刃の先にあるもの(七)
裂海家での通い稽古を続けること約二ヶ月、ようやく動きを覚え、不器用ともいわれなくなる。
このまま続ければ基礎は卒業、という頃に思いがけない横やりが入った。
「呼び戻し、ですか?」
「近衛府からだが、実際のトップは霧姫の嬢ちゃんだ。自分の名前を出さないのは俺に気を使ったからだろう。あるいは、言い難かったか」
稽古終わりに汗を拭いていると迅彦さんからそんなことを言われる。
寝耳に水、こちらに説明はない。
「このタイミングで……。夏までは目立った予定はなかったと思いますが」
「なんでも日桜殿下のことで忙しくなるみてぇだ。なにがどう、っていうのは現役じゃねぇから分からんが、お前さん呼び戻すんだからよっぽどだろうよ」
「……殿下のことで?」
ここに来るにあたり、殿下のお世話は直虎さんやノーラが代わってくれている。
しかし、二人からそんな話は聞いていない。
予定が変わった、ということなのだろうか。
「まぁ、こればかりは仕方がねぇ。中途半端だが居合いの型は覚えたんだ。仮免許ってことにしておいてやる。また暇になったら戻ってきな」
「お言葉に甘えさせていただきます」
「あまり肩肘張らねぇこった。二度手間にはならねぇからよ」
心配するな、とばかりに肩を叩かれる。
近衛府に戻ったら殿下の予定も含めて鷹司に聞いてみなければならない。
考えられるのは予定が変わった、あるいは忙しくなる原因があるとすればなにかだ。
「……ん?」
ここで考えても仕方がない。
そう思って顔を上げると、同じく話を聞いていた咲子さんが深刻な顔をしていた。
何かを探すように視線があちこちへと飛び、思い出したかのようにこちらへ向けられる。
「榊さん、これは何かの予兆でしょうか?」
「私にも今のところ思い当たることもありません。戻って鷹司……副長に聞いてみなければ、なんとも言えない」
「優呼は……また戦うのでしょうか?」
縋るような眼差しにため息が出た。
その人の心配を、他人の言葉でどうこうはできない。一時の言葉では気休めにしかならず、必ず尾を引く。
俺の知る限り解決策は一つしかなかった。
「では、直接聞いてみましょう」
「え?」
「私に問うよりも、本人に聞いてみたほうが早いこともありますよ。これからお時間はありますか?」
「これから!? 良いのですか?」
目を輝かせる。
入院先である文京区の病院は立ち入りが厳しく制限されていて、近衛の親族でも容易に入れない。今はロマノフから亡命したエリザヴェータと雷帝もいるのでなおさらなのだが、どうにかするしかなかった。
「優呼の身内ということなら問題ないと思います。申請には少し時間がかかりますから、その間に準備をなさってください」
「わかりました!」
バタバタと準備を始める咲子さんに苦笑いをしながら見送る。
後ろ頭を掻いていると迅彦さんと目が合う。
「咲子さんは、あまり良い兆候ではありませんね。優呼のケガは私が原因ですので申し上げにくいのですが……」
「心配が過ぎるってんだろ? この一年はあんな感じだ。太平の時代、近衛でも実際の切り合いなんてなくなったはずなのに、誰かさんが原因でこの有様だからな」
「咲子さんの前で話すのはそのためでしたか」
「隠せば、あの子は余計に知りたがる。心配したとしても解決しない問題でも、だ。ここで重要なのは、お前さんの捨て置けない性格だな」
誘導だ。
それもかなり悪質といっていい。
こちらの性格を分かった上でやっているのも気に入らない。
「私にかぶせ過ぎではありませんか?」
「へっ、人んちの大事な娘をいいように使ったんだ。このくらいは面倒見てもらわねぇとな」
「どちらの面倒、ですか?」
