榊の顛末書(九)
これまでも良くないことは畳みかけるように押し寄せてきた。
その都度、手を変え品を変え策を弄して切り抜けてきたつもりだ。
しかし、こんな状況は想定していない。
「あの、副長……」
「うるさい! 寄るな色魔!」
目の前には上司がいる。
胸元を隠すように押さえ、顔を赤くしていた。
手に残るのは柔らかな感触と若干の罪悪感。
「色魔とは、ずいぶんと古風な表現をされますね」
「寄るなと言っているだろう」
鉄の女。
戦女神。
一人軍隊。
鷹司霧姫こそ近衛にこの人ありと謳われた女傑なのだが、こんなにも狼狽するは想像できなかった。
「副長、とりあえず落ち着きませんか?」
「私は十分落ち着いている!」
日頃からこちらを見て話せ、疾しいことがないなら真っ直ぐ前を見ろ、と口うるさい上司が、目を合わせるどころか真っ直ぐ立ちもしない。
どうしてこうなってしまったのか、この状況に至るまでには少しばかり記憶をたどらなければいけない。
◇
九段下にある近衛本部には隣接して寮がある。
わざわざ敷地内にあるのは急を要する場合、近いほうが何かと有利であるため。あとは御所にも近いので有事の際には素早く駆けつけることができる。
寮といっても一部屋の間取りは広く、内装はかなり凝っている。東京都の一等地、分譲マンションとして購入すれば資産価値は数億だろう。しかし、そんな好物件でも良いことばかりではなかった。
穏やかな一日の終わり、近衛にしては珍しく大きなトラブルもなく一日が終わった。
今日はゆっくり眠れそうだ、と部屋に戻ったのだが見通しは甘かった。
「やっほー!」
「よぉ、遅かったな」
同僚であり先輩でもある裂海優呼と立花宗忠がリビングでくつろいでいる。
裂海はソファーの上でポテトチップスの大袋を抱え込み、立花は明太子をつまみに焼酎のお湯割りを飲みながら、二人でテレビを見ていた。 まぁ、二人がいるのはいい。同僚であり、友人、気を使わなくて済む。
暑苦しい近衛服の上着の前を開けてリビングでバラエティー番組を指さしながら笑う裂海の隣に座り、彼女が抱えるポテトチップスの袋に手を突っ込み、何枚か掴んで口に入れた。
「!? なんだ、この味?」
しょっぱいだろうと思っていたのに、妙な甘さのある味付けに驚かされる。
「岡山限定白桃味ポテトチップスよ!」
「白桃? ポテトチップスなのにか?」
「面白いでしょ!」
裂海は平然とバリバリと食べている。
「面白いかもしれないが、味は気にならないのか?」
「あんまりならないわ!」
「……そうか」
まぁ、裂海らしいといえばらしいか。
コイツを見ているとあまり味に頓着しない生き方というは楽かもしれない。
「榊、口直し」
「ああ、ありがとう……うっ!?」
焼酎の入った陶器の器を受け取って一口含む。が、これも癖が強い。
桃の香りとポテトチップスの味、それが複雑な芋焼酎の香りに包まれて見事な不協和音を奏でている。はっきり言って美味しくない。
「鹿児島の伊佐美だ。香りは強いんだが、慣れると旨いぞ」
「……次はもう少しマイルドなのを頼むよ」
「そうだ、さっきまで千景とノーラがいたぞ」
「もう少しで戻ってくるって言ったんだけど、元気ならいいって帰ったわ。はいこれ二人から」
裂海から封筒を渡される。
二週間に一度は会っているのに言伝で済まさないのが千景らしい。
一緒に書いたノーラはさすが政治家の血筋といったところだろう。
『おじいさまが野菜を送ってくださいました。平蔵にも食べてほしかったのでスープを作りました。 千景』
『夜道が心配なので千景さんを送ってきます。料理は私もお手伝いました。 エレオノーレ』
文面にも個性が現れている。
立ち上がってキッチンへ行き、冷蔵庫を開ければ大きなタッパーには具だくさんのスープ、それにチキンステーキ。どちらも千景の得意料理だ。
タッパーを取り出し、スプーンで一掬いして口に運ぶ。
野菜の甘味、香り、香辛料の風味、その奥底に潜むのは昆布出汁だろうか。美味しい、と同時に懐かしい京都での味だ。
気遣いは嬉しい。
自分を心配してくれる人がいるのは有難いのだが、千景はいつからこの部屋にいたのだろうか。それだけではない、ノーラも、リビングにいる裂海も立花も当然のように部屋にいる。ちなみに、朝部屋を出るとき鍵はかけた。
「なぁ、二人とも」
「どうした?」
「なぁに?」
「どっちが先に来たんだ?」
「私!」
馬鹿が挙手する。
「何時頃?」
