二一話
近衛の最高権力者は鷹司霧姫である。
皇族の縁戚にして国内でも五指に入る財閥の息女、政財界にも顔が利く、華美にもほどがある女性だ。実際は一人では片付けができなくて、食事の作法もお世辞にも上品とは言えず、酒に弱いポンコツだが、名誉のために黙っておきたい。
そんな鷹司と権力の双璧を成すのが相談役と顧問、妖怪こと鹿山翁と固有によって老けなくなった伊舞朝来だ。春先、鷹司が倒れ、入院していた時も近衛を取り仕切っていたのはこの二人、何かしようと思ったら避けては通れない。
先に鹿山翁を、ついでにと伊舞を探していると、二人は医務室で茶を啜っていた。
「なんだ、二人そろって」
「珍しい組み合わせね」
後ろの裂海に二人が驚く。
昨日、騎士王とのやり取りから何かと付きまとわれている。
「へへへー、ちょっと色々ありまして。今のうちに貸しを作っておきたいんです」
湯のみと茶菓子を出され、後ろ頭を掻きつつも全く遠慮することもなく裂海は口にする。経歴や肩書だけで見るならコイツも鷹司に負けない。
「もうそんな時期か?」
「アンタも大変ね。咲子も覚めてたら面倒はなかったでしょうに」
「あはははははー」
笑って誤魔化す姿に嫌な予感がする。
ジジイもババアも知っているとなれば相当な厄介ごとの類だろう。探りを入れてみたい。
「なに企んでいるんだ?」
「まぁ、いいじゃない。だって、ヘイゾーは今をどうにかするんでしょう? 私のことはそのあとだから」
「……面倒ごとは御免だ」
「国難に比べたら大したことじゃないわ。それに、もうヘイゾーは貸しを作っているんだし、逃げられないの」
バシバシと背中を叩かれる。
気が重くなってきたが、文字通り後の祭りだ。
「それで、何の用だ? まさか、茶を飲みに来たわけでもあるまい」
「……これをご覧いただきたいと思いまして」
裂海のことは諦め、作った書類を渡す。
鹿山は顎を撫で、伊舞は眉間に皺を寄せる。
記されているのはロマノフのクーデターと、そこに至る経緯、欧州や共和国から得たものを盛り込んだものだ。
「雷帝、それに共和国、さらには米国か……」
「どこまで本当なの?」
目を細めるだけのジジイとは違い、伊舞の問いは鋭い。
「少なくとも前半は事実です。後半部分はまだ憶測になりますが」
「憶測を並べたところで意味がないでしょう?」
「ですから、確かめに行ってきます」
「どう確かめる。米国に伝手があるのか?」
「奥尻に行き、青山さんに聞いてきます。米国の思惑は確信を得ることができるでしょう」
二人が渋面になる。だが、これも予想していたことだ。
「このこと、霧姫には報告したの?」
「いいえ、これからです。まずはお二人が先かと思いまして」
「相変わらず根回しは上手いわね。ねぇ、どう思う?」
伊舞から促され、鹿山は視線を真っ直ぐに向けてきた。
黒い目の奥には思案が見える。
「好きにしろ」
「はぁ?」
意外な答えに伊舞が目を丸くする。
それは裂海も、俺も同じだ。
「己が私心を満たさんとするのならば儂も止めよう。しかしだ、困ったことにこやつはそれがない。真に主を憂いてのこと。まぁ、せいぜい失敗して泣きつけ。老骨の出番はそれからだ」
「ちょっと、いいの?」
「仕方あるまい。止めようとしても無駄だ」
鹿山の言葉に、伊舞は渋面になって愛用の長煙管を取り出し、火を付ける。限界まで煙を吸い込み、蒸気機関のように吐き出し、しばし思案に耽る。
「いいわ、行ってきなさい」
「えっ!? 伊舞さんが折れた!」
隣の裂海が飛び跳ね、飛びつく。
伊舞はしかめっ面のまま、孫にも等しい裂海に揺さぶられながらも頷いた。
「ヘイゾーが行ってもいいんですか? もっとなにかないんですか?」
「これは霧姫にも見せるのでしょう? だったら、あの子が言うわよ」
「よろしいのですか?」