「優呼が伴侶を得れば咲子も安心する。逆でもいい。咲子が安定すれば優呼も力を発揮できる。俺からすればどっちでもいいんだよ」
「……確かに、優呼の無理の原因は私です。ですが、これ以上はご勘弁願いたい」
「分かってるさ。欧州で何かあったら口きいてやる。裂海としての協力は惜しまねぇ。だからな……」
肩を叩かれる。
「上手いこと頼むぜ」
ここで迅彦さんの行動に合点がいった。
最初から俺だけを見ていたわけじゃない。俺と一緒に咲子さんの様子もつぶさに見ていたに違いない。そして、今日の行動に至った。
「さすが伝説、俺なんかよりもずっと策士だ」
ため息が出る。
こうなっては仕方ない、ご期待に応えるべくスマートフォンを取り出す。まずはどこに根回しすべきかを迷い、どうせなら、と時の権力者に頼むことにしよう。
画面をタッチして番号を呼び出してから耳に当てた。
◇
総理大臣と法務大臣、二人に諸々の申請を頼んでから咲子さんを連れて病院へ向かう。
アイボリーのジャケットに水色のニット、白のスローンパンツ、少しヒールの高いブーツというあまり近衛の女性陣ではみないコーディネートは妹に会うという高揚感からだろうか。
差し入れは裂海家の冷蔵庫の中身を全部詰めたような重箱、好物だというお菓子の数々を車に詰め込み、文京区に着く頃には陽が傾いていた。
咲子さんは輸血以来の訪問に心躍らせて病室に入ったのにもぬけの殻。どこかで倒れていないかを心配する姉を宥め賺して別棟のリハビリテーション施設へと案内する。
夕日の中、施設の片隅で一人黙々と木刀をふるう優呼を見つけた咲子さんは、すでに涙腺が決壊していた。
「優呼!」
「お、お姉様!?」
驚く優呼に走り寄り、咲子さんが抱き着く。
顔を触り、未だ包帯の巻かれた腕をさすって、しきりに心配をする姿は母親のようだ。
「優呼、もう動いて大丈夫なの? 固有を使った後遺症はない?」
「どうしてここに……」
視線がこちらへ向く。
咎めるような瞳を曖昧に笑って誤魔化した。
「お姉様、ちょっと恥ずかしいわ」
「ご、ごめんなさい」
妹の言葉に姉がようやく周囲を見た。
このままでいることはできず病室へ戻る。
「急だったからあまり用意はできなかったのだけれど、優呼の好きなものを用意したわ」
咲子さんに促されて持ってきた重箱を並べる。
さすがの優呼も苦笑いをして、姉にさせるがままだ。
咲子さんが落ち着いたのは優呼が重箱の一つを空にしてから、相変わらず食べる妹に安心したからだろう。
「よかった、体は大丈夫そうね」
「今回は特殊な事情が重なっただけ、心配いらないわ!」
「でも、まだ入院しているでしょう? 悪いところはあるの?」
「これは副長の取り計らいなの。暇なうちに休んでおくように、って。休暇もたまっていたし、リハビリも丁寧に予定を組んでもらっただけ!」
優呼は大丈夫、とばかりに笑顔で応じる。
しかし、咲子さんの顔には憂慮があった。
何度か迷うように、何かを言いかけては躊躇い、こちらや優呼の顔を見たりしている。
きっと、戦ってほしくない、傷ついてほしくないのだろう。
だが、それは優呼が近衛である以上、難しい相談だ。
「お姉様、私は大丈夫よ!」
「優呼……」
姉の憂慮に、妹が先んじて言葉にする。
「私はもっともっと強くなるわ。それこそ、お姉様を追い越すくらいになってみせるんだから!」
出会ってから変わらない。
溌溂とした笑顔に、鋼の意志、まさに理想の近衛といえる。
「優呼、貴女は幼い頃から御爺様や先達の方々に近衛としての重責ばかりを押し付けられてきました。他の家に生まれたら、普通の幸せもあった。でも、覚めてしまったがために、しなくてもいい苦労を強いられてきたのです」
だが、姉の心配はそこではない。
