二七話
ペトロパブロフスク・カムチャツキーは北海道よりもさらに北、ロマノフ連峰領カムチャッカ半島の東側に位置する港町だ。冬季の平均気温は氷点下、文字通り身を切るような寒さの中にある。
港に着き、夜の闇に紛れて下船、白凱浬が手配した共和国の武官と入れ替わる形で町へ入り、夜半から降り出した雪に追われて拠点となる安ホテルに駆け込む。
翌朝になってみれば一面が白銀に変わっている。雪は道路はおろか、路上にあった車まですっぽりと覆いつくしてしまっていた。
「ちょっと外へ出てみたけど寒かったわ。これでこそ大陸の冬ね!」
「外気温は氷点下二五度、バナナで釘が打てる」
「ふーん、バナナで釘なんてへんなこと考えるわね。釘なら手で叩けばいいじゃない」
「……それはお前だけだ」
寒さを目の当たりにしても裂海優呼はなんら気後れすることはない。もともと体力と気力が有り余っているのだろうが、それが今は羨ましい。
同時に、頼もしく、心強くもあった。
「近衛は元気だな」
「それに若い、私たちの半分にも満たないじゃないか。羨ましいものだ」
部屋に詰めるのはバックアップをしてくれる白凱浬を筆頭とした武官たち。それぞれが緊張しながらもこちらを気にかけてくれる。
「朝食を用意した。食べながら話そう」
「わーい!」
「いただきます」
パンやハム、カップスープで腹を満たしながら白凱浬の説明を聞く。
「まずは雷帝からだ。今現在も潜伏拠点は判明していない。しかし、市場へは数日置きに現れ、食料品を買っている。頻度からすれば今日明日現れる可能性は高いだろう」
写真を手渡される。
雷帝アレクサンドル・メドヴェージェフは、赤みがかった茶色い髪に、やや細面、バストアップの写真からでもわかる分厚い体をしている。年のころは四〇前後、騎士王と同世代だろう。
「発見はされても尾行を許さないのは、普段から相当警戒しているのね。この人たちでもダメならお手上げだわ」
「我らを、ずいぶん買いかぶってくれたものだ」
「足運びを見ればわかるもの。ヘイゾー五人分くらいの強さね」
「優呼なら何人分だよ」
「それを言わないのが謙虚ってものよ」
裂海の言葉に白凱浬は苦笑いを浮かべた。
彼女が手放しで褒めるのは珍しい。付け入る隙を与えないということは、雷帝がそんな超一流をも上回ることになる。
「予定通り、確認まではお任せしますが、雷帝への接触は私と優呼で行います」
「接触後はどうする?」
「雷帝も、市場の真ん中、人がいる場所で戦うことはしないでしょう。これまでも逃亡の中で人殺しはしていない。だとしたら、今回も逃げることが予想されます。あとは交渉次第でしょう」
「失敗の場合は、速やかに撤退する。成功、あるいは継続が見込めるようなら作戦は第二段階へ移行だな」
「ええ、できればロマノフ皇帝の長子と直接相見えたいところです。あとは、これでなんとかします」
白凱浬から受け取ったずっしりと重い小箱。中身はコバルトが収まっている。
交渉を成功させるには雷帝と、ロマノフ皇帝の長子の双方が揃わなければならない。
「どう交渉するの?」
「企業秘密だ。どのみちお前は後で聞くことになるから、その時まで待て」
「なによ、ケチ! 後で知るなら今でもいいじゃない」
「優呼は顔に出るし、事前に知って、余計なことを言ってもらっても困る。それに、これが俺の仕事だ。お前は護衛担当だろ?」
「……わかったわ」
渋面になるが我慢してもらうほかない。
彼女は彼女で逸っているのだろう。
「進めるぞ。米海軍はベーリング海、ニア諸島まで来ている。だが、あれは囮である可能性が高い、工作員はすでに街にまで入り込んでいると考えるべきだ。そして、米海軍の動きに触発されてロマノフ軍まで動き始めている。どこまで情報がもれているのかは分からないが、時間が経過すれば三つ巴の争いになる」
「できるだけ早く接触します。可能であるならば明日の夜までには終わらせたい」
「……それは榊しだいだ。どのみち、我らにできることは少ない」
「ここまでの段取り、ありがとうございました。あとは任せてください」
白凱浬が差し出した手を握る。
残る武官二人とも同様に握手を交わし、裂海がそれに続いた。
運命の瞬間が近付きつつあった。
