二六話
時間というのは不思議だ。等しく流れ、その中に様々なものを内包している。
人、モノ、事象、あらゆるものが、この瞬間も等しく綯交ぜになって押し流されていく。
「今も……」
雪のちらつき始めた帝都の空は薄曇りで、吹く風は冷たく身も凍りそうだ。北の大地では、もっと寒いだろう。骨まで染みる極限の寒さは心まで蝕んでしまうかもしれない。今、この時も心身を削り、耐えている人がいる。
「平蔵、なにをぼんやりしているの?」
「ヘイゾウさん、こっちですよ!」
お姫様二人の声で我に返る。
クリスマスも近くなった師走のある日、俺は千景とノーラに付き合い、買い物にきていた。
ロマノフに向かうまでの準備期間、城山英雄は特例難民法の推し進め、白凱浬は大陸へと渡り、潜入の段取りを整え、鷹司は国内の様々な機関へ根回しをしている。
それぞれが忙しくしている間、事前準備を先に終えた俺はぽっかりと空いた時間を、こうしてお姫様二人に付き合わせていた。
ここにいないもう一人のお姫様、殿下はといえば、相変わらず忙しい日々を過ごしている。
今日も朝から年末行事で京都へ行っていた。本来であれば俺も同道するはずだったが、因縁浅からぬ土地なので外され、今に至る。
「もう、ぼうっとしないで」
「お疲れなら少し休みますか?」
「いや、大丈夫だよ。千景様もそんなに急がないでください。店は逃げません」
クリスマス用の飾りつけを買いに来てみれば、御所や九段からも近い丸の内界隈は人が多い。
真っ直ぐ歩くことが困難なほどの人混みを、三人でかき分けるように進んでいく。
「ねぇ、なにを考えていたの?」
隣に並んだ千景がスーツの袖を引く。
オフホワイトのニットに黒のデニム、革のロングコートといういで立ちは中学生に見えない。最近では鷹司の影響なのか、華美に着飾ることをしなくなった。
「たいしたことではありません。今年は寒いな、と思いまして」
「それだけ?」
「私が考えることなど、それほどありません」
「嘘ね。平蔵がただぼんやりするはずないもの」
別に嘘ではないのだが、まぁ半分半分といったところだ。
「あら、千景さん、そんなに言ってしまってはヘイゾウさんの逃げ場がありませんよ」
「ノーラ、君もか……」
「私だってお話ししてほしいですけど、無理にとは言えません」
ノーラは隣で見上げてくる。
象牙色の、厚手のシャギーコートに袖の長いシャツ、踵まであるロングスカート姿の少女は、立ち振る舞いがどこか直虎さんに似ている。こちらもあまりベタベタ触らなくなってきたのは有難い。
「私もぼんやり過ごす時くらいあります」
「そう? 貴方のことだから次の出張のことを考えていたのだと思ったわ」
「千景さん、それは……」
千景の指摘にノーラが心配そうにこちらの顔色を伺う。
二人には次の出張、すなわちロマノフへ行くことを話していない。ごく一部の人間しか知らないはずの情報を、二人が知っているのだとしたら少しばかり問題がある。
「千景様、それはどこから?」
「何日か前、帰り際に道場から物凄い声が聞こえてきたから、見てしまったの。優呼と鹿山様が稽古をしていらしたわ。血だらけの優呼なんて初めて見たから、思わず駆け寄ってしまったの……」
それは、確かに俺でも心配になる。
「そうしたら、優呼は平蔵の護衛役だから、次の出張、いえ交渉の場にも付いて行くから、そのための稽古なのだと言っていたわ」
近衛に出入りしている以上、どこからか漏れるとは思っていたが、意外なところからだった。
それにしても、裂海が血だらけというのはよほど苛烈な稽古なのだろう。他人事ながら身震いする。
