序章
「どこに行っても空は青い」
米国の首都ワシントンDC、ホワイトハウスが間近に迫る、この辺りにしては古めかしいカフェの席でガラス越しの空を見上げる。
米国にいても空は青く雲は白い。
当然といえば当然なのだが、実際に目にして初めて実感することもある。
帝都東京はもとより、ロマノフ連邦、いやもうソビエトになったウラジオストク、欧州連合の本部があるベルギーの首都ブリュッセル、そして米国ワシントンDC。
どれも名前は知っていて、地図上の場所は分かっても実際に来て、見て、肌で感じなければ実感できないことも多かった。インターネットが発達し、ソーシャルメディア全盛の時代にあっても知っていることと、体験したことの違いは大きい。
数年前までの、分かった気になっていた自分を今なら諫められるだろうか。
果実感際立つコーヒーを飲みながらそんなことを考えていると目の前を豪奢な車が走り抜けていく。
ゼネラルモーターズが作った大統領専用車と同型、国外の要人を守るために特注されたキャデラック・プレジデンシャルリムジンは颯爽と都会の風を切りながら通りの向こうへと消えていった。見渡しても怪しい影もない。
「さて、朝の仕事も……」
終わった。
そう思った時だった。
「貴方、今日もここに座っているの?」
腕組みをして、傲然とこちらを見ている少女があからさまな嘆息をして見せる姿は、私はあなたに失望した、と全身で語っているようで少し面白い。
「ここは私が毎朝この時間に利用しているの。昨日も言ったでしょう?」
「伺いました。ですが、店からすれば私も客、貴女も客。席について言われなければならない理由はないと思いますが、如何でしょう」
「私の父はここのオーナーの友人。あなたみたいな、どこの誰かもわからない人間なんかと同じではない」
金髪碧眼、整った容姿にすらりと長い手足、黒を基調とした上下は高級ブランド品で固められている。
後ろに控えている黒服の美人は警護だろうか。絵に描いたような富裕層の娘といった感じだ。
そんな少女に睨めつけられながら思案し、
「それは失礼しました」
「そう、分かればいいのよ」
丁寧に頭を下げれば少女の溜飲が下がったのか、満足そうに頷いていた。
彼女とはここ三日ほど鉢合わせをしている。
最初は時間がずれていたこともあって問題にならなかったが、我が主の『出勤』が少しずつ遅くなったことで時間が重なった。
こちらの仕事も終わっているし、言い争っても益はない。早々に退散するとしよう。席を立ち、一礼して彼女の横を通り過ぎる。
「言わなくてもわかると思うけれど、あなた、明日はどうする?」
背中から向けられた言葉に足を止める。
もう来るな、という意味なのだろうが、そういうわけにはいかない。
「私の言っている意味が分かるわよね?」
追いかけてくるような台詞に足を止める。
振り向けば少女は笑みを浮かべていた。
金髪のショートヘア、前髪の奥から覗く碧眼は実に生意気そうだ。
嘆息する。
この店は立地がいい。
その中でもこの席は特等席と呼ぶに相応しい出来になっている。角に面して四方向どの道も見渡すことができ、二階というある程度の高さもある。見送りにこれほど適した場所はここ以外になかった。
さて、どうしたものかと思案していると足音が近づいてくる。
「私は穏便に話しているつもり」
「脅しにしか聞こえません」
振り向けば少女は不敵な笑みを浮かべている。絶対的な己の有利、権威を体現しているつもりなのだろう。
「答えを聞かせて」
「……」
「分かった。あなたが客で、ここに来る権利も尊重してあげる。ジェシカ」
「はい、お嬢様」
後ろに控えた女性が折った紙幣、一〇〇ドル札を差し出してくる。
米国はチップ文化の国だ。人前で現金のやり取りは目にする光景だとしても、これはいただけない。
「時間をずらしてくれればいい。どうせ数日の滞在でしょう?」
「それが貴女の誠意ですか?」
「足りない?」
「そういうわけではありませんが……」
スーツの懐に手を伸ばすと、警護の女性は過敏に反応する。
左手にはドル札、右手は己の懐に入れられ、いつでも発砲ができる態勢に移っていた。
「誤解してもらっては困ります」
断ってから、ゆっくりとした動きで財布を取り出す。
米国に来るにあたり、上司である鷹司から持たされた革の長財布。それを警護の女性に向けて差し出した。
「少しの間だけ目を閉じていてください」
「どういう意味?」
「如何でしょう、ジェシカさん」
「!」
少女の顔に朱が刺す。
プライドが高い子は御し易くていい。
「中身は多めの現金とクレジットカードが入っています。見て見ぬふりは体面が悪いでしょうから、私がこの子の額を小突く、その瞬間だけで構いません」
「……」
警護の女性にも殺気が増す。
これ以上は本当に撃たれそうだ。
「彼女がそんなはした金で動くと思っているわけ?」
「ええ、そうですね。彼女が金銭で動くことはないことは分かります。信頼関係、今後のこともあるでしょう」
少女に視線を戻し笑って見せる。
「それは私も同じです」
「同じ? 私があなたに要求していることが、同じですって?」
「はい」
逡巡の後、少女はこちらを睨む。
「……引けない理由があるということ? この場所にいることがそうだというの?」
「その通りです」
「冗談ではないのね」
「ご理解いただき感謝します」
一礼してから財布を戻せば、少女は思案、いやこちらの値踏みをしている。
強烈な押しの後は即座に引いて見せる。駆け引きとしては常套手段でも子供相手には覿面に効果がある。
慌てず畏まって見せれば少女の口元には笑みが浮かんでいた。
ここで畳み掛けるとしよう。
「お金が欲しいわけではありません。出入り禁止にされると困りますので最大限配慮いたします。ですからご容赦いただけませんか?」
「ふぅん」
少女が腕組みをする。
どうやらこれが考えているときの癖らしい。
「いいわ。あなた、ちょっと面白いから」
「お嬢様、よろしいのですか?」
「お金を受け取らなかった人はいたけれど、こんな返され方をしたのは初めて。だから興味がわいた」
「恐縮です」
少女の目には好奇の色があった。
頭は良さそうだが駆け引きは素人だ。悪い大人に騙されないか将来が心配になる。
「私はアシュリー」
「ご無礼をいたしました。アシュリー、私は榊平蔵と申します」
「サカキヘーゾー? 日本人? 中国人? なんか言い難い名前」
「日本人です。親からもらったものですのでご勘弁ください」
「じゃあヘーゾー、明日から同席を許します。その代わり、なにか面白い話をしなさい」
「承知しました」
こうしてアシュリーとの同席を許されることになったのだが、災難の始まりだとは夢にも思わない。