◇
大陸の寒さは、日本の寒さと質が違う。
湿気を帯び、手足など末端から浸みこむようだ。
「昨日よりも寒いな」
「いまさら何を言っているのよ……」
人で溢れる市場を歩きながら、裂海と他愛もない言葉を交わす。
寒くても、雪が降った後でも、港町というのは賑やかだ。朝になれば人が集まり、降り積もった雪を踏み、活気によって融かしてしまう。笑い合い語らう姿は頼もしい。仕事でなければ異国の地を堪能できただろう。並んだ魚介類に目移りして、露店商と話ながら売られている食べ物に舌鼓を打ち、お土産はどうしようなどと悩めたはずだ。
『港で米国諜報員と思しき人間を捉えた』
『町の入り口でロマノフ軍の車両が検問をしている』
インカムを通して聞こえてくるのは悪い知らせばかり。状況は切羽詰まってきている。気ばかり逸りながらも、深呼吸をし、なるべく平静を装いながら歩く。
すると、人混みの向こうに鋭い目を見つける。
鋭い目をした、平和の中で浮いている男性に目が留まった。
写真を取り出し、逡巡の後に確信する。間違いない。
「目標を発見した。これより接触する」
袖の中に隠したマイクに囁き、裂海へ目配せをしてから雷帝へと近づく。
大きい。
身長は二メートルに迫るほど、それでいて貧弱さを感じないのは分厚い体ゆえだろう。
幸い、こちらに気付いた様子はない。それどころか、彼の視線はずっと下を向いている。俺の顔が知られていないからなのか、あるいはもっと別の関心があるのか、身じろぎもしない大男の前にでた。
「……!」
彼の視線の先には、一人の子供がいる。
小さく、まだ幼い容姿をした子と、雷帝を前にして、足が止まってしまった。
「うぅっ……」
幼子の両腕には歩行支援機器がある。松葉杖のようなわきの下に挟むようなものではなく、肘から装着し、手でグリップを握るタイプのもの。力が入らないであろう両足を腕が支え、人々が踏み融かした雪と水の混じった道を進んでいた。
「サーシャ……待って、待ってよ」
「リーザ様、私はここにいます。こちらまで来てください」
「雪で滑って……うまく歩けないの。転んでしまうわ」
「外へ出たいとおっしゃられたのはリーザ様です。外へ出れて、歩けば転ぶこともあるでしょう。そうなったらご自身で立ち上がり歩かねばなりません。さぁ、ここまで来るのです」
端から見れば躾に見えたかもしれない。厳しい父親と、体が不自由な子供だ。
いくら人の多い中でも目立つ。幼子は集まる好奇の視線に顔を赤くしながら、大男の方へと一歩、また一歩と進んでいく。
しかし、あともう少しというところで歩行支援機器が滑り、道路に溜まった冷たい雪解け水の中へ倒れてしまった。
「サーシャ、冷たいよ……。さむいよぉ」
「リーザ様、一人で起きるのです」
「立てないよ。サーシャ、サーシャ!」
「……いつでも、私が助けることができるとは限りません。さぁ、お立ちください。そしてご自分の足で歩くのです」
細い腕に、内側に湾曲した脚、雪が解けてシャーベット状になった道路では無理からぬ光景に胸が締め付けられた。
無意識に自分の体が動く。
「ヘイゾー!」
裂海の声を背に、幼子へと駆け寄り、抱き起こす。
「もう大丈夫です」
「……!?」
幼子は突然のことに目を見開く。
抱き上げてみてわかったが、異様に軽い。体は日桜殿下と同じくらいなのに、もっと軽い。胸の内側で何かに火が付いた。
眼前の大男を睨む。
「そのお方に触れるな」
「誰かに頼ることは、決して悪いことではありません。弱さを認めることは自らを肯定する一助になります」
「……なに?」
「これからを踏まえれば一人で歩くことは大事なのかもしれません。しかし、それでは早晩に無理が祟る。雷帝殿は、この子に痛みを強いるというのですか」
「!」
雷帝の目が驚愕に見開かれ、懐に手を伸ばす。
手にしたのは銃か、刃物か。今の状況ではどちらでも大差ない。
「ちょっとヘイゾー、こんなところでやらかさないでよ!?」
俺と雷帝の間に裂海が割って入る。
「裂海……優呼!」
「あら、私のことは知っているのね。光栄だわ」
俺の顔は知らなくとも裂海の顔は知っているらしい。