「勘違いしないの。文句なら山ほどあるわ。でも、それを言うのは私の役目ではない。私もジジイも、そろそろ引退よ。助けがなくてもやっていかなければならないわ」
「引退?」
伊舞は煙管の吸い口を噛む。
驚いたのは裂海も同じだ。
「えー、引退しちゃうんですか?」
「鹿山翁はともかく、伊舞さんはまだお若く見えますが……」
「そうでもない。朝来は最近小皺が目立ってきたんだぞ」
「うっさいわねクソジジイ! 小皺なんてないわよ!」
伊舞が牙を剥く。
飛びかからんばかりのところを裂海が、まぁまぁ、と腕をつかむ。
なかなか面白い寸劇だ。
「私の固有は不老、でも疫病切国行は使用者の命を食う。このところ威力の低下が著しくて、今のままだとどこまで持つかわからない。ジジイだって固有の振動範囲が狭くなっている。一線では戦えないわ」
「すぐに引退するわけではない。少なくとも連城が戻り、近衛の体制が安定してからとは思う。去りゆくものが口を出してはこれからのためにならん」
鹿山は肩を竦め、伊舞は苦笑いを浮かべる。
肩に乗る重責が増えた気分だ。
「榊、お前はこれからも困難にぶつかるだろう。だが、今の心を忘れるなよ。優呼、お前も支えてあげなさい」
「ありがとうございます」
「はいっ!」
頭を下げる。
「本当は先輩の優呼がその役目を担うんだけどね。アンタはもうちょっと精進なさい。才能だけで乗り切れるほど甘くはないわ」
「あーん、折角いい雰囲気なのに! 酷いです!」
不安が笑い声にかき消される。
期待を裏切るわけにはいかなかった。
◆
友人は大切だ。
とりとめのない話が気を紛らわせ、酒でも酌み交わせば日ごろのストレスも消えるだろう。
それが直接なのか、画面越しなのかは問題ではない。
「立花、そっちはどうなんだ?」
『あ、ああ。元気でやっている……です』
「奥尻に行ってからずいぶん経つだろ? 体はなんともないのか?」
『なんともない……とも言い切れません。不自由はそこそこありまする』
「頼まれた通り、補給物資は送るよ」
『すまない……です。軍とは宿舎が別ですけれど、酒は売って……ません。飲みたいという気持ちも無きにしも非ず……です』
「とりあえず明太子と焼酎は用意した。基地の受付には話を通しておいてくれ」
『あ、ああ……』
画面の向こう、奥尻の基地にいる立花宗忠の顔色はあまりよくない。居心地悪そうに視線を泳がせている。
今は立花に頼まれた補給物資、という名の酒と肴を段ボールに詰める荷造りをしていた。
「……どうかしましたか、むねただ?」
『つ、つかぬことをお伺いますが、どうして殿下がそのようなところに……』
「……だめ、ですか?」
『い、いいえ、ダメということはないのですが、時間も時間ですし、明日の予定もあるかと……』
俺の胸元には殿下がいる。
正確には膝の上に座り、服を引っ張っているのだが立花にとっては落ち着かないのだろう。俺も抵抗はあるが、もう諦めた。
時刻は二〇時、明日の予定を考えればそろそろ入浴と就寝の時間だ。
「殿下、お茶の用意ができました。こちらへどうぞ」
「……なおとら! いまいきます」
キッチンのテーブルでお茶とお菓子を用意した直虎さんからの呼びかけに、俺の腕を伝って降り、笑顔で駆け寄る姿は元気そのものだ。
「この時間ですので牛乳寒天とハイビスカスティーにしました」
「……ぎゅうにゅうかんてん、すきです」
椅子に座った殿下は鮮やかな赤色のハイビスカスティーを一口含み、あふれる酸味に顔をしかめる。それを見ていた直虎さんは微笑みながらハイビスカスティーに蜂蜜を溶かしいれ、ティースプーンで混ぜた。再び口にすれば甘さと酸味が程よくなっていることだろう。
お手製の牛乳寒天はフルーツの缶詰が入ったクラシカルなもの、口に入れれば砂糖の甘さと牛乳のコクが加わって日桜殿下の笑顔を咲かせるには十分なはずだ。
『いい顔するな』
「ん?」
『殿下を見てる榊の顔だよ。写真撮りたかったくらいだ』
