二〇話
穏やかな日差しの午後、主のいない榊平蔵の部屋に人影がある。
もはや入り浸られ過ぎて部屋の主の私物よりも、置いていかれたものが多い部屋で密談が交わされていた。
「……さいきん、へやにいません」
「食堂にも副長のお部屋にもいませんでした。今日は午後から非番のはずなのに……」
「二人とも、よくご存じなのですね。殿下はともかく、ノーラは知り過ぎなのではなくて?」
「あら、千景さんはヘイゾウさんと一緒にいたくないのですか?」
「私は……時間が合った時でいいわ。忙しいのは分かっているのだし、焦らなくてもいいの」
「その割に休みのたびにいますね」
「……わたしは、ちかげちゃんとあえるの、うれしいです」
「光栄に存じます、殿下」
「話をそらさないでいただけますか?」
部屋の主がいたら顔をしかめ、胃がねじ切れんばかりの痛みを覚えたことだろう。
いや、どこかで苦しんでいるのかもしれない。
「でも、指摘されると気になるわ。どこにいるのかしら」
「外出はしていないはずです。ここにいなければ、あとは副長の執務室か医務室くらいしか心当たりはないのですが……」
「……いませんでした」
三人は顔を突き合わせて悩む。
しばらく考えた後、三人の見解が出された。
「私たちがわからないのであれば、分かる人に聞けばいいのです」
「同感だわ。鷹司さんは……平蔵の方から避けそうね。直虎さんは知っていそうだけれど、教えてくれるかしら。あと、行動を知っていそうなのは……」
「……ゆうこ、です。さいきん、いっしょにいます」
「じゃあ聞いてみましょう。ついでに、いろいろ聞きだしてもらえると有難いわ」
三人の意見が合致し、顔を見合わせて頷いた。
事が決まれば行動力は折り紙付きである。
部屋の主は外堀を埋められていくことに気付かない。
◆
基本的に切った張ったは嫌いだ。
最近では言い争いも面倒に思えてくる。話し合い、というのは互いに聞く準備があり、相手の意志を受け入れる前提がある。
昨今は主張を押し付けるばかりで議論が平行線となることが多い。では、どうするのかといえば事前準備が重要になる。データを揃え、資料を用意して、相手の感情的な反論を封じる。が、正論ばかりでは納得できないのも人の常、逃げ道も必要になる。
「必要なもの……受け入れるための法案……確証……人間性…………根回しがいるか……」
資料室で考えに耽る。
外務大臣、いやもう内閣官房長にのし上がった鈴木から受け取った報告書にはたくさんの懸念事項が記してあった。
ロマノフが置かれている状況は、ノーラが追い詰められた時と似ている。思惑が絡み過ぎて容易に手出しができない。火中の栗を拾うよりも大変だ。
今のままでは事態の収拾はできない。
「……足りない」
決定打になれば、と白凱浬から受け取った雷帝の資料には生年月日や出身地、家族構成に配偶者の有無、行動記録などはあったが、肝心の個人的な趣味嗜好まではなかった。家族構成と行動記録は判断材料にはなりうるが、安易に決めつけると致命的な失態を招きかねない。やはり、一方からでは心もとなかった。
雷帝と戦った鷹司なら知っているだろうが、教えてくれるだろうか。素面では無理だ、酔わせて引き出すのもいいが一歩間違えると命に関わる。
「困ったな」
悩んでいると足音が聞こえてくる。
専用の厚底のブーツを履いてもほとんど音をさせないのは一人か二人しかいない。
「やっほー!」
「……なんの用だ?」
「ご挨拶ね。せっかく剣の師匠が心配をしてあげているのに」
足音の主は裂海優呼。
まぁ、俺が資料室にいることを知っているのは彼女か上司二人くらいなものだろう。
「なにしてんの?」
顔を覗き込まれる。
何をしているのか問うてるのに、書類には手を出さない。
俺がしていることにさして興味はないのだろう。つまり、問いかけは彼女の意志ではない。
「…………誰に頼まれた?」
「殿下」
季節外れの向日葵が咲くような、満面の笑みを浮かべる。
開けっ広げというか、隠す気がないらしい。
「ヘイゾーが最近悩んでいるみたいだから、調べてほしいって」
「そういうのは俺に隠すもんじゃないのか?」
「私、できないことはしないの!」
「……努力はしてくれ」
相変わらず分かりやすいやつだ。だからこそ気を使わなくていいのだが、間諜には向かないことを殿下にお教えせねばならないだろう。
「それで、なにしてんの?」
「ほら」
「なにこれ、大陸語?」
「白凱浬からもらった、雷帝の資料だよ」
