プロローグ
金が欲しい。
最初にそう思ったのはいつのことだろうか。
唸るほど欲しい。うざったいぐらい欲しい。使いきれないぐらい欲しい。
覚えている限りでは小学生だったと思う。当時は欲しかったゲームソフトがいくつもあったからだ。だが、それが叶ったのはずいぶん後、高校生になってアルバイトができるようになってから。
アルバイトの最中ふと疑問に思ったことがある。なぜ俺は無能でしかない店長という肩書きだけのオッサンに頭を下げなければならないのか。
金は欲しい。
でも無能の下には付きたくない。
要約すれば金と権力。この二つを併せ持つものは何なのか。ズバリ社長だ。勿論、簡単になれるなんて思ってない。自分なりに必要なものを考えた。
一つ目は知識。
これは絶対条件になるので、高校から大学卒業まではあらゆるジャンルの本を読んだ。
二つ目は見聞。
大学生の頃なんて夜行バスや青春切符で貧乏旅行三昧。色々なところに行って、人と話したり体験したりもした。昨今では頭がいいだけでは、なんて陰口も叩かれる。経験もそれなりにしておいた方がいい。
三つ目は今を知ること。
前者二つを活かし、仕事とも結びつけるには『今』が必要不可欠となる。就職して三年、これも欠かしたことがない。
「まずは時事のチェックだな」
テレビを点ける。
『共和国が事実上のデノミ、輸出拡大を図り関係国からは非難の声明が出されています』
男性アナウンサーが神妙な面持ちで告げているのは隣国のニュース。
画面には無数のフラッシュを浴びるスーツ姿の老人が映し出されている。大陸、統一人民共和国の総書記で、何日か前にも欧州連合に輸入品の関税引き下げを要求していた。
「このご時世、ずいぶんと横暴でいらっしゃる」
『日本は共和国との貿易増加に向け、新潟港を新たな拠点として化成品や食品の税金を緩和することを発表し、調整が行われています』
横暴な国家との関係強化を図るというのはかなりの英断、というか利害が透けて見える。が、確かに世界一の人口は経済の面からみると魅力的だ。
『また、これを受け七月には共和国との式典も行われることになっており、我が国からは日桜殿下、共和国からは呉副主席が出席され、両国の関係強化を目指すこととなっています』
画面には陛下の娘であり、全権代行となっている少女の後ろ姿が映し出されている。皇族を直接カメラで撮影することはタブー、声や後ろ姿ばかりだ。
「殿下、か」
日桜殿下は日本国全権代行大使、現陛下の長子。
直系の皇族に謁見できるのは一部の上流階級のみ。つまり、会える立場というだけで一種のステータス。
一度でいいから会ってみたい。
憧れとか崇拝ではなく、個人的な興味の範疇ではあるが。
ヒトの上に立つ存在というのは生まれながらにどんな特徴があるのか、興味が尽きない。
いつかは、と思い描きながらテレビを見つつ今日のスケジュールを確認する。
「さて午前中は商談が二件、午後は下請けと打ち合わせ。夕方は企画会議。資料は…………」
昨日仕上げた分を含めテーブルの上に資料を順に並べて端から内容をさらう。準備というのは大事だ。その場になって考えるなど愚の骨頂でしかない。
「資材の搬入は予定通り、帝都内、及び関東圏でのネイルサロンは拡大の一方ではあるが、五年後には衰退期に入る。三年を目処にエメリーボード用のアランダムは生産を半減。以後は皮膚用の軽研磨布へと移行予定、っと。こんなものか」
資料を鞄へしまってペンを掛けてあるスーツの内ポケットへ差す。
時計を見れば午前七時。
さぁ、出勤時間だ。シャワーを浴びて身支度を整える。
「今日の商談はクローズが一件、となると、ワイシャツは白、ネクタイは赤だな」
物事を決めるときはこの色に限る。清潔な白は情熱の赤を引き立てる。ダテにカラーコーディネートを学んだわけではない。
