二五話
奥尻での任務を終え、送ってもらった立川基地から近衛庁舎へ戻らず、直接霞が関へ向かう。
時刻は草木も眠る丑三つ時。数時間前、アポイントメントを取ろうとメールをすれば即出頭するように、との返信があった。
手には機内でまとめた資料と申し訳程度のお土産を持ち、今や与党総裁、時の総理大臣となった城山英雄のいる首相官邸を目指す。
軍と警察、二重の警備が敷かれた中へ分け入る。何重もの検問があるのかと思えば、記帳や荷物のチェックをされることもなく、すんなりと入れる。
執務室の向こうには変わらぬ老政治家がいる。
「やぁ、久しぶりだね」
「ご無沙汰をしております」
「少し待っていてくれないか。もう少しで一区切りつくんだ」
積まれた膨大な書類を一つ一つ読み、万年筆を走らせ、判を押していく。
一〇や二〇ではない数を署名し終えると、ようやく伸びをした。
「すまない、待たせたね」
「お忙しいところ恐縮です」
「他ならぬ君の頼みだ。時間は作るよ。なにより、年寄りの顔ばかりでは辛気臭い、若者の顔は見ておきたいものだ。いっそ、議事堂に若い連中を増やしてもいい」
「それでしたら女性の比率を上げてください。強面ばかりで辟易します」
「考えておこう」
軽口の応酬に笑いが混じる。
どうやらそこまで張りつめているわけではないらしい。
ならば、と持ってきた資料をデスクの置く。
「先生、早速で恐縮ですが、こちらをご覧いただきたいのです」
「君がわざわざアポイントメントを取ろうというものだ。期待してしまうよ」
「恐縮です。お気に召していただけるといいのですが……」
城山が資料を手に取り、何枚かめくれば眉が跳ね上がる。
無言のまま読み続け、どれくらい時間がたっただろうか、投げかけてきた視線には鋭いものがあった。
「ロマノフ、それに米国への対応に苦慮されているものと思いましたので、現状をまとめてみました」
「まとめるどころか、今の核心ともいえるものだね」
厳しい表情を浮かべる。
資料の中にはロマノフがクーデターに至った経緯、共和国との癒着や米国の思惑、軍と皇帝一族とのかかわりが記されてある。これ以上の資料は国内にないはずだ。
「これを、どうやって集めたんだい?」
「方々からお力添えをいただきました。特に、騎士王殿からは格別の計らいをいただいています」
「……ジョルジオ・エミリウス・ニールセンからか。あの強かな欧州連合との交渉手段を聞くのは野暮かな?」
「裂海迅彦と騎士王は縁深いとのことでしたので、裂海家当主に骨を折っていただきました。相応の対価を支払うことにはなりますが、優先順位はこちらが上かと思います」
「貿易摩擦や各地における利権争いはあるが、欧州は敵とは言い難い。ジョルジオにも個人的な要望として協力させたのは上出来だ。裂海の名前は国内よりも海外で強いことも幸いしている。実に効果的だ」
なにやら納得する政治家。
裂海迅彦と、裂海家当主の言葉がこんなにも説得力を持つとは思いもしない。事が済んだら挨拶もせねばならないだろう。
「さて、ここまでは分かった。ここからが本題だが、本件を入念に調べた君の目的はなんだい?」
「日本のこれからを慮っております」
「ずいぶん大きく出たね。して、その慮りをどう形にする?」
「ロマノフの動乱を終わらせ、我が国に利益をもたらし、同時に米国への楔とします」
「どうやって?」
「ロマノフ皇帝の長子を、雷帝と親衛隊ごと保護、亡命させます」
真意を探るべく細くなっていた目が大きく見開かれる。
驚きから思考へと表情が移ろい、数分の黙考の末、城山が出した答えは否定だった。
「君の考えは分かった。しかし、同意しかねる」
「理由を伺ってもよろしいですか?」
「我ら、いや世界の半分は米国の傘の中にいる。彼の国の庇護無しではシーレーンの確保や領海の防衛すら難しい。海洋国家とはいえ、我が国単体で広大な領海を維持することは難しいからだ。必ず大国の後ろ盾がいる」
「反旗を翻せ、とは申しておりません。忠犬といえども牙を折っていい理由とはならないと考えます」