この人は、妹にとっての近衛という生き方そのものを憂いている。
「貴女も二〇歳、殿下や国のためというのも立派ですが、もう少し自分に目を向けてもいいのですよ」
諭すような口調に胸が痛んだ。
如何に近衛、国の番人といえど、人でもある。
家族は心配してしかるべきだ。まして姉妹、腕と才で劣る妹を姉がどれだけ心配したかは想像に難くない。
「お姉様」
妹が姉を抱きしめる。
こちらからは優呼の顔だけが見える状態、席を外した方が良いのかと迷っていると、顔だけをこちらに向けた同僚は笑い、片眼を閉じてみせる。
まるで、問題ないといわんばかり、いつも通りの彼女だ。
「まぁ、お前はそうか」
肉親の心配という強い感情に流されそうになった自分を咎めた。
決めるのは、俺や咲子さんではないからだ。
心配は人の目を曇らせる。
咲子さんが繰り返してきた不安が、ありもしない幻覚を見せてきたのだとしたら、それは間違いなのかもしれない。
俺自身、裂海優呼という人間がそんなにヤワではないことを知っている。
過酷な自分の運命ですら肯定し、笑いながら前を向いて歩いていくだろう。
手を振れば、彼女は姉の背中を摩りながら頷いた。
「お姉様の気持ち、すごく嬉しいです。でも、私は近衛に誇りを持っている」
「優呼」
「今は大変な時期なの。ここで頑張らないと今ある日常が変わってしまうかもしれない。私はお爺ちゃんや鹿山さん、伊舞さんに続く人になって、日桜殿下やお姉様、この国に生きる人たちを護りたい。これは私の意志、私の願い」
雰囲気に水を差したくない。
静かに部屋を出ようとすると、優呼は首を振る。
「心配しないで! ちょっと頼りないけど、ヘイゾーもいるし、乗り越えて見せるわ!」
「……」
妹の言葉に咲子さんがこちらを見た。
鬼でも射殺せそうな眼付に黙っているしかない。
睨まれること数秒、咲子さんは諦めたように視線を優呼へ戻して頷いた。
「もう、なにも言いません。あなたの思うようにしなさい。でも、無理をしたらダメよ。何かあったらお姉ちゃんにちゃんといいさない。できるだけ手紙も……いいえ、近いのだから顔を見せて」
「わかってる」
仲睦まじい姉妹に肩の荷が下りた気がした。
◆
咲子さんを送るため千葉と東京を往復し、文京区の病院へ戻ったのは夜が深くなってから。
病室に戻ると彼女は差し入れを食べている真っ最中だった。
「もう、お姉様を連れてくるとは思わなかったわ」
「ずいぶんと心配していたからな。俺が副長から呼び戻されるって聞いて、お前がまた戦うんじゃないかって心配していたよ」
「心配してくれるのは有難いんだけどね。時々過剰なのよ」
「過剰で済ませてくれるな。今回、俺がどれだけ大変だったか……」
「それは自業自得、ヘイゾーが蒔いた種でしょう?」
文句も続けられない。
それでも言いたいのが人情だ。
「散々な目にあった」
「そんなに? 苦労だけだった?」
「……ああ、いや、得たものも含めたら半分半分か」
「お姉様やお爺ちゃんはちゃんと教えてくれたでしょ?」
「それはそうなんだが、どこまでがお前の考えなんだ? まさか、こうなることを予測していたわけじゃ……なさそうだな」
俺が喋るよりも早く首を振っている。
まぁ、こいつはそこまでの謀略はしない。
「う~ん、どこから話せばいいかしら」
困った顔をする。
それは俺がしたい。
「どこからでも話せよ。今日は付き合ってやる」
「そう? じゃあ全部話すね!」
「お、お手柔らかに」
「ヘイゾーって、頭いいでしょ?」
突然の真っ直ぐな指摘に驚いた。
優呼は悪戯っぽく微笑む。
「ごめんごめん、自分では良いと思っているでしょ?」
「……ここへ来る前なら、そう思っていたよ」