出社の準備も終わり、最後にパソコンをのぞき込んだ。
「くっくっく、今日も順調だ」
思わず笑ってしまう。
点きっぱなしの画面には冬のボーナスで買った株の値動きが記録されている。奮発と読みの甲斐あって順調に値上がりしている。もう少しあがったら売って夏のボーナスと一緒にさらなる投資ができる。そうすれば次の冬にでも引っ越しができる。こんな狭い部屋からもおさらばだ。
さて、もう一稼ぎしてこよう。
左手に鞄、右肩にスーツを引っかけて玄関のドアを開ける。
初夏の空に太陽がまぶしい。今日も暑くなりそうだ。
◆
日差しも傾きかけた頃、予定を終えて帰社する。
入社して三年、随分慣れた。が、初心は忘れてはいけない。
声と笑顔は内外を問わず使うことにしている。
「ん、んんっ」
軽く咳払いをする。よし、OKだ。
「――――只今戻りました!」
我ながら良い声、なのに返事がない。
いつもなら内勤のババアどもが見たくもない笑顔と聞きたくもない嬌声をあげるというのにそれがない。
「どういう……ん?」
室内がざわめいている。
「お疲れ様です」
近くにいた可愛いげのある事務の女の子に声をかける。
「あっ、榊さん。お疲れさまです。外回り暑かったでしょう?」
「大したことはありませんよ。それよりも、みんながざわざわしてますね。なにかあったんですか?」
「えっと、それが……」
女の子の視線の先には悲嘆に暮れる紺色の背中がある。三期上の先輩だ。優秀ぶっているくせに見積りが苦手で手配が雑なダメリーマン。
なるほど、読めた。
「ははぁ、なるほど。手配ミスですか? それとも納期遅れ?」
「どっちも、みたいです。キャンペーン用の什器を発注したみたいなんですけど組立と梱包日数を計算に入れてなかったみたいで」
「う~ん、困りましたね」
バカが、またか。
「なんでも大きな案件らしくて、穴あけたら取引停止らしくって」
「想像したくないですね。あの人の大きな案件って花園か、それとも東栄?」
「花園です。それも夏向けの紫外線対策用の販促什器で一本コース」
ノータリンがやらかしやがった。
花園は主に化粧品の製造販売を行う国内屈指の会社だ。
一本は金額の単位。一千万以上を指す。この金額だと全国展開クラスに相当する。
「なんでできないんだよ! 予算もプラスするっていってるだろ?」
ダメリーマンは電話越しに下請けを怒鳴っている。そんなことをしても無駄だ。
「うわー、ヒステリックですね。怖いなぁ」
事務方の女の子が引いている。まぁ、当然といえば当然か。
それにしても夏を前にしたこの時期、関東近郊の下請けはどこも予定が詰まっている。何をどうしたところで、できないものはできない。入社していったいなにを学んできたのか、頭の中身を見せてほしいものだ。きっとスポンジが詰まっているだろうが。
「あまり言いたくはありませんが一人では何とかするのは無理でしょうね。部長は?」
「外出中です。今日は戻るのが遅くなると…………」
「そう、ですか。納期まではわかりますか?」
「えっと、確かあと四日くらいで戸田の倉庫に集めるみたいです」
「戸田か……」
ヤツの上司、第三営業部の部長はどちらかといえば温情タイプ。人の伝手や自分のコネで仕事を取ってくるタイプだ。伝手もコネもオイシい。
貸しを作る価値はある…………か。
自然と口角がつり上がるのが自分でもわかる。部長と接点を持つチャンスだ。そのためには。
「榊さん、なにか考えてます?」
「え? ま、まぁ、そんなところです。どうもありがとう」
「あっ、はい」
事務方に礼を言って自分の席に戻る。
あぶないあぶない、思わず本音が出るところだった。気を取り直して上司の元へと向かう。
