二三話
鷹司霧姫から呼び出されたのは自室での一悶着から翌朝、こちらの起床時間を知っているかのように固定電話が鳴った。溌剌とした声の鷹司から電話を切った後で、監視カメラの存在を疑ったほどだ。
食事をする暇もなく、エナジードリンクだけを腹に詰め込んで、いつも以上に身だしなみを気にしながら副長室へと出頭する。
「おはようございます、副長」
「ああ、おはよう。早朝の呼び出し、すまなかった」
鷹司は普段の乱暴な言葉遣いは鳴りを潜め、実に丁寧な受け答えをしてくる。かえって不気味だが、藪蛇にはなりたくない。
「か、顔色がよろしいですね。なにかあったのですか?」
「なに、たいしたことではない。直虎と少し話し合っただけだ」
上司の肌艶がいい。
昨晩、一時間ほど部屋を開けてから恐る恐る戻ったとき、上司二人の姿はなかった。代わりに、直虎さんの着ていた上着とシャツが転がっていた。その結果がコレだとしたら、鷹司は妖怪の素質があるに違いない。
「さて、昨晩の続きだな。おおよそのことは聞いた。ちょうど鹿山翁や伊舞さんからも話があったところだ」
「それでは……」
「貴様の考えは分かった。しかし、あえて私は反対したい」
鷹司は眼光鋭く言い放つ。
「なぜでしょう」
「私は、お前を様々な事柄に巻き込みたくない。これまでは、結果的に上手く事が運んだが、薄氷の上を渡ってきたにすぎない」
「……それは、分かっています」
「自覚があればいい。私の願いは日桜殿下の安定だ。国際社会が揺れ動く今だからこそ、殿下には穏やかに過ごしていただきたい。それが国民の支えとなり、ひいては日本の安定へとつながる。そして、貴様はその殿下を陰から支えるのが役目。ゆえに少々のことには目をつぶってきた」
「私は……殿下の御側にいるからこそ見えるものがありました。国を憂う気持ちも同じです」
鷹司は身を乗り出し、体の前で手を組む。
「今回のことは、私の失態だった。貴様を現場から遠ざけたいあまり、余計な気を使ったが、結果として思考の先鋭化を招いた。適度に情報を与えた方が無難であった、とな」
「あまり……良い気の使われ方ではありません……」
「貴様は使いやすい」
鷹司の断定に言葉が止まる。
指摘されてから背筋が伸びた。
「頼まれれば嫌とは言えず、責任感も義理堅さもある。何よりも真面目だ。思考の柔軟性はあるが、常識を逸脱しないあたりに育ちの良さが見える」
「それは褒めてませんよね?」
「周囲からすれば利用しやすい。確かに信頼もあるだろうが、誰かが悪意を持てば底なし沼に引きずり込まれる。危うい状態だ」
「……」
反論ができない。
「殿下のためであることが、すべての免罪符となるわけではない。そのうえでもう一度言おう。貴様には、これまで以上に支えになってもらいたい。せめて、陛下がお戻りになるまでの数年間、殿下とともに大人しくしていてほしい」
鷹司の言葉もわかる。
賢く在れたのなら言葉に従っただろう。だが、生憎とそこまで出来が良くない。知ってしまった以上は動かざるを得ないからだ。
「副長、事は一刻を争います。救える命があり、それによって殿下の、いえこの国も未来を支える一助にもなるのです」
「馬鹿者、己惚れるな!」
雷鳴のような叱責が飛ぶ。
「一個人が想像できる国難などない。よしんば、当たっていたとしても、貴様だけでなにができるというのか。殿下も責を被る事になる。貴様の安い命一つでは足りんぞ」
ここまで強硬に反対されるとは思わなかった。
少し期待していた分、反動が大きい。どうしたものかと苦しい言い訳を、と口が開く。
「ですから、確度の高い情報を得て、リスクを最小限にしようと……」
「確度が高いからと言って絶対とは言い切れん。それに、お前の策は敵を多く作る。米国を相手取り、心証を悪くしては太平洋が揺らぐぞ」
「副長、米国だけが正義ではありません。それに長期的に見れば、今回のことも交渉の一助になります」
「それはお前が政治家になってから言え」
「……」
「今回の件は胸に仕舞え。今後は貴様にも情報は開示しよう。私たちと意思疎通の場も設ける。だから、今回は静観しろ」
「副長……」
「榊、分をわきまえるのだ」
ことごとくを封じられる。ここまできて躓くとは思わない。
ダメか、そう思いかけた時だった。
執務室のドアが開かれ、日桜殿下と直虎さんが現れる。
驚きに目を見開いたのは誰でもない鷹司。
「殿下!? どうしてここへ?」
「……わたしが、むりをおねがいしました」
朗らかな笑顔でこちらを見る。
真っ直ぐで、純粋な瞳に射貫かれ、言葉が出てこない。
「……さかき、はなしはうかがいました。……いって、きなさい」
「殿下!」
驚愕する鷹司に傍らに控えた直虎さんを睨む。
いつもは穏やかでゆったりとした美貌の女剣士が、今日ばかりは塩もみされたように元気がない。
「直虎、まさか……」
「なにも……申し上げることはございません」
「昨晩のことも、か?」
「……申し上げることはございません」
言葉を重ねる。
他人事ながら哀れだ。
「……きりひめ、せめてはいけません。わたしが、むりをいったのです」
「殿下、近衛の機密です」
「……ちょっと、きになったので、ききました。ごめんなさい」
「直虎、始末書では済まんぞ」
美貌が見る影もなくなり、さらに萎れる。
情報源は彼女なのだろう。押しに弱いのは分かっている。
昨晩の意味深な目配せと、鷹司に何かされた直虎さんの様子を、不審に思った殿下に詰め寄られたに違いない。元来、殿下には甘い彼女のことだ、抵抗は無駄だ。