「なんでヘイゾーが雷帝のこと調べているの?」
「興味があったから……」
「ウソね!」
したり顔で、指まで突き付けられて宣言される。
我ながらしくじったと思ったが、遅かった。
「本当だ。読めばわかる」
大陸語で書かれた資料でも漢字だけを拾えば、意味は大体理解できる。が、細かいニュアンス、文章としては成立しない。読むにはやはり手助けがいる。親切に、と辞書も一緒に差し出しても裂海はいやそうな顔をした。
「でも、いいの? 副長からはこの件に関わるなってお達しが出ているはずよ」
「関わってない。調べているだけだ」
「キベンね。ヘイゾーが調べるだけで終わるはずがないもの。どうしてそこまでするの?」
「まぁ、お前になら話してもいいか」
裂海は最も信頼する人間の一人だ。
ここで話しても問題はない。
「このままだと皇族や殿下の立場が危うい」
「……どういうこと?」
「共和国は半世紀以上前に皇帝を廃した。俺の読みが当たっていれば、今回のクーデターはロマノフ皇帝を廃するためのものだ。そうした考えが日本にも持ち込まれる危険がある」
俺の言葉に、裂海は眉根を寄せる。
口をへの字に曲げ、虚空を見上げること数秒、
「日本に持ち込まれても、あまり影響はないと思うんだけど。国の成り立ちも、皇族のあり方も他国と違うんだもの。そこまで重大な影響はないと思うわ」
「今なら、な。でも一〇〇年後は分からない。前例を作ると後追いする奴が必ず出る」
「ふーん、それだけ?」
「ほかにもある。今回の背後にはいくつかの思惑があると思うんだ。ロマノフが割れて、一番得をするのはどこだ?」
「……日本?」
「否定はしない。だが、最も利を得るのは米国だろう」
「証拠は?」
「状況証拠だけだ。亡命したロマノフ兵に関するものに箝口令が敷かれていることが引っかかる。今回の事件が、皇帝という強固なシステムがある国を切り崩すには効果的だと証明されたら、矛先が向く可能性は否めない」
「同盟国も疑うのね」
言葉が鋭い。
しかし、否定しても始まらないのも事実だ。
「軍事的な同盟と、国同士の関係はイコールにならない。向こうもこちらを利用し、それはこっちだって同じだ。利害が一致しているだけにすぎない」
「……う~ん、なくはないわ」
「なんだ、妙に呑み込みがいいな」
「私だって考えてるもん!」
裂海が後ろまでくると俺の肩に手を置き、一緒になって資料を覗き込んでくる。
どうでもいいが、この体勢はどうにかならないんのか。
「それで、殿下が危ないなら、ヘイゾーはどうするの?」
「このままクーデターを成功させてはダメだ。標的が皇帝一族だというのなら保護したい」
「保護? どうやって?」
「その方法を探してる。そのためには雷帝がどんな考えでいるのかを知りたい」
「雷帝を知ることが解決になるの?」
「誰かを護るには理由と、そいつの根底にある思想が重要だ。護る人間の意志の強さは……語る必要もないか」
それこそ鏡を見ているようなものだ。
近衛と雷帝は生まれた国が違うだけに過ぎない。
「一切報道も情報もないのに。ヘイゾーは雷帝が皇帝に付き従ってるってわかるの?」
「仮に、雷帝が反皇帝派だった場合はどうなる。軍と雷帝を敵に回して、皇帝一族が生き残れる確証はない」
「反皇帝だった雷帝と、親皇帝の軍部との争いだった場合は?」
「雷帝はその気になれば軍とだって戦える。なのに、それをしない。力を振るえないのには理由があるからだ。誰かを守りながらだと、十分な能力が発揮できない」
「まぁ、一時的な反撃はできると思うけれど、全軍を相手にはできないわね」
「となると、離反したのは軍部。雷帝を含めた親衛隊は皇帝一族を守りながら逃亡している可能性が高い」
「皇帝にとっては軍人も国民だものね。真っ当なら安易に、今すぐ殺せ、なんて言えないわ」
「そういうことだ」
視線と思考を中空に漂わせながら裂海が頷く。
半分飲み込んだというところだろ。
「ヘイゾーの考えは分かったわ。話を戻すけれど、なにを悩んでいたの?」
「雷帝の資料が不足している。共和国にあったのは記録の羅列、人間性や考えに言及するものはない。どんな考えで、どんな理由で守っているのか知らなければこれから先を読み解くことなんてできないからな」
「膠着や均衡も長引くと士気も極端に落ちるわね。北はもう冬だもの、いくら能力者でも春まで持たないか」
兵法家でもあり、軍人でもある彼女らしい言葉だ。
春まで持たないのならば早々に幕引きを図らねばならない。
どうしようか、と考えあぐねていると裂海が頬を引っ張る。