「嘘、今でも思っているわ。自分の考えが正しいものだって」
「そんなつもりは……」
「勘違いしないで、別に咎めているつもりじゃないの。実際、ヘイゾーの考えることって他の人と違うし、だから虚を突かれたり、相手の想定を超えていたりするから成功するんだと思うわ。私だってヘイゾーにしてやられた側だし」
「あの時は……色々な偶然が重なっただけだ。今でもお前には届かないと思っているし、そういう意味では信頼しているよ」
「だから、自分の腕を磨くことを放棄している」
「!」
言葉に詰まる。
同時に、彼女が見ていたものは、迅彦さんが見ていたものと同じだ。
「図星でしょ」
「……お前は、いつからそう思っていた?」
「騎士王と戦ったあとから。あんなになったのに、素振りの一つもしないんだもの。普通の近衛だったら泣きながら稽古するものよ」
「普通の近衛ならそうなるか。でも、俺が求めたのは、戦わない方法だったからな」
「方向性が違うのもいいんだけど、ヘイゾーが弱いと護る方が大変なのよね」
「悪かったな」
「謝る相手が違うわよ。ヘイゾーを護っているのは殿下」
一刺しに呼吸が止まりそうになった。
彼女はいつだって真っ直ぐ俺の弱さを射抜いている。
「元サラリーマンだから、頭脳戦、言葉での争いで優れるのならば剣術なんて、って思っている。だから最後、追い詰められたら命を懸けるしかできない。死なない体に胡坐をかいて、自分の命を軽く扱う」
「……そんなことは」
「ある。私は、責任放棄だと思う」
「ずいぶん言ってくれるな」
「本当のことでしょ? そんなヘイゾーを護っているのは、誰でもない殿下なの。騎士王にヘイゾーの命乞いをして、雷帝の時は後ろ盾になった。甘えているのは誰?」
諸手を上げる。
それなのに、優呼は追撃の手を緩めてくれない。
「ヘイゾーのせいで、世界は大きな揺らぎの中にあるわ。たった二年で欧州とロマノフの対立は変化し、日本における共和国の干渉が強くなった。加えて雷帝、白凱浬が同じ日本という国の中にいる。はっきり言ってしまえば異常事態」
「……」
「バランスが崩れた世界では、何が起こるかわからない。これからの覇権を狙う国や組織が現れる。原因を作った張本人に退場されたら、苦労するのが誰か、わかるわよね?」
「……ああ」
「だから、ヘイゾーには勝手に死なれたら困るのよ。なんとしても生き残って、擦り切れるまでこの国と殿下のために尽くしてほしいの」
「そのための腕、か」
「私がいつでも助けられる距離にいるとは限らない。ヘイゾーは自分の腕で、命を守らなければいけない場面は多くなる。瞬殺されると困るわ。謀略を生かしたいのなら最低限、自分の身は守ってもらわないと」
「返す言葉がないよ」
優呼の考えが見えてきた。
誰よりも困難を求めてくる。
「私は、教えるのに向かない。それほど器用じゃないし、自分のことだけで精いっぱい。でも、お姉様やお爺ちゃんなら、ヘイゾーに教えられる。足りないものを補ってあげられる」
「咲子さんからはご教授いただいたが、お小言もいただいた。お前を、危険な目に遭わせたって」
「仕事だし、私の選んだ道よ。お姉様は優しすぎるの。いくら腕があったって、人殺しはできない。でも、私はできる。だから、あまり接触しない方がいいのよ」
「こちら側に引き込まないために、か?」
「そうね」
「俺に言わせるな。おかげで膾にされるところだったぞ」
「でも、言ってくれたんでしょう?」
「咲子さんの前で命のやり取りのことを話すのは気が引けたからな」
「ヘイゾーなら上手くいってくれると思ったわ」
「まったく……」
「一生懸命ヘイゾーに貸しを作った甲斐があったわ。これで死ににくくなったもの」
「俺が作った貸しを俺のために使うなよ。お前が損をしているみたいじゃないか」