「私も、朝来さんと一緒に優呼さんの治療を手伝っていますから、ある程度の予想はできます。ヘイゾウさんは思い詰めて、優呼さんは殺気立っている。副長や直虎さんだって表には出しませんが、不安そうです」
思いがけない指摘に顔を触る。
そんなに表情に出ていただろうか。
「思い詰めているわ。眉間から皺はなくならないし、どこか上の空だし、私が髪を切ったことにも気付いてくれないんだから」
「……それは、失礼しました。よくお似合いです」
いわれてみれば確かに千景の髪は短くなっている。
しまったと思った時には、もう遅い。
「平蔵、貴方、今気付いたのでしょう?」
「な、何のことでしょうか……」
「お世辞なんて聞きたくないわ」
千景が小指を引っ張ってくる。
ちょっと痛いのでやめてほしい。
「千景さんの言う通りです。いつものヘイゾウさんらしからぬところがたくさんあります」
「すまない」
ノーラの指摘に自分を振り返ってみるが、よくわからない。
よくわからない状態だからこそ、周囲に悟られたのだろうと分析するしかできなかった。
すると、千景が嘆息し、腰に手を置く。
「私もノーラもそれが貴方の仕事だって、誰かのためなのだろうってわかっているから、止めたりはしないわ」
千景の宣言にノーラの頷く。
「……でも、心配しているのよ。仕事は仕事、平蔵のやることに反対はしません。だから、必ず帰るって約束して」
「千景様……」
「貴方がいない世界なんて、私は嫌よ」
眉根を寄せ、懇願する千景に苦笑いが出る。
買いかぶりもここまで極まれば冥利に尽きる。
「承知しました」
「わかったら、もっと楽しそうにしなさい」
腕に絡みつかれる。
それを見ていたノーラが頬を膨らませる。
「千景さん、少しくっつき過ぎです。それに私が言いたいことを全部言ってしまいました。欲張りすぎです」
「だったら、ノーラもそうすればいいわ。私は気にしないもの」
「では、遠慮なく」
首元に手が巻き付き、正面を陣取られてしまった。
「ヘイゾウさん、お帰りをお待ちしています。どうかご無事で」
「二人とも、ありがとう。今年のクリスマスは良いものにしよう。お土産を楽しみにしていてくれ」
三人で街を歩く。
ロマノフの長子も、雷帝も、平和の中に来てくれるだろうか。
追われる生活よりもこちらを選んでくれるだろうか。不安が募る。
それでも、やるしかない。これが自分に課せられた苦しみなのだろうと腹をくくるしかなかった。
◇
極寒の海を船が進む。
流氷が漂い始めたオホーツク海は、日中でも温度が上がらず、強烈な風と相まって人を寄せ付けない。水平線と、流氷と空が続くばかりの景色は、とても海の上とは思えなかった。
「ヘイゾー、そろそろご飯だって!」
振り向けば裂海がいる。
いつもの近衛服、ではなく、今は一般人を装ってダウンジャケットにブーツ、帽子が似合っていない。
「ねぇ、ここだと寒くない?」
「寒いけど、非日常的な光景だから楽しくてな。氷の砂漠って感じだ」
「ふーん、案外詩的なのね」
裂海家当主はこの景色がお気に召さないらしい。まぁ、彼女は花より団子、景色よりも食べ物や楽しいことが好きだ。
俺たちがいるのは洋上、オホーツク海のほぼ真ん中にいる。
ロマノフ潜入のため、白凱浬が用意したのはクルーズ船だった。
まず、飛行機でフィリピンへ渡り、偽造パスポートを受け取る。空路で上海へ入り込み、そこから船に乗りこむ。
この時期、共和国ではオホーツク海への周遊ツアーが多くある。クーデターで騒がしいロマノフだが、海の上は別だ。客を乗り降りさせない、という条件付きならば警戒はそこまで強くない。
途中、下船こそできないものの、船は水と食料補給のためウラジオストクや今回の目的地であるペトロパブロフスク・カムチャツキーへ寄港を予定している。白凱浬はそこに狙いをつけた。