「止してくれ。どんな顔か知らないが、ロクなもんじゃない」
『そうか?』
画面越しとはいえ、互いに肩をすくめる。
自分の顔などまじまじと見たいとは思わない。
「それで、何の用事だ?」
『……ああ、そのことなんだが……』
立花は意味深な目配せをする。
カメラ越しではあるが、気にしているのは直虎さんだ。立花にとっては鬼より怖い相手だろう。先ほども殿下に気遣ったわけではなく、帯同している義姉を警戒した結果らしい。
「一つ貸しだぞ」
『こんなんで貸し借りにするのかよ』
「昼間、優呼に借りを作ったから、俺も誰かに貸しを作っておきたい」
『優呼にか? この時期に?』
「時期が関係するのか?」
『あー、まぁ、知らぬが仏だよ。そのうち嫌でも分かる』
「面倒そうなのは分かりたくもない。ただでさえ面倒が山積みで困っているんだ。俺だって奥尻に逃げたい……」
話の途中で考えが浮かぶ。
立花がいるのは北海道の奥尻、空軍基地に併設された近衛宿舎、そこには第一大隊の面々が詰めているはずだ。
『どうした?』
「なぁ、奥尻には青山さんもいるだろ?」
『あ、ああ、いるぞ。今はオホーツク海に展開する海軍とも連携しているから週の半分はでかけているが、もう半分はいる』
考えが巡り始める。
すると、ちょうどよく殿下が夜食を食べ終え、直虎さんの手を引かれてこちらにやってくるところだった。こちらも一度立ち上がってから膝をつける。
「……さかき、そろそろもどります」
「また明日の朝、お迎えに参ります。良いですか、それまではお休みください」
「……はい」
律儀に、立花にも手を振ると我が主は行ってしまう。
『はー、心臓に悪い』
「気持ちはわかるよ」
家族というのは大変だ。
それも義理ともなれば色々と面倒な部分もあるだろう。
「話を戻そう。お前の魂胆は大体わかった。交代要員だろ?」
『うっ……どうしてそれを?』
「直虎さんがいると言いづらいってのが大きい。なにせ、お前が飛ばされたのはあの人の進言らしいしな」
『そこまで分かっているなら話は早い。数日でいい、代わってくれ、後生だ!』
「まぁ、そうなるか」
立花は神頼みの勢いだ。それだけ過酷なのだろう。
まして、義姉の進言ともなれば義弟としては断れない。
『カニ食べ放題だぞ? ウニもある。海産物はなんでも美味い! だから、頼むから来てくれ! もう何週間も奥尻に缶詰なんだ! みんなは交代で休めるのに、俺だけ、義姉上の命令で休みがないんだ!』
「ふーん」
『なぁ、榊……俺を自由にしてくれ! 酒も女もいない場所なんて俺には耐えられん!』
「交代はやぶさかじゃない。ただし、条件がある」
『じょ、条件?』
立花が怪訝そうな顔をする。
「……立花、お前は今、第一大隊長の青山さんの副官だな?」
『あ、ああ、そうだけど……』
「梅雨のころロマノフから稚内の海軍基地に亡命者が来た。青山さんは彼に立ち会っている。副長は米国からの干渉があって接見したときのことは近衛内でも共有されていない、といっていた」
『俺もそう聞いてる。かなり強烈なものだったらしい』
「俺は興味がある」
『……悪いことはいわないから止めておけよ。米国を敵に回すぞ?』
「それでも、だ」
居心地悪そうにする立花だが、こちらも譲れない。
『……俺の口からハイとは言えない。それに、青山さんだっておいそれと口は開かないぞ?』
「だから、青山さんの個人情報だけでいい。副官だ、詳しいだろ?」
『マジか?』
「俺が冗談を言うかどうか、わかるだろ」
『言ってくれた方が気は楽だ。……どうなっても知らないぞ』
「こっちにいて、胃を穴だらけにするよりはいいさ」
『…………負けたよ。じゃあ、話は通しておくから、そっちも頼む』
「分かった。助かるよ、戦友」
『荷物以上の焼酎忘れんなよ! 明太子もな!』
持つべきものは戦友だ。
状況は整いつつあった。