榊の顛末書(一〇)
忙しい近衛にも休みはある。
近衛の休みは同時に護衛対象の皇族、俺の場合は日桜殿下の休みでもある。
約一か月ぶりという休みを前に、日桜殿下は千景やノーラも誘い、外出を予定していた。まぁ、その行先と予定を立てるのは俺の役目でもあるわけだが。
しかし、直前で急な予定が入ってしまう。政治絡みの案件だったため俺も除外され、殿下とノーラ、それに第三大隊から護衛をつけて出席することになった。
朝、張り切って準備をしてきた千景を待っていたのは殿下から詫び状。
「殿下は大変に残念がっておられました」
「仕方ないわ。そういうこともあるでしょう」
肩を落とす千景。
白を基調としたワンピースにつばの広い帽子は良家のお嬢様そのもの。洋装だとスカートの多い殿下に合わせた恰好だ。今日をどれだけ楽しみにしていたかが分かる。
せっかくの休日、せっかくの予定、このまま解散するには少し惜しい。
「千景様、人数は減ってしまいましたが、私と二人でよければ出かけませんか?」
「いいの?」
「大丈夫ですよ」
殿下とノーラにはお土産を買ってくれば大丈夫だろう。
千景を連れ、近衛本部から車に乗って、ものの数分で目的地に着いた。
「上野?」
「こちらです」
上野駅に近い駐車場へ車を停めて、そこからは歩く。
上野恩賜公園内にある国立西洋美術館や科学博物館を素通りした時は眉をひそめ、動物園の前に来たときは怪訝そうな顔をした千景だが、入ってしまえばこちらのものだ。
「すごい……」
思った通り、感嘆の声を漏らしてくれた。
上野動物園といえば台東区上野公園内にある、日本一有名な動物園といっても過言ではない。その歴史は古く、開園は明治一五年、一八八二年まで遡る。
飼育されている動物も三五〇種、二五〇〇にも及び国内では屈指。近年は展示に力を入れ、より自然に近い形で動物を見ることができる。
東京に来たら一度は訪れておきたい場所だろう。
「大きいわ」
「そうですね」
アフリカゾウを見上げ、千景は一歩後ずさる
堀や柵があるとはいえ、自分の何十倍という巨体を目の当たりにすれば無理もない。そのほかにもゴリラやクマ、トラなど大型の哺乳類は写真や映像とは迫力が違う。匂い、息遣い、生きた動物だから出る音を間近で感じることができることは、知識先行の現代社会において貴重な経験だろう。
かくいう俺も、その一人だった。
動物園なんて子供の行くところだと思い込み、ほとんど関心がなかった。
だが、以前板橋区にあった子供動物園に殿下を連れて行ってから、次は上野へと密かに考えていた。
「っ!」
「千景様?」
「だ、大丈夫よ」
トラの欠伸で見えた大きな犬歯に目を丸くし、
「シロクマって泳ぐのね」
「北極海ではかなりの距離を泳いだ記録があるそうです」
「濡れるとかなりスリムだわ。熊ってずんぐりとした印象があったのに……」
「同感です」
大きなプールで泳ぐホッキョクグマに怯えている。
人は、経験が多くのウエイトを占める。
動物を見た、触れた、体感することが実生活に直結するわけではない。
しかし、体感しているとしていないとでは全く違う。
知識や体感はどこで使うかわからないものだからこそ、感受性の強いうちに、できるだけ多くのものを与えることが大事なのだろう。
「さぁ、見るものはまだたくさんありますよ」
「……平蔵」
手を差し出された。
エスコートしろということなのだろう。
誰かが一緒ならば遠慮したいところだが、プライベートに近いもの、それに迷子になられても困る。
千景の手を取り、恭しくお辞儀をした。
「これでよろしいですか?」
「……うん」
素直に頷いてくれる。
普段の背伸びをした姿よりこちらの方が良い。
「さぁ、参りましょう」
千景の手を引き、園内を歩く。
ホッキョクグマを見てからは園内を横断するいそっぷ橋を渡り、小獣館やアフリカに生息する動物たちのエリアを回る。
千景はどうも大型の動物が怖いらしく、カバやサイ、キリンは俺の後ろに隠れながら見ていた。
両生爬虫類館にいたゾウガメやワニを興味深そうに眺めてからは不忍池に沿って歩き、原猿類であるアイアイと同じくらいの目をして覗き込む姿をスマートフォンに収めた。あとでプリントして広重さんに送ろう。きっと喜んでくれるはずだ。
「さぁ、千景様、お待ちかねの「子ども動物園すてっぷ」です。ウサギやモルモット、ハムスターに触れますよ」
子ども動物園、というあたりで怒るかと思ったが、千景は素直に施設に入り、小さな子供たちと一緒に列に並ぶ。
「平蔵、早く!」
楽しくて仕方がない、という笑顔に拍子抜けをして、断れないまま千景に倣う。
係員に案内されたのは小動物たちと触れ合える小屋の中だ。
「可愛い……」
「そうですね」
千景は嬉しそうにウサギを抱き、なで回す。
小型の哺乳類やげっ歯類は苦手なのだが、この場では仕方なく近くにいたウサギの背を撫でる。
こちらなどお構いなしにニンジンを齧る姿に野生は感じない。可愛い、とは思うが積極的に触りたいと思わないのが本音だ。
「平蔵、あなたどうしたの?」
「……何がですか?」