「これが最も確実で、リスクの少ない方法だ。目的地まで行ったら荷物に紛れて下りればいい」
目立たず、たくさんの人の中に紛れ込むことができる。
刀をはじめとする装備を持ち込むのも容易であり、この作戦にはもってこいなのだが、生憎、客船にはいい思い出がない。古傷が疼くようで心臓がピリピリする。
「早く着かないかしら。体が鈍るわ」
裂海がぼやく。
すでにロマノフ領海に入っているが、目的地のペトロパブロフスク・カムチャツキーまではあと一日かかる。暇を持て余した彼女の口癖だ。
「もう少しだ、辛抱してくれ」
「分かってるわ。大丈夫よ」
こちらの緊張を余所に、彼女は笑顔を絶やさない。
頼もしい以上に、裂海に命を預けている状態だ。極秘作戦なので近衛からは俺と裂海の二人、共和国からは白凱浬と武官の何人かがフォローに回るだけ。プレッシャーも相当にある。
「ほら、行きましょう」
「……ああ」
手を引かれて船室へ戻れば、白凱浬が渋い顔でスマートフォンを見つめていた。
「どうかしましたか?」
「悪い知らせと良い知らせ、どちらから聞きたい?」
「良い方から伺いましょう」
「ロマノフ皇帝の長子と、雷帝はペトロパブロフスク・カムチャツキーにいることは間違いない」
「そちらの予想通り、ですね」
「そのようだ。さすがは騎士王、良い情報網を持っている」
白凱浬がやってくれたのは共和国軍部に近いところから、ロマノフへコンタクトをとり、追撃している部隊の内情を調べてくれた。同時に、騎士王ジョルジオ・エミリウス・ニールセンの助力を得て行動を分析、彼らの行動予想を導き出す。
それによれば、モスクワを脱出したロマノフ皇帝長子と雷帝たち親衛隊は一度南下し、カスピ海周辺に潜伏、それから数か月をかけて東へ進んでいる。追撃隊が最後に足取りを捕えたのはハバロフスクに近いマヤクという小さな町でそれらしい集団が目撃されている。
ペトロパブロフスク・カムチャツキーはカムチャッカ半島の中でも最大の港町。ロマノフの重要拠点であり海軍もいるが、それ以上に物資の集積地として外国人が多い。身を隠すならうってつけだ。
「先行した何人かが雷帝の姿を確認した。間違いないだろう」
「いよいよだ」
緊張感が増して、ジワリと胃が重くなる。
日本にいたときからペトロパブロフスク・カムチャツキーで親衛隊を目撃したという情報は掴んでいた。囮という線も考えたが、戦力を分散しては再起を図ることもできないと踏み、向かうことを決めた。
「それで、悪い知らせって?」
一つ安心してしまった俺に代わり、裂海が聞く。
「米国と、米海軍第三艦隊に動きがある。アラスカ方面にいる一部の艦艇がベーリング海へと向かっている」
「! こちらの動きが漏れているのでしょうか?」
「断定はできない。ただ、青山のこともある。探りを入れていたとしても不思議ではない」
「ただの巡回とかじゃないの?」
「その線もあるだろうが、警戒するに越したことはない」
「優呼、希望的観測は排除しよう」
「だとしたら奪い合いになるわね」
裂海の指摘に肩の重みが増した気がしたが、もう後戻りはできないところまで来てしまった。
懐には殿下にいただいた書状もある。無駄にするわけにはいかない。
「米国の動きはこちらからも探りを入れます。ですが、プランに変更はありません。優呼……」
「分かってるわ。そのための私だもの」
ない胸を張る姿が頼もしい。
本当に、物理的な戦闘面では彼女だけが頼りだ。
「榊も一端の口を利くようになった。だが、膝が笑っている」
「……武者震いです」
「説得力がないのよ! 明日のためにも食べなさい!」
口にパンを突っ込まれる。
咀嚼しながらも心臓は早鐘を打つ。
刻限が迫っていた。




