一九話
雪が降る。
日本では秋が深まるころでも、はるか北の大地では風が身を切るほどに冷たくなり、辺り一面を白が覆ってしまう。深々と降りる雪は向こう四か月間溶けることはない。ただ積り、凍てつき、命の息吹を封じ込める蓋になる。
ロマノフ国内には冬になると閉ざされる村々がいつくもある。春から秋まで農業や漁業のために人がいるものの、寒さが厳しい季節になると大きな町に行ってしまう。外界から隔絶された環境だ。
人気がなくなったはずの村、何軒かの煙突からは白い煙が上がる。村の中央、一際大きな、レンガ造りの家に大小二つの人影あった。
「陛下、食事ができました。ありあわせの材料ですので味はご容赦ください」
「サーシャ、この雪はいつまで続きますか?」
「二~三日で収まるでしょう。そうしたらまた、次の村に移ります」
「また……ですか……」
大きな方はがっしりと大きな体躯を折り曲げ、小さな方に寄り添う。
揃いの白と灰色の迷彩柄に身を包み、二人の顔には疲れが浮いていた。
「ここはイーゴリの故郷です。軍の連中も我ら親衛隊の出身地を調べることができます。長居はできません」
「どこまでいくのですか?」
「……今は東へ、としか申せません。マガダンへ向かい、そこから船でペトロパブロフスク・カムチャッキーを目指します。辺境では貴族たちの影響力も薄いでしょう、しばらくは身を伏せ、暖かくなるのを待って賛同者を募ることになります」
言葉が重い。
一度追われる身となれば心はすり減って体まで蝕む。
幼い体には過酷な旅だ。
両ひざには補助する歩行器がつけられ、杖まで持って一人では容易に歩けないことが分かる。
「私が……こんな体に生まれたばかりに……皆にめいわくばかりかけて」
「陛下、人の体はどこかに欠陥を抱えております。誰もが万全の健康体などではないのです。卑下になさっては……」
「でもね、みんなが言うこともわかるんだ。こんな体で、皇帝が務まるのか不安に思う。だから……」
小さい方が顔を伏せる。
肩を震わせ、小さな手が真っ白になるまで握りしめ、爪が皮膚に食い込んでいた。
「大丈夫です、私がなんとかして見せます」
「サーシャ……」
床に落ちた水滴はどちらが落としたものだろうか。
「陛下、希望を捨ててはなりません。お父上亡き今、偉大なる祖国を治められるのはあなた様を置いていない。私利私欲に駆られた貴族や軍部の台頭を許してはならないのです」
「そのためにサーシャやミハイル、ヴァシリーが傷ついてしまう。この前だってユーリーが……」
「お心を強くお持ちください。親衛隊は陛下のためにあるのです。陛下が導かれる、栄えあるロマノフの先駆けとなるなら本望でありましょう」
「でも、皆は、我の兄や姉と同じ故……我は……悲しい……」
「陛下……」
二人は立ち尽くす。
窓の外から見える雪は、まだ降り止みそうになかった。
◆
季節は過ぎて、今はもう晩秋の風が身に染みる。北海道からは雪の便りが届き、もっと北の大地は冬が訪れていることだろう。
未だ終息の兆しが見えないロマノフのクーデターに各国は対応に苦慮しているように見えた。
行き交う船のエンジン音だけが低く響く中で白凱浬が立っている。相変わらず真っ黒なコートに枯れ葉色のスーツが似合っていない。
「先日あったばかりだというのに、ずいぶん急な呼び出しだな」
「ご容赦ください。少々気になることがありましたので」
「お前の呼び出しにはできる限り応じる。それが私なりの誠意だ」
白凱浬は懐から煙草を取り出し、口にくわえると火をつける。吐き出された紫煙は夜風に乗ってすぐに消えた。
「ずっと今回のクーデターのことを考えていました。どうして起こるのか、あの国で何が行われているのか、分からないことだらけです」
「国にはそれぞれの歴史がある。成り立ちも違えばたどってきた道筋も違う。人の思惑と物事が複雑に絡み合い、一概にどうとは言えない。ゆえに、それは史学者の仕事だ、今からどうにかなどできないものだ」
「その通りです。私にはそんな知識も教養もない」
「身の程を知っているらしいな」
夜の中で白凱浬が笑った気がした。
事実は否定しない。
俺自身に史学者の真似事はできないし、よしんばやったとして真実にたどり着けはしないだろう。歴史というのはそれだけ膨大で、たくさんの側面を持っている。部分部分を切り取っても正解は見つけられない。
「ですからロマノフという国の歴史には立ち入りません。私がほしいのは雷帝、アレクサンドル・メドベージェフ個人の情報です」
「……ほう」
「貴方も会ったことがあるでしょう。背格好、顔だち、あとは家族構成や配偶者、子供の有無などご存知ではありませんか?」
「なるほど、貴様らしい手段だ」
実例に褒められても嬉しくない。なにせ、手の内を知られているのだから行動も読まれていると思ったほうがいいだろう。
どう反応するのか様子を伺っていると、白凱浬は一本目の煙草を足元に落として踏み消すと、すかさずもう一本に火をつけた。
「昨日、鷹司と会った」
「副長と?」
「ああ、協力を申し出てきた。情報共有がしたいとな」
初耳だ。
驚きを隠せずにいると煙草の先端、赤く燃える火が揺れる。きっと笑っているのだろう。
「鷹司、いや近衛はその特性上、一つのことに深入りはできない。連中の仕事は皇族の守護であって、外部勢力との争いではない。国内問題にも基本的には不介入、独立独歩を貫いている」
「それゆえに目無し耳無しと揶揄されることを気にしています」
「憂慮はしているだろうが、それまでだ。