日本の近衛とロマノフの親衛隊、本来ならば一触即発の事態なのだろうが、生憎、空気など読んでいられなかった。抱きかかえられ、体を強張らせる幼子に顔を向ける。
「ロマノフ皇帝の長子様とお見受けしますが、相違ございませんか?」
「あ、貴方は?」
「私は日本国全権代行大使、日桜殿下の側役を務めます、近衛師団、榊と申します」
「日本の近衛?」
頭を下げる。
「はっ、突然このような不躾をお許しください。この度、お願いの儀があり馳せ参じました」
「私に? こんな私にお願いをしても、かなえては上げられないわ」
首を傾げる。どうやら警戒されてはいないらしい。
『榊、米諜報員がそちらへ向かっている。早く離脱しろ』
白凱浬の声がインカムから届く。
これからというときに、間が悪い。
立ち上がり、逸る裂海を押しとどめ、抱きかかえた細い体を雷帝へと差し出した。
「なぜ……近衛がここにいる」
「米国の諜報員が迫っています」
「貴様……」
「私は彼らの仲間ではありません」
「信用できないな」
「分かっています。ですから、こちらを長子様へ。そして、こちらを雷帝殿へ」
懐から取り出したのは二通の封筒。
「長子様のものは日桜殿下にお願いをして書いていただいたものです。そして、雷帝殿へはこれまでのことを私なりにまとめたもの、そしてジョルジオ・エミリウス・ニールセンへの直通番号です」
「日桜殿下が私に……」
「お読みいただければ嬉しく存じます」
渡そうと手を伸ばせば、雷帝が掴む。
バチバチと紫電が散り、掴まれた手首の皮膚が焼け、肉の焼ける匂いがした。
「私のことは聖ジョージ卿にお尋ねください。その上でお話がしたい」
「貴様らに話すことなどない!」
「いいえ、これは必要なことです。それとも、雷帝殿は長子様を悲しませるおつもりですか?」
「貴様に……何が分かる」
雷帝の鋭い目が怒りで吊り上がる。
紫電は輝きを増し、掴まれた俺の手首からは黒煙が上がっていた。
焼かれる痛みは何よりも痛い。火あぶりが最も苦しい刑であったのはこの痛みゆえだろう。しかし、こんなことよりも痛いことは他にもある。後悔は痛みよりも辛いからだ。
「すでに共和国の政治家、マフィアからロマノフ貴族へ多額の資金が入り込んでいる。再起を図ったとしてもメディア戦略で負けることになるでしょう」
「この国の正当なる後継者はエリザヴェータ様だ」
「それを決めるのは、残念ながら雷帝殿、貴方ではないのです」
「貴様ぁ!」
怒りに燃える雷帝、裂海が割って入ろうとした刹那、小さな手が大男を止めた。
「サーシャ、こんなところではいけません」
「閣下、しかし……」
「榊といいましたね。あなたの言葉に嘘偽りはありませんか?」
「我が主に誓ってございません」
「……わかりました。サーシャ、彼を放しなさい」
「エリザヴェータ様!」
「サーシャ」
「くっ……承知しました」
手が離れる。解放された手首は表皮が焼かれ、肉が露出していた。
雷帝相手にこの程度で済んだのは僥倖だろう。
「臣下の無礼を許してください」
「いいえ、護衛であるのならば当然です。それよりも……」
「追手が……来ているのですね」
幼子は苦しそうな顔をする。
逃亡生活はそれほどに辛く、苦しいのだろう。
「一度場を改めたいと存じます。我々は事前に準備をしてきましたが、そちらは違う。お渡ししたものの真偽を確かめ、その上で話し合わなければいけません。ですが、時間もない。明日のこの時間までにもう一度お会いしたい」
「分かりました」
「エリザヴェータ様……」
「サーシャ、このままではいられません。私も、貴方も、そしてこの国も……」
二人のやりとりに苦悩が忍ばれる。
現実はあまりにも残酷だ。
「私たちは港近くにあるゲイゼルというホテルに居ります」
「お返事は必ずいたします」
ロマノフ皇帝長子、エリザヴェータの合図で雷帝が走り去る。
背中を見送ると力が抜けた。
「ヘイゾー、こっちも逃げるわよ!」
「優呼……」
「なによ?」
「疲れた」
「私だって緊張したわよ! 突然飛び出すし、無礼を働くし、私が護衛なら即時首をはねてるわ!」
「お前が身内でよかったよ」
「バカ! あとで説教だからね!」
裂海に引っ張られ、急いでその場を離れる。
心臓はまだ早鐘を打っていた。