「そんなことない。ヘイゾーが強くなってくれれば、私も嬉しい。一緒に戦える時間は長い方がいいわ」
「……優呼」
「だから、ヘイゾー、生きて」
「……」
「生きて、生き抜いて、務めを全うして。そのための駒にだったら喜んでなるから!」
「優呼」
微笑む彼女の名前を呼んで、まだ包帯の巻かれた腕を引き寄せた。
腕の中に収めても彼女は抵抗しない。
「ありがとう」
それ以上の言葉が続けられなかった。
口に出してしまえば安っぽくなってしまいそうではばかられたからだ。
「優呼」
「なに?」
「俺は生きるよ」
「うん」
「背中を頼む」
「任された」
優呼の手が俺の背中に回され、とんとんと叩く。
わかったよ、といわれているようで嬉しかった。
◆
桜の開花が始まり、東京は一気に季節が進む。
暖かい日が増え、人々の装いも薄く、春めかしいものへと変わっていく。
穏やかな日々が続けばいい、誰しもがそう思っていても、世界は歩みを止めてくれない。
裂海家での稽古を強制的に終わらせた張本人は執務室の向こうで難しい顔をしていた。
「殿下の訪米が決まりそうだ」
眉を顰める。
決まりそうだ、というのが奇妙でならない。
「皇族の訪問は打診されるものではありません。各国の大統領、首相、王族から招かれ、それに応じる形になっています」
「それは表立ってのことだ。まずは政府に非公式の打診が来る」
「なるほど。それが今回は米国……大統領から、ということでしょうか」
米国関係者で日桜殿下との会談を求めているのは大統領と連邦準備制度理事、あとは巨大企業の最高経営責任者くらいだろう。
現状で可能性がありそうなのは就任したばかりの大統領くらいだ。
俺の考えを読んでなのか、鷹司が頷く。
「実は、今回が初めてではないらしい。昨年の就任以来二度目だ。米国大統領デイヴィッド・デニソンは殿下に会いたがっておられる」
就任演説をしていた会見を思い出す。
強面の金髪、どっしりと大きな体、大きな声、政治家になるまでは不動産ビジネスで莫大な富を築いた。
浮き沈みの激しい不動産業界において地位を保つのは普通ではない。
そんな普通ではない男が今度は政界に進出し、当選した。幸運ばかりでは到底届かない椅子に座っている。
「現在の大統領は、米国第一主義を掲げる保守強硬派と記憶しています。政治家というよりは経済人としての色合いが強いお方が日桜殿下に会いたい、というのはあまりピンときません」
「ない話ではない。だが、一度目は就任直後、二度目もこんなに早いとはいうのはよほどだ。せっつかれた城山首相も困っている。殿下はただでさえ過密スケジュール、これ以上の無理は陛下の二の舞になる、と断ったらしいのだが……」
「なにか取引を持ち掛けられた、ということでしょうか」
「正解だ。日本に駐留する米国軍の費用の負担割合を前向きに検討するといっている」
「それはまた、城山先生の苦悩が浮かびますね」
「設備や装備は日進月歩、費用の増額はある程度仕方がない問題ではあるが、現政府としては頭の痛い問題だろう。それの相談に乗る、というのは破格の条件だ」
「昨年度は二〇〇〇億、米軍に関連する負担はもっとありますから、確かに政府としては交渉の糸口をつかみたいところでしょう。しかし、交渉のテーブルにつく条件が殿下というのはどうしてでしょうか」
「様々意見もでてはいるが、確度が高いものはない。だが、別のルートからは日本と欧州との関係改善を気にしている、という情報もある。夏には殿下の欧州歴訪が控えているからな、その前にねじ込みたいのかもしれん」
「欧州……。ですが、日本と欧州とは経済摩擦がかなり進行しています。今回の訪問も関係改善の一歩、早急な解決は難しい、というのが経済、財界の見解として出ていましたが……」