「ねぇ、欧州ならあるんじゃない? 対ロマノフの最前線でしょう?」
「あるかもしれないが、機密だろうな。それに……騎士王には借りを作りすぎていて、これ以上は返す当てがない」
「そんなこと」
裂海がため息をつく。
横を向けば実につまらなそうに笑っていた。
「貸しだろうが借りだろうが、気にせず、いつもみたいにずーずーしく聞けばいいのに」
「向こうも遊びじゃない。特に騎士王は欧州という共同体の益を優先してくる。お願いばかりだと不利な案件を引き受けかねないだろう」
「ふーん、ヘイゾーは困っているんだ」
「そうだよ」
いつになく思わせぶりだ。
顔まで作って大根役者この上ない。
「じゃあ、それを私が解決したらヘイゾーが私に借りを作ることになるわよね?」
「お前が? でも、どうして?」
「私だって近衛だし、裂海家の当主よ。国を憂う気持ちもあるし、殿下への忠誠だってあるわ。なによりも、出来の悪い弟子を思う気持ちもあるの」
「……さようですか」
「ヘイゾー、私にお願いしてよ」
覗き込まれる眼差しに吸い込まれる。懐柔か、取引か、口からの出まかせか、いくつか考えが浮かんだが止めた。
まるで、俺の真意を問うような瞳にもろ手を挙げる。
「当分返す当てがない。それでもいいのか?」
「気長に待つわ」
「頼む」
頭を下げれば年下の師匠は薄い胸を叩き、スマートフォンを取りだす。
わずかな操作の後、耳に当てた。
「……優呼です。先日はどうもありがとうございました。……はい、祖父も父も喜んでおりました。……はい……はい。ええ、それはもちろんです」
日本人らしく、しかして裂海優呼らしからぬ時世の挨拶をしばらく続け、
「実は折り入ってご相談があります。騎士王殿のお力がなければ難しいものと思いましたので、こうしてお願いをする次第です。本来であれば直接お伺いするところですが、急を要することゆえ……不躾をお許しください」
今時、老舗料亭の女将もかくや、という言葉遣いをする。
普段の、さきほども見せた屈託のない笑顔とは対照的で、驚いてしまった。
「はい、いいわよ」
「普段からその喋り方をすれば信用の度合いも違うだろうに……」
「疲れるから嫌」
スマートフォンを渡される。
保留を解除し、耳を当てればため息が聞こえた。
「お久しぶりです……というほど時間は経っておりませんね」
『君か……。まったく、責任をとる覚悟はあるのか?』
「はい? 責任?」
『裂海の当主に、こんなお願いをされては私も断れない。君に資産や家柄がないことは知っている。どんな約束をしたのかね? 婿に入るというのなら善意から言おう。止めておけ』
騎士王の言葉に裂海を見れば、いいのいいの、と言わんばかりに手をパタパタする。
なぜか胃が締め付けられるような痛みを発したが、諦めることにした。
「気にしないでください。それよりも、雷帝の資料がほしいです。白凱浬から個人年表やら家族関係は受け取りましたが、パーソナルな部分が見えてきません」
『……欧州における重要機密だぞ? 私にそれを話せというのか?』
「上手くいけば事態を収拾できます」
『このクーデターをか? 君が?』
「私が直接的に手を出せるかまでは不明です。最終的には政治的な判断と手段が必要でしょう。しかし、勝算は高いと踏んでいます」
『……』
騎士王が黙る。
こちらの真意を図りかねているのだろう。
『一つ聞きたい』
「なんなりと」
『君は、いや日本は欧州と相対するのか?』
「欧州と日本は大陸と海に阻まれています。手を伸ばして探りあうよりも、手を結んだ方がはるかに有益であると私は考えます」
『君個人かの言葉か? それとも日桜殿下の側役としての言葉なのか?』
「後者です」
『……一度、日桜殿下ともお話してみたいものだな』
「歓迎します」
何度目かのため息が聞こえ、
『分かった。私の権限で及ぶ範囲に限るが、用意しよう』
「ありがとうございます。ついでに、騎士王から見た雷帝の人物評もあると嬉しいです」
『刀だけでは足りんな。我が主にも差し出す、富岡鉄斎と横山大観の掛け軸を用意してくれ』
「億単位じゃないですか……」
『金で解決するのなら安いものだろう』
最後は軽口を叩きあってから通話を切る。
これで目途が立った。
「ありがとう、助かったよ」
「ふふーん、これで貸し一つだからね!」
「好きにしてくれ」
抱き着かれ、髪の毛をぐしゃぐしゃにされる。
この貸しが後で災厄を招くことをこの時は知らなかった。