「一九時くらいだったわ! 千景とノーラよりも前よ!」
犯人を見つけてしまった。
今は二一時、二時間も人の部屋でテレビを見て菓子を食べているらしい。
「俺が来たのは三〇分くらい前だな。千景やノーラと入れ違いだったぞ」
なるほど、千景は学校の部活が終わった後で来たのだろう。
それから料理を作って待っていたに違いない。
「……少しは言っておくか」
いくら帝都でも遅い時間に出歩くのは褒められたものではない。
苦言を呈するのも近衛の務めだ。
「あはははははは!」
「おほー、スゲー面白いな! 榊も来いよ」
「……わかったよ」
リビングでは裂海と立花が笑い転げている。楽しそうなのでスープの入ったタッパーとチキンステーキ持参で二人の元へ戻った。
◇
「ふぅ、ようやく落ち着いたな」
裂海と立花がそれぞれの部屋に戻ったのはそれから一時間後、今日はもう静かに過ごしたいと内側から鍵をかけ、チェーンロックもする。
片付けをして、一日の汗を流すべく浴室に入った。
本当なら疲れをとるためにも湯船に浸かりたいが、そこまでしていると明日に響く。何よりも睡眠時間が欲しい。
シャワーで簡単に済ませ、シャツを着てスラックスを履き、頭にはバスタオルを巻いた状態でリビングへ戻ると、ソファーでふんぞり返る上司と目が合った。
「貴様……なんという恰好をしている。髪くらい乾かせ」
「……」
「大人ならば身なりもきちんとせよ。日頃の行いは有事の際に表に出る。近衛ということを常に意識しろ」
「……」
「どうした? 返事をしろ」
「副長、ここは私の自室です」
「知っている」
自室だというのに注意されてしまう。
部屋の汚い上司に言われても釈然としない。
「鍵も掛けて、チェーンロックもしたのですが……」
「そうか? 気付かなかったぞ」
玄関へ目を向ければドアノブに変化はないものの、チェーンロックは床に落ちていた。
シャワーを浴びていたとはいえ、気付かなかったのはほとんど音がしなかったからだろう。引きちぎられなかっただけマシかもしれない。
「宗近で切りましたね?」
「この部屋は殿下も出入りされる。鍵をかけるなど言語道断だ」
頭が痛くなった。
未だにこの人は俺が殿下をどうにかすると思っているらしい。
「前から申し上げていますが、私が殿下をどうこうすることはございません」
「……信用できない」
「どうしてですか?」
「男とはそういうものだ」
話にならない。
そもそも、あのちんちくりんにどうにかする部分はない。
が、それを説明し、証明することは悪魔でも不可能だ。
「もういいです。分かりました。それで、副長はそのようなことのためにお越しになったのですか?」
「本題はこれだ」
差し出されたのは昨日提出した報告書、今後の近衛を左右するかもしれない機密を含んだものだ。
「なにか問題でも……」
動けばぽたぽたと毛先から水滴が落ちる。
「髪はよく拭け。風邪をひくぞ」
「大丈夫です。それよりも……」
「私が気になるのだ。動くな」
鷹司が立ち上がり、バスタオルに手を伸ばす。
遠慮しようと俺が手を上げたその瞬間、
「っ!?」
落ちた水滴に足を滑らせ、鷹司の体が前のめりに傾く。
「副長!」
慌てて手を伸ばすが間に合わない。
鷹司の体が覆いかぶさり、仰向けのまま倒れてしまう。
受け身もできず、肘や背中を強かに打ちつけた。
「ってぇ」
腰や背中から広がる痛みに頭を振る。
頭を打たなかっただけよかったのかもしれない。
「うっ……」
耳元で声が聞こえる。
視界が真っ暗なのは鷹司が覆いかぶさっているからだろう。
すぐにでも押しのけたいところだが、上司である前に女であることを思い出して気遣うことにした。
「副長、副長……」
「あ、ああ、すまない、大丈夫……」
「いえ、私の方こそ不注意でした」
視界が暗いままなのでどうにかしようと手を動かした。
柔らかいものが手の中にある。
「ん?」
弾力はあるが、押し込むほどに柔らかい。
「ぅん」
「!?」
転倒事故によって混乱した頭が、急速に思考を取り戻す。
しかし、柔らかいものの正体に気付いたがために動けなかった。
驚いたであろう鷹司だが、無言で立ち上がり服装を整える。
「……」
「……」
気まずい時間が流れるが、こちらもいつまでも倒れているわけにもいかず、体を起こした。
あちこちが痛い。疲れもあって、正直早く終わらせて眠りたい。ベッドに入ってゆっくりしたい。なのに、目の前の上司はそう簡単に終わらせてくれそうになかった。