「今は、な。欧州にとってロマノフがソ連になり、雷帝はいなくなったが今度は軍事的な脅威が強くなった。将来的なことを睨めば、日本の援助が欲しいところだろう。軍事的にも、経済的にもだ」
「日本は米国と同盟関係です。欧州とは米国の方が親密ですから、経済支援は米国を通してされるものと……」
鷹司の考えるところが分かった。
今の米国は国内第一主義、物質的な援助はあっても戦力支援には期待できない可能性がある。
その上で欧州は国と民がある程度一致して動ける日本に期待をしている。
「米国は揺れ動く民主主義だ。国民の間で機運が高まればどちらにでも傾く。何かあった時のために味方は欲しいな」
「ですが、今は日本も反戦意識が強い。軍を送るのは世論の反対が予想されます」
「軍はそうだが、あのオットーハイム卿ならウラジオストクあたりに近衛を展開しろと言いかねん」
「!」
近衛の主は皇族だ。
その近衛を動かせるとしたら殿下に直接申し出るしかない。
欧州連合評議会、殿下との会談を希望しているオットーハイム伯爵はそこまで見越しているのだろうか。
「妙な顔をするな。あくまで可能性だ」
「ですが、想定しておくに越したことはない」
「そうだな。榊、欧州歴訪は一つのターニングポイントになるだろう。だが、今回の訪米もかなりの困難が付きまとう。我らは万全の準備で臨まなければならない」
「できる限りの情報収集、分析、対応策の検討ですね」
「その通りだが、それは我々の仕事ではない。勿論、お前のでもない。分かっているな?」
「……そこまで自惚れてはいないつもりです」
「これまでの、白凱浬や雷帝の件は幸運と偶然の産物だ、忘れろ。それよりも心配なのは日桜殿下だ。訪米時のお世話係を任せる。護衛は直虎を付ける予定だ。二人で話し合って上手くやれ」
「私が、ですか?」
「そのために呼び戻した。置いていくと何をしでかすかわからんからな。殿下の傍でお世話をしろ」
「……承知しました」
「前後のスケジュール調整、体調管理、それから、この膨大な書類を何とかしてくれ」
上司が指す先には山と積まれた紙束がある。
これは殿下と関係ない、あまりの多さに心が折れたのだろう。
「以上だ。何か質問はあるか?」
「殿下の件は承知しました。この書類の山については……そうですね、条件があります」
鷹司の眉が動いても気にしない。
「副長にも大統領の資料は届くはずです。それを私にもいただきたいのです」
「……殿下の負担になるようなことは困る」
「御心配には及びません。私が知りたいだけです」
「用意させよう」
不満そうな顔をしつつも了承してくれる。
俺自身、自らの考え一つで国政や情勢をどうにかしたいと思っているわけではない。
ただ、殿下がこれから巻き込まれること、立ち向かうであろう困難について知っておきたいだけなのだが、
「ああ、なるほど」
「? なるほど?」
咲子さんの心配はこれだ、と思い至る。
これでは人のことを笑えない。
今度会ったら偉そうな口をきいたことを謝ろう。
「いいえ、こちらのことです。失礼しました」
「よくわからんが、まぁいい。納得したのなら仕事に戻れ」
「失礼します」
一礼して執務室から出て、庁舎を歩いて御所へと向かう。
吹き抜ける風は緑の匂いがして、次に来る季節を予感させるようだった。
第六部前夜 了
こちらの更新は今回で終わりです。
思いがけず多くなってしまいました。
第六部や今後については聖母さまが終わったタイミングで活動報告にでも載せたいと思います。
もうすぐ終わりそうですが、実践的聖母さまを更新中です。
こちらもよろしくお願いします。