「私の政権は発足直後だ、これから歩調を合わせていかなければならないタイミングで心証を損ねたくはない」
「先生が欲しいのは権力ではないはずです」
睨む。
すんなり受け入れられるとは思っていない。
こちらは政治家が求めるものの先を見る必要がある。
「榊君、高潔であれば世を治められるわけではないよ。我々が主体的に保護をしたというのならば米国との関係に亀裂が入る。まして雷帝ごと、となれば引き渡しを要求してくるだろう」
「主体的にであればその通りです。ですからロマノフ皇帝の長子には自ら名乗り出る形で日本に来ていただき、そのうえで亡命を申請していただきます。先生にはそれまでに難民受け入れの特例を作っていただきたいのです」
「名乗り出ての亡命!?」
政治家が日に二度も驚く姿はあまり見られるものではない。
そう思えば策を講じた甲斐がある。
「じょ、冗談が過ぎるよ。そんな夢物語、誰が信じるというんだい?」
「調べ進めるにつれ、それが確度の低いものではないと思っています」
「しかしだね、君の推論が本当だったとしても、ロマノフが、あの一族が亡命などしようはずがない」
「これまでのロマノフならば、そうでしょう。しかし、私の予想通り、長子が先天的な障害を抱えているのならば、話は別です。強い国家としてのイメージを保つために、軍部と後ろ盾にいる貴族たちは長子を捕え見せしめにするはずです。雷帝からすれば何としても防ぎたいものでしょう。彼らにも逃げたい理由がある」
「……ううむ」
「加えて、これから北の大地は本格的な冬を迎えます。逃亡生活の中で体の弱い長子がどこまで耐えられるか保証がない。怯え暮らし、心をすり減らすのならば、選択肢も出てくる」
「まったく、君という男は……どうしてそうも人の弱みを見つけるものか……」
城山が唸る。
顔に浮かぶのは思慮だ。
考え、想像し、先を憂う。
迷ってくれるならこちらのもの。
「先生、今しかありません。今の状況を打開できるのは私たちだけです!」
「……私もノーラの件で難民受け入れの法案改正はやぶさかではない。ロマノフ皇帝の長子、それに雷帝までが付き従うのなら米国へのけん制にもなる。しかし、どうやって来てもらうんだい?」
「私が直接行って説得をします。こればかりは誰かに任せられるものではありません」
「君が?」
「白凱浬に潜入のための依頼をしました。今一度、共和国を通じてロマノフの内情を探ってもらっています。遠からず潜伏場所にも目星が付くでしょう」
「雷帝をどうする? 君がいくら上手だとしても一筋縄ではいかない。いや、そもそも交渉に至れるかどうかすら難しい。話をする前に消し炭になる危険もある」
「御心配には及びません。そのための策も用意してあります」
用意した資料とは別のペラ紙をデスクに置く。
中身は白凱浬に求めたものの詳細が記されている。
「コバルト?」
「正確にはコバルト六〇、放射性物質ですね」
「外国で放射性物質騒ぎは国際問題になる。慎んでほしいものだが……これで何をどうするのかね?」
「放射線の漏洩を防ぐために紙とアルミで包み、鉛でできた箱で運搬、保管します。使い道ですが、これで脅そうと思いまして……」
「脅す?」
「はい。いくら雷帝でも、本質的には人です。生物であるならば効果はありますから」
「……脅す」
こちらの主張に、政治家は何とも言えない表情になってから、苦い笑みを絞り出す。
察しのいい城山だ。こちらの意図に気付いたのだろう。
「君は……悪いことを考えるんだね。かの雷帝に、こんなにも残酷な場面を用意するのか」
「褒め言葉と受け取ればよろしいですか?」
「ああ、褒めているんだ。心底、君とは敵対したくない」
「ありがとうございます」
「しかし、その切り札を使うには君にもリスクがある。それでも使うのかい?」
「使います。殿下のためならば、迷いなどありません」
溜息が聞こえる。
感嘆か呆れかは定かではない。
「榊君の真意に敬意を表して、法案は用意させよう。ただし、二週間は待ってほしい。いくら特例でも一足飛びというわけにはいかない」
