刻な問題」
ガラス越しに朝日が降り注ぐ。
テーブルに置かれたコーヒーからは良い香りが立ち上り鼻腔を擽る。
ロケーションとしては悪くない。
「経済は円安や資源高に直面していて、経済活動にも徐々に支障をきたしている。円安が輸入コストを上げていてこれまでのような消費を維持できなくなることは避けられない。早急になんとかすべき課題を置き去りにして、安易な円高需要による観光を推進するというのはマヌケ」
通りの角にある見通しの良いカフェで少女、アシュリーは淡々と話し続ける。
金髪碧眼の整った容姿にすらりと伸びた手足、身の回りを固める高級ブランド品はエルメス、フェンディ、シャネルと若い子が着るには大人びている。
これは親の影響と考えるのが自然だろう。親はおそらくは四〇代かそれ以上、少し遅くできた子供だということが推察できる。
「そもそも日本企業はコスト増の価格転嫁に慎重、物価と賃金は急激には上がらない。良い面でもある、でも、日本経済の成長を妨げている要因。世界はインフレに向かう。城山首相は契機にコストを価格転嫁できるような環境を整備すべき」
経済評論家やエコノミストが口にしそうな文言がすらすらと出てくる。
評価にやや主観が入り過ぎているところはあるものの、目の付け所は悪くない。これは誰かの受け売りではなく、自らで得た情報から分析して話しているからだろう。よく勉強をしている。
「なるほど御尤もです。大変よく勉強をされているのですね」
「ふふっ、賛辞は好き」
褒めれば嬉しそうに頷いてくれる。
御し易くてありがたい。
その間に今日もキャデラック・プレジデンシャルリムジンが颯爽と通りを駆け抜けていった。腕時計を見ると九時三〇分を過ぎている。事前打ち合わせが難航したのだろう。
「さぁ、ヘーゾーの番。面白い話を聞かせて頂戴」
「面白い話、ですか」
アシュリーの声に思考が現実に引き戻される。
そういえばそういう約束だった。
話題を探し、先ほど確認した時間と、今日が水曜日であることを思い出した。
「学校の意義、見解については様々にあることと思いますが、個人的には二つの意味があると考えています。一つは社会性の獲得です。たくさんの人とのやり取りの中で時には押し、時には引くことを覚えていくことは重要です」
アシュリーの眉が動き、後ろに控える警護役のジェシカは微動だにしないものの指が動いている。
「もう一つは?」
急かすように聞いてくる。
こちらの言葉を楽しんでいるのか、怒っているのかは判別できないまま続ける。
「自分を見つけることです。人間は普段から自らが何ものであり、どのような価値観を抱いているか、なんて考えません。他者がいることで比較、対比、批判、肯定をしながら文字通り自覚していくことになります。甘やかされているだけでは歪みを自覚できないまま育っていくことになる。取り返しがつかなくなってしまいます」
「あなたが、私を心配している?」
「有り体に申し上げればその通りです。憂いている、ともいえますが……」
「こんな、ただ同席しただけの私を憂う理由は何?」
「貴女には幸せになる権利があります。今も幸せかもしれませんが、この先もずっと幸せでいていただきたい、そう思ってのことです」
「私が幸せであることで、あなたに何の得がある?」
「世界が平和になります」
アシュリーがいよいよ困った顔をする。
意味が分からないからだろう。
「今時の聖職者だってそんな話はしない。どうして私が幸せだと世界が平和になる?」
「私個人としては貴方を含めたすべての子供に幸せであってほしいと願っています。今が幸せであるのならば不幸になる事態を回避しようとするでしょう。そうした想いを持つ子供たちが多ければ世の中は良くなっていくはずです」
そうやって平和になれば、殿下の苦労も少しは減ってくれるだろうか。
殿下の苦労が少なくなれば鷹司や直虎さん、優呼に宗忠、近衛も穏やでいられる。
「ヘーゾーの理屈は分かった。でも、幸せの定義は人によって違う。そういった誰もが幸せという状態でも良い世の中とは限らない」
「残念ながら、それもまた真理でしょう」
「でも面白い話だった。ご褒美に私が学校に行かない理由を教える」
「伺いましょう」
「理由は簡単、行く必要がないから。私、大学生」
「……はい?」
アシュリーの宣言に目が点になる。
改めて彼女を観察する。手足は長くスタイルも大人びているが、肌が若い。白人系ということを考慮してもせいぜい一〇代半ば、いかに飛び級があっても大学生とは思わなかった。
反応に困っているとアシュリーはカードを差し出してくる。受け取ればカリフォルニア大学と記載されて、顔写真まであった。
「海洋生物学を学んでいる。今は用事があってワシントンにいるけれど、オンラインで授業を受けていて、課題も滞っていない」
「お、驚きました。経済に明るいので不登校で世を拗ねているものとばかり……」
「別に海洋生物学だけを勉強しているわけではない。それに、大人ってこういう話をしていれば喜ぶ。でも、私を心配してくれるなんて思わなかった」
「不躾をお許しください」
「ヘーゾーのすぐ謝るところ嫌いじゃない。驚いた顔も含めて」
笑いながら片目を閉じる。
してやられたと思っても遅い。
どうやら不遜で人をからかうことが好きなようだ。能力は本物だとしてもなかなか褒められた性格ではない。
「お嬢様」
「もう?」
ジェシカの声にアシュリーがスマートフォンを見る。
こちらも手元の時計に目をやると午前一〇時を過ぎていた。そろそろホテルに戻って殿下の日本から送られてくる書類を読んでおきたい。
「ヘーゾーの用事はもう終わった?」
「ええ、そうですね」
「これからどうする?」
「ホテルに戻ります。少し仕事をして、昼食は早めに取りたいと思っています。夕方からはまた別件がありますから、備えをしておきたいところです。アシュリーさんはいかがですか?」
「私はこのあとオンライン講義。午後からは調べたいことがあるから図書館」
アシュリーは大きめのカップに入ったコーヒーを飲み終え、服装を整える。
こうした品性、いや行儀の良さはノーラやロマノフの遺児エリザヴェータに通じるところがある。
「じゃあヘーゾー、また明日」
「はい、また明日」
手を振り自分から出ていく。
窓から見ていると、店から出たアシュリーは振り返ってもう一度手を振る。
同じく振り返るジェシカの鋭い眼光には曖昧に笑いながら手を振り返した。
寄り添い、何かを話しながら歩く二人は姉妹にも見えた。
「ん?」
一瞬、誰かがこちらを見ていたような気がして、店の中や路地を見渡すがそれらしい人影はない。
「気のせい……だったらいいな」
こういうときの勘はあまり外れない。
注意して帰ろうと思いながら、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干し、席を立った。