哀れにも、二人のわがままに翻弄された女性に黙祷を捧げながら、こちらにやってくる殿下に頭を下げる。
「……さかき、あなたのかくご、うけとりました。わがためとおもうなら、ぞんぶんに、してきなさい」
「殿下、それでは……」
止めようとする鷹司を制し、首を振る。
いつもの柔らかさはない。
「……よいのです。しっぱいしないにんげんなど、いません。さかきのしっぱいは、わたしのしっぱいです。こわがっていても、なにもかいけつはしません。ときには、とびこむゆうきも、だいじでしょう」
「殿下……」
俺の手を取り、握りしめる手が熱い。
「……ひとつ、やくそくをしてください。しっぱいをしても、かんたんに、みずからをばっしないことです。われのためというのならば、さいごまでいっしょにくるしみ、じごくにおちてもらいます」
「それが、私でよろしいのですか?」
「……もちろん、です」
頷き、微笑んでくれる。
憮然とする殿下は鷹司に向き直り、頭を下げた。
「……きりひめ」
「殿下は甘い」
「……わたしは、きりひめにもあまい、ですよ」
殿下が微笑んで見せる。
「本当ですか?」
「……さんにんで、おふろにはいりましょう」
「…………二人で、です。直虎は、しばしお預けがよいでしょう」
「霧姫様、そのようなご無体を……」
直虎さんを見て、くすり、と笑う殿下と鷹司に身震いする。
女性の対立構造に関わりたくない。
「……さかきへいぞう、あなたは、これよりわれのめであり、ことばは、われのことばです。こころえなさい、われのことばが、いかなるものかを」
「承知いたしました」
厳しかった殿下の瞳に、柔らかさが戻る。
「……そして、やくそくしてください。めがみえなくなったら、わたくしは、くらやみにいることになります。つらく、かなしいです。そのようなこと、だめですよ」
「留意いたします」
「そこは素直に受け取れ、馬鹿者」
鷹司に蹴られる。
「……さかきへいぞう、あなたの、ぶうんを、いのります」
決意を新たに頭を下げる。
護るべき姿に姿勢を正した。
◆
諸々の報告が終わり、一安心をしていた午後、またしても部屋の人口密度が上がる。
部屋には千景、ノーラ、それに殿下と直虎さんまでいた。
「出張? またなの?」
「今度はどちらですか?」
不満そうな二人を尻目に、事情を知っている殿下だけはのほほんとお茶を啜っていた。
直虎さんは小さくなって殿下の手足をマッサージしている。この前の一件で頭が上がらなくなったのだろう。前にも増して従順だ。
「北海道です。立花宗忠の交代要員としていきます。移動や引継ぎを入れると五日ばかりでしょうか」
隠すことでもないので包み隠さず話せば、千景は「ふぅん」と目を細め、ノーラは立場上、立花の背景を知っているだけに「なるほど」と納得してくれる。
「いつから?」
「明日にでも。といってもフライトは夜、国内ですから用意という用意も必要ありません。それに、夕方までは殿下のお供もあります」
「……」
「千景様?」
見上げる瞳の奥に炎が揺れているような気がしたが、それを指摘する勇気はない。
「仕事とは、時に命を懸けることもあるでしょう。平蔵はそういう職務についているのだから、私からは何も言いません」
「ご、ご理解いただき恐縮です」
「無事に、戻ってきて」
名残惜しそうにする元ご主人様に内心胸を撫でおろす。
今日は大人しくて助かった。
「千景さん、終わりました?」
ノーラが今度は私ですね、と後ろで順番待ちをしていた。そんな二人を余所に、美貌の女剣士は涙を流さんばかりに奉仕をしていた。
「殿下、そろそろご勘弁願いたいのですが……」
「……だめ、です」
「すべてお話ししましたのに……」
「……ないしょでおはなし、だめです。さいしょにきいたとき、ごまかしました」
「あれは……また宗忠の戯言だろうと思ったからでして、殿下のことを思えばお話ししない方がよろしいものと判断したまでのこと」
「……さかきのこと、ちゅういしてみておくように、といいました」
漏れ聞こえてくる二人の会話に耳を疑う。
千景とノーラ、二人の相手をしながらも耳をそばだてておいてよかった。
「どうしたの? 気になることでもある?」
「ヘイゾウさん、どうかしましたか?」
「い、いえ。なんでもありません。今度のお土産は何がいいですか?」
取り乱すまいとどうでもいい話題をするだけで精一杯だ。
「平蔵が選んでくれるものならなんでもいいわ」
「私もです。あ、でも北海道の景色は見たいので写真をたくさん撮ってきてください」
いいですか? と上目遣いのノーラを、千景が袖を引っ張ってけん制する。
火花を散らしつつも無邪気な二人に安堵しながら耳に全神経を集中させた。
「殿下、私も四六時中というわけには……」
「……わかって、います。でも、なおとらがいちばん、さかきにも、きりひめにもちかい、です」
「殿下の御為ならばこの身は粉になっても構いません。しかし、いささか私的が過ぎるかと存じますが……」
「……よびかたのこと、まだきいてません」
「!」
「……さかき、ではなく、なまえでよんでいます。どうして、ですか?」
「いえ、あの、それは…………いろいろとありまして」
「……いろいろ?」
「ご、ご容赦ください」
直虎さんがマッサージを続ける。よくわからない駆け引きがここでも行われていた。
近衛は今日も平和だ。