「次長、ただいま戻りました」
「おお平蔵か。ご苦労さん。理科研はどうだった。上とは会えたのか?」
「ばっちりです。技術部の部長と話してきました。概ね条件は飲んでもらえそうです。単価は一割くらいしか落ちませんでしたが」
「一割? なんだ、値切ってきたのか?」
「仕入れは安い方が良いと思いまして。余計でしたか?」
次長の顔に驚きが浮かぶ。まぁ、そのくらいして欲しい。
「値下げもなにも俺は別に構わないが、条件を変えたら契約書の変更が必要になるぞ」
「いえ、そんな面倒な事ではありません。ただ付け加えたんです」
「なんだ?」
「向こう五年くらいは使い続ける予定です、って」
「……またやったな」
次長がにんまりと笑う。
イエス、その顔が見たかった。
「つい話しすぎるのが私の悪い癖でして。ついぽろっと」
「本当に悪い癖だ。使い続けはするが、五年後まで同じ量とは限らない、とまでは言ってないだろう」
「肝心な部分を忘れる。それも私の悪い癖です。契約書や書類にはなにも加えていません。単なる相手方のサービスですよ」
「程々にしろよ」
「大丈夫です。その頃には担当も変わっていますよ。私も含めて、ですが」
「イヤラシいな。誰に似たんだか」
「師匠が良かったですからね。それよりも……」
報告は終わりだ。続いて目をあの哀れなダメリーマンへと向ける。
「第三営業部の件でお話がありまして……」
「ああ、あれな。どうした?」
「僭越ながら、私がお手伝いできないかと」
「お前が? なんでまた? 花園は大口だ。失敗すれば大きな穴があくぞ。責任とれるのか?」
次長の目がまっすぐにこちらを見据える。真意を図っているのだろう。
「下請けが無理でも組立と梱包なら内職が使えます」
「榊、あのなぁ」
「今日中に埼玉か群馬の内職へバラ撒きましょう。千でも二千でも百軒に散らせば一晩で終わります。それなら遅くても明後日の夜には終わる。一日で集めれば納期は守れます」
「埼玉には俺も当たった。だが、今の時期は無理だ」
「だったら長野でも新潟でも、戸田に集めるなら簡単です」
埼玉、それも戸田は流通の拠点。
そこからなら関越道を通して上信越のどこにでも手が伸ばせる。
「だがな、長野や新潟まで手を広げると業者や内職者のリストがないぞ」
「私が持っています。以前業者に依頼したことがあります」
「……」
「お願いします。先輩を助けたいんです」
「助ける、か。ふん、お前らしくないな。前に世話にでもなったのか?」
「新卒の時にわずかな期間ですが面倒をみてもらしました。奢ってもらったこともあります」
まぁ、昼飯だけだけど。
でもサラリーマンにとっては飯の一粒、酒の一滴でも恩になる。理由としては妥当だろう。
「自分の仕事は?」
「今月のノルマならさっき達成しました」
「このあとの会議資料は?」
「次長にお預けします」
ここまでは完璧。あとは次長次第だ。でも、この感じなら――――。
「……負けたよ。やってみろ。ただし監督は私がやる。部長へも私から話そう。お前まで失敗したらそれこそ目も当てられん」
「ありがとうございます!」
次長が折れた。
さすがは我が師。決断が早くて助かる。
さて、それじゃあアホを一人救いに行くことにしよう。
ネクタイを締め直して咳払いをする。こういうときはできるだけ優しい声がいい。
「お願いします! なんとか!」
気がつけば、怒鳴り声はいつの間にか懇願に変わっていた。しかし、いよいよもって情けない。こんなのが先輩だなんて恥ずかしくなる。
「先輩」
ぽん、と肩を叩いた。
大の大人がビクり、と震える。いつか上に立ったらもう一度同じ事をしてやる。
「さ、榊?」
「お手伝い、させてください」
今はせいぜい踏み台になってもらうとしよう。