「ダメよ、そんな撫でかたしたらウサギさんが怖がるわ。ゆっくりと優しく、丁寧に、ね」
「は、はぁ……」
言われるがまま撫でるのだが、ちょっとした動きに反応してしまう自分がいる。
「もしかして怖いの?」
「正直を申しますと、少し。子供のころ、小動物に噛まれたことがありまして……」
「っぷ、あはははは」
「千景様……」
「平蔵にも苦手なものがあったのね。あんなに頼り甲斐があって優しくて、何でもできそうな顔をしているのに、小動物が怖いなんて……ふふふ」
「誰しも苦手なものはあります。私にとって、それが小型の哺乳類やげっ歯類であるだけです」
千景はウサギを抱きかかえたままひとしきり笑うと、目じりの涙を拭った。
「勘違いしないで。私は嬉しいの。貴方が、普通だって知ることができたのだから」
「肯定的な意味で受け取ればよろしいですか?」
「ええ、勿論よ」
千景は真横まで来るとウサギを差し出し、
「ウサギは腰からお尻に手を添えて、平蔵のお腹に乗せるの。残った手で背中を摩ってあげると喜ぶわ」
「無理に触りたいわけでは……」
「ウサギも抱っこできないのに、私を子ども扱いするの?」
「……わかりました。こう、ですか?」
言われた通りウサギを抱える。
小動物独特の体温と匂い、つぶらな目は、正直まだ好きになれない。
「どう?」
「結構ではないかと思う次第です」
「なにそれ」
早くこの状況を脱したいのに、抱きかかえられたウサギはのんびりとニンジンを食んでいた。
「本当にウサギを抱っこしたのは初めてなの?」
「ウサギどころか、こうしたことは初めてです」
「私は、貴方に初めてを体験させてあげられたのね」
「……引っかかる言い方ですがその通りです」
「それは良かったわ」
千景が笑う。
それは、これまで見たことがない闊達で朗らかな笑顔だった。
◆
動物園を満喫した後、食事でもと思ったのだが、千景の回答が意外なものだった。
「御所へ戻りましょう」
「よろしいのですか?」
「そろそろ殿下の公務も終わる頃だから、ご挨拶がしたいわ」
「千景様がそれでよろしいのでしたら、私は構いませんが……」
お土産を買い、上野から九段へと戻る。帰りの車中で千景は歌っていた。
御所の前まで来たところで戻ってきた殿下やノーラたちと鉢合わせになる。
「……ちかげちゃん」
「殿下、お会いできて嬉しいです」
「……きょうは、ごめんなさい」
「いいえ、殿下のお立場でしたら仕方がありません」
「……ありがとうございます」
手に手を取り、語り合う姿こそ尊い。
そう思いながら二人の様子を眺めていると、殿下に同行していたノーラを見つけ、肩を叩いた。
「お疲れ様、大変だっただろう?」
「いいえ、私はお側にいただけですから……」
首を振りながら殿下と語らう千景を見ている。
「ノーラ?」
「少し、変ですね」
ノーラが怪訝そうな顔をしている。
「変?」
「だって、ヘイゾウさんと二人きりですよ? 私ならこんなに早く戻ってきません。理由を作って引っ張りまわします」
「ノーラ……君は頼もしいね。安心するよ」
力説される。
このくらいの図太さが殿下にもほしい。
「千景さんがもういいと思える何かがあったと考えるのが妥当でしょう。ヘイゾウさん、今日はどこへ行きましたか?」
「上野動物園だよ」
「それ以外は?」
「行ってないね」
「そんな!?」
ノーラが驚愕を浮かべる。
年頃の女の子は感情の起伏が激しい。
すると、納得できなかったのかノーラは千景のもとへと走った。
「千景さん!」
「あら、ノーラ。貴女もご苦労様」
「そんなことはどうでもいいのです! どうしてヘイゾウさんを連れまわさなかったのですか? 折角の機会でしたのに……」
「それは……」
千景の大きな瞳がこちらに向く。
小型の哺乳類やげっ歯類が苦手だという話でもされるのだろう、それによって様々な噂が流布されるに違いない。また顛末書を書かなければいけないのかと嘆息する。
しかし、
「平蔵の初めてをもらったから、今日はそれでいいわ」
「!」
ノーラが大きく目を開け、こちらを見た。
彼女の想像力には感服するほかない。
「君が何を想像しているのかは言及しないけど、たぶん誤解だと思うな」
「でも、初めてって、ほかに何かありますか?」
ノーラの絶叫にも等しい言葉に護衛や侍従の大人たちがピタリ動きを止め、一斉にこちらを見る。
視線に熱量があったなら、俺は焼け焦げていただろう。
千景は意味深な顔のままノーラと向かい合う。
「千景さん、初めてって、どういうことですか!?」
「自分で考えてごらんなさい。私はそれほど優しくないわ」
「千景様、誤解を生むような発言は止めていただきたいのですが……」
「あら、嘘は言ってないわ」
「……さかき?」
余裕を見せる千景に真っ赤になるノーラ、事態をよく理解できず首を傾げる殿下。
三者三様に袖や服の裾、手を引っ張られながら天を仰ぐ。
周囲からの誤解を解くのに、だいぶ時間がかかったのは言うまでもない。
二巻の発売から一年となりましたが、書籍版もお手に取っていただけたら嬉しいです。




