榊の顛末書(八)
過去のストックです。
時系列的には第五部の前、春先の出来事です。
※画像を添付したのでスマートフォンで読まれる方は少し読み込みが遅いかもしれません。
事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだ。先人もさぞや苦労したのだろう。
自分に落ち度がなくとも偶然が重なれば事は起こる。
偶然の舞台となったのは赤坂にある迎賓館、この日はイタリア外相を迎え、会談が行われた。
「ようこそ、おいでくださいました」
「おお……日桜殿下 お会いできて光栄です」
「私も嬉しいです。さぁ、どうぞこちらへ」
二人は笑顔で握手を交わす。
公務ではキリっとしている殿下を微笑ましく見ながら会談を見守る。
ここ一週間ほどは、イタリア外相のために練習を重ねてきた。
事前の打ち合わせ通りイタリアの伝統と日本の伝統にいての類似点から会話に花を咲かせている。
「土地と文化は切り離すことができません。イタリアは南北に長く、最大の人口を有するミラノはアルプス山脈に近い場所で冷涼な気候で牧畜が盛んです。南部の代表的な都市であるナポリは温暖で湿潤です。ミラノとナポリでは年間の平均気温に差があります。このため、北部、南部ともに独自の文化が形成されていったのです」
外相は身振り手振りを交え、歌うように説明をする。
殿下は上手に相槌を入れながら、時には笑みを見せながら話を膨らませていく。
「北部は山、南部は海に囲われ、自然が豊かなのですね」
「おっしゃる通りです。海という点では日本には及びませんが、我が国の魚介類も実に美味しいものです。それに、我が国でも蛸を食べるのですよ」
「まぁ、日本と似ていますね」
イタリアは欧州圏でもたくさんの魚介類を食べる。
その中でも蛸を食べるというのはイタリア南部とスペイン、ギリシャの一部だけ。
面白いのは烏賊はどこの国でも食べるのに、蛸はキワモノ扱いする。日本人にはこの違いが判らない。
「日桜殿下にもぜひ我が国の料理を味わっていただきたい。伝統の牛肉に新鮮な牛乳、チーズ、トマト、オリーブオイル。そこに合わせるのは南北の個性豊かなワイン……」
うっとりとした外相の表情に同席しているイタリア側の護衛、迎賓館の日本職員と、俺たち近衛までその気になってしまう。本場のイタリア料理とワインはさぞ美味しいことだろう。
今夜の献立は決まってしまった。
「ロベルト公とご一緒できたのならさぞ楽しいでしょう。お土産のワイン、陛下もお喜びになります」
「よろしくお伝えください」
名代としての殿下にロベルト外相は丁寧に応じた。
少しばかり殿下との距離が近いように思えるが、それ以外は紳士的で好感触といえる。
さて、ここまではあちら側に主導権があった。
お土産をもらったというのならば返さなければならない。
「榊」
「ははっ」
殿下の目配せに応じて用意しておいた返礼品を用意する。
ラベルも貼られていない透明なワインボトルには黄金色の液体が詰まっている。
二人の間にあるテーブルに置かれたのは二つのワイングラス。
「日桜殿下、これは?」
「葡萄果汁です」
「ほぅ……」
「まずは、どうぞ」
殿下の言葉に外相の目つきが鋭くなる。
光にかざして色を確かめ、鼻を近づけて香りを吸い込み、今度はグラスを回し、また鼻を近づける。一口含み、口の中で転がしてから喉の奥へと送る。最後に息を鼻から抜き、香りの余韻を楽しむとグラスを置いた。
「いかがですか?」
「素晴らしい葡萄です。糖度も酸味も申し分ない。良いワインが期待できそうです」
「この葡萄がワインになるころ、またいらしてください」
「日桜殿下……!」
以前のような一国の大統領相手ならまだしも、ここで複雑な応酬は必要ない。
こちらからのメッセージは友好だ。ワインも同じことがいえる。
ワインは製造工程によって出来上がるまでの日数が異なる。科学的に作る現代ならばひと月もかからないものさえあるだろう。昔ほど時間はかからない。つまりは、いつでも歓迎するということ。イタリア外相もそれが分かっているから喜んでくれた。
「お酒は飲めませんので、私はこちらになりますが」
と、殿下はグラスを掲げる。
「我が国にもピエモンテ、トスカーナ、カンパーニアと良い葡萄の産地があります。飲み比べといたしましょう」
「はい、お待ち申し上げております」
「ありがとうございます」
感極まったのか外相が殿下の手を取り唇を寄せる。
一瞬飛び出しそうになった自分を抑え、ため息をついた。心臓に悪いにもほどがある。
会談は良いムードのまま終わり、外相を見送ったところで終わりとなった。
「殿下、お疲れさまです」
「……はい」
こちらを向いて、殿下が笑う。
さきほどのことを見られていたのかもしれない。
「なにか?」
「……いえ、なんでもありません」
「それでは参りましょう。次の予定があります」