「あの、副長……」
「うるさい! 寄るな色魔!」
「色魔とは、ずいぶんと古風な表現をされますね」
「寄るなと言っているだろう!」
鉄の女が顔を真っ赤にしている。
あまりの狼狽にこちらまで気まずい。
意識されては手の感触が蘇ってしまう。
「副長、とりあえず落ち着きませんか?」
「私は十分落ち着いている!」
とてもそうは見えないのだが、言うだけ野暮というものだろう。
混乱に拍車をかけるだけだ。
「……」
「……」
無言の対峙が続く。
「…………」
「…………」
気まずい。
事故とはいえ、胸を揉んだくらいで泣かれるとは思いもしない。
この場合、被害者は鷹司ということになるのだろうか。無断で部屋に入られ、あまつさえ遠慮したのに人の髪を拭きたがり、すっころんで人をクッションにする。
ここまでだと俺に過失はない。しかし、手に残る感触だけで色魔扱いだ。
しかし、このままでは時間を浪費するだけ。双方に益はない。
早々に謝罪して事態の解決を図ったほうが賢明だ。時間を置けば鷹司も冷静になってくれるだろう。幸い、謝ることは得意だ。
「申し訳ありません」
頭を下げる。
返事はないが気にしない。
「せっかくお気遣いいただいたのに、私の不注意でした」
「……」
「これからは一層気を付けますのでご容赦ください」
「……」
頭を下げたまま数分、無言の圧力に耐える。
すると、
「……もういい。顔を上げろ」
ようやく鷹司から声がかかる。
顔を上げると、まだ顔の赤い上司がいた。
「私も不注意だった。すまない」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません」
「もういいと言っている」
顔を背ける。
そうは言いつつ、なにか納得しがたいところがあるのだろう。
後に残しても面倒だ。ここで是が非でも幕引きをしなければならない。
「副長、なにか不満があるのならばおっしゃってください。私でできることならば何でもいたします」
「……」
「副長……」
早く終わってくれ。
そう願いながら待っていると、
「初めてだった」
「……」
あまりの衝撃に思考が停止する。
この人は、いったい何を言っているのだろうか。
脳が思考を拒否して、言葉が出てこない。
「……あの……おっしゃる意味が……」
「だから、初めてだったのだ!」
なにが、とは聞けない。
聞けば何かが崩れてしまいそうだ。
「責任を取るのか?」
「……えっと」
「父上が仰っていた。男子たるもの、女性に恥をかかせてはいけないと。やむを得ずそうなった場合は責任を取るものだと!」
教育が偏っていたのは立花家だけではないらしい。
どうして武家や華族は極端なのだろうか。
そして、自身の軽はずみな一言を呪うしかない。
「榊……責任を取るのか?」
鷹司の真剣な眼差しに動けずにいる。
下手に答えたら人生がここで決まってしまうかもしれない。
どうしよう、思考がまとまらない。
いつもの強気な上司とは思えない声音に固まっていると、視界の端で何かが動いた。
「えっ!?」
目を凝らせば、いつの間にか寝間着姿の日桜殿下がそこにいる。
ぱっちりと大きな瞳を細くして、俺と、鷹司を睨んでいた。
「……榊? どうなのだ?」
「……」
「榊!」
「ふ、副長、後ろ……」
「貴様、この期に及んで言い逃れ……後ろ…………!!」
振り向き、小さな姿を認めると鷹司の背筋が伸びた。
「……どうしましたか?」
「で、殿下!」
「……つづき、しないのですか?」
「ど、どうしてこちらに?」
「……さかきは、わるいことしていません」
「こ、これは……」
あの鷹司が完全に呑まれている。
殿下は殿下でなにやら不満そうだ。
「……いろいろ、ききたい、です」
つかつかと近寄り、鷹司の手を引く。
「殿下は、どこからご覧になっていたのですか?」
「……さいしょから、です。おしごとがあるとおもって、かくれていました」
「ぐっ!?」
人が雷に打たれたらこのようになるのだろう。
「……わるいこ」
「!」
鷹司が折れた。
小さな殿下に引きずられるように付いていく。
二人の足音が聞こえなくなるのを待って、ソファーに腰を下ろした。
「つ、疲れた」
妙に騒がしかった一日の終わりに残ったのは、手に残る柔らかな感触だけ。
それから数日、やたらと不機嫌な殿下と委縮した鷹司の二人を見続けることになったのは言うまでもない。