「差し出がましいようですが、米国にはなんと?」
「君の言葉が真実になれば、我が国は少々特殊な亡命を受け入れるだけだ。法案の成立時期などいくらでも誤魔化せる。以前から憂慮をしていた、と話せばよいだろう」
「申し訳ありません」
「成功は疑わない。そのために準備だけは怠らないようにしてくれ。法案を作っても君が失敗した、では済まないからね」
「すみません、もう一つ、第一大隊長の青山さんが監視されているといっています。今後のためにもご家族を保護していただきたいのです」
「まったく、後出しが多いよ。どこの監視、とは聞かないほうがよさそうだ」
「ご慧眼恐れ入ります」
「君に我欲がないだけが救いだよ。貸しは二つに留めておこう」
「重ね重ね恐縮です」
差し出された手を握る。
心配事の一つ目が片付いてくれた。
◇
政治家との話し合いを終え、近衛寮に戻ったのは空が明るくなり始めてから。
部屋に入ってからはスーツを脱ぎ捨て、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すとフタを開けて半分ほど飲む。
「疲れた……」
ようやく人心地つけた。
奥尻での仕事の合間を縫って資料を作り、城山へのプレゼンは神経をすり減らした。一人の政治家としてなら交渉もできるが、一国の首相となった人間を相手にするのは次元が違う。心労も思った以上だ。
「そろそろ交渉スタイルも変えないとダメだな」
後だしでの情報開示、入念な下準備をするとはいっても相手の虚を突くだけでは限界がある。ビジネスならこれだけでも良かったが、この先も難しい局面があることを想定すれば足りない。しかし、それもこれも今回を乗り切ってからだ。
「まずは、白凱浬との打ち合わせ、それから……共和国内の動向を見極めて、今後の方針もできれば知っておきたい」
考えること、準備することは山のようにある。
関係各位との連携もこれまで以上に密にしなければならない。加えて、情報が漏洩するリスクも減らす必要がある。海の向こうに知れてしまえば妨害されるだろう。そうなれば計画は水の泡となる。
「あとは……航空便の手配と、専用機は……ダメか。事前に準備していたととられるのは……よくない。あくまで偶……」
瞼が重くなる。
思考が鈍化して、脳が考えるのを放棄し始めた。
「……」
水底に吸い込まれるように意識が沈む――――。
しばらくすれば、心地よさが全身を包んでいた。
頬を撫でる感触は水漿のように柔らかい。体中が浮いているかのような浮遊感、特に首元から頭全体を覆っているものは例えようがない。
光と水を混ぜ合わせた、水底から湧き上がる泡沫の密度を濃くしたものがあったのなら、こんな感触ではないだろうか。
こんなにも体を休められるのは久しぶりだ。
前はいつだっただろうか、忙しすぎて思い出せない。
――――前、前、前。
「……!」
脳裏を光が駆け巡る。
久しぶり、ということはこの感触を知っている。
誰が、どこで、なぜ、どうして――――。
思考が加速し、沈んでいたはずの意識が急速に浮上する。
「……」
「……」
光に手を伸ばすように目を開ければ、そこには見知った顔があった。
細面に少し上がった眦、流れるような柳眉、形の良い唇。パーツは整っているのに、どこか間延びした印象を受けるのは本人の気質だろう。
その顔に安心したのか意識が再び揺蕩う。
「殿下?」
「……はい」
頷けば髪が揺れる。
頬に触る感触は殿下の美しく長い黒髪だった。
「……さかきが、かえっていると、ききました。ですから、かおをみにきました」
未だ覚めきらない頭と目で周囲を見渡す。
時計を探しても見つけられない。
「……もうすこし、ねむってもいいのです」
「ですが、それでは……」
「……わたしのことなど、いいのです。これからがたいへんなのですから。やすめるときには、やすんでください」
微笑み、指で俺の髪を梳きながら、殿下は歌い始めた。
揺蕩う意識が歌によって沈み始める。
心地よさに瞼が閉じ、身を任せていた。