「……はい」
次の予定のために日桜殿下と一緒に車に乗り込む。
今日はドライバーが別にいる。長く御所勤めをしているという彼女に運転を任せ、殿下のサポートに集中することができる。手を引いて車内に入れば暖房もあって少し暑いほどだ。
「殿下、上着をお預かりします。車内で汗をかいてしまっては外へ出た時風邪をひいてしまいます」
「……はい」
コートの下は半袖のワンピース。春の新作らしく、シックで落ち着いたデザインになっている。
「よくお似合いです」
「……あさも、ききました」
「改めて実感しましたので、お伝えしようかと」
「……はい。うれしい、です」
足を揺らす。
上機嫌な殿下を眺めながら、次の予定を確認していると視線を感じる。
「……さかき、さかき」
「どうかなさいましたか?」
「……なんでもありません」
「でしたら袖を引っ張らないでください」
「……さかき、だっこしてほしい、です」
「で、殿下?」
「……あと、ぎゅーって、してほしいです」
日桜殿下はいつになく饒舌で、距離が近く、その上言葉に脈絡がない。
ちょっと変だ、と気付いた時にはもう遅かった。
腕にしがみつかれ、身動きが取れない。
「……さかき、さかき」
「殿下、ちょっと失礼します」
「……?」
額に手を当てても熱はない。頬、続いて手に触れても同じ。
口数が多くなる、甘える、喋りに脈絡がない。これらが該当するものはある。あるのだが、原因が思い当たらない。
「……どうか、しましたか?」
「いえ、今しばらくご辛抱ください」
「……さかきのて、おおきくてかっこいいから、すき、です。ちちうえみたい、です」
「恐縮です」
細い首に手を当て、神経を集中すると頸動脈を通して鼓動が伝わる。
殿下の年齢で一分間の平均呼吸数は一八回、脈拍数は八〇から九〇とされているのだが、今はそれを上回っていた。
早い脈拍に口数の多さ、普段とは違う行動。決めるのはいささか早計だが、俺の知る限り該当するものは一つしかない。
「酔っている。でも、どこで……」
殿下が酒を口にすることはない。
朝の料理に酒類を添加することもあるが、加熱すれば飛ぶはずだ。
それに、今症状が出るとしたらやはり迎賓館でのこと。記憶を探り、それらしいものを洗い出していく
「迎賓館の中で口にしたのは……会談前の飴と水、あとは取り寄せた葡萄果汁……まさか……」
一つだけ可能性がある。
殿下とイタリア外相が飲んだ果汁は、山梨から取り寄せた。
昨年、手摘みで収穫をしてから圧搾、貯蔵したものだ。加熱殺菌をしていない生の果汁ならば、天然の酵母が付着していることも考えられる。
「……さかき、さかき、あそびましょう」
シャツを引っ張られ、俺の体をよじ登る。
ルームミラー越しにドライバーの目が細くなるのが分かった。あまり悠長に構えてはいられない。
「殿下、少しお待ちください。今事実関係の確認をしますから」
「……じじつかんけい?」
スマートフォンを取り出し、今さっき出たばかりの迎賓館にかける。
殿下の状態を伝え、至急確認させれば予想は当たっていた。
『冷蔵したものを常温に戻すべく何時間か室温で休ませていました。その間にほんのわずかですが、発酵が始まったものと思います。申し訳ありません』
恐縮する迎賓館の職員。
大人が飲んでも分からないほどの度数となると防ぐのは難しい。
今後は生の果汁を控えるよう関係各所に通達しなければならない。
「問題なのはこの後だな……」
まさか、酔ったままで次の公務をするわけにはいかない。
適当な理由を付けてキャンセルしなければ、と予定表を手に言い訳を考え始めた時だった。
「……あつい、です」
「へ?」
「……さかき、あついです」
殿下がもぞもぞと動き、あろうことか着ていたワンピースのボタンを外し始めていた。
「ちょっと待ってください殿下、いけませんよ」
殿下は目を覆う余裕すらなく脱いでしまう。
不幸中の幸いはワンピースの下にキャミソールを着ていたことと、今日のドライバーが女性だったことだ。
「……」
ルームミラー越しに目が合い、慌てて逸らされる。
後で面倒なことになるのは確定してしまった。
「俺、なにか悪いことしたか?」
本当の事件は、諦めの境地に至りながら殿下が脱ぎ掛けたワンピースを戻そうと近づいた時に起る。
「……さかき、ちゅ」
「えっ?」
頬に柔らかいものが触れた気がして、思わず動きが止まってしまった。
「殿下?」
「……ごほうび、です」
「ちょっと待ってください。それはダメです。将来を考えるならば色々と問題があります」
「……もういっかい、いいですか?」
「ダメです!」
迫るちび殿下を止め、服を着せるのがやっとだった。
この後、また面倒なやりとりがあるのだが俺自身の名誉のために割愛したい。
ただ、頬の柔らかな余韻はしばらく消えてくれなかった。
とりあえず来週も短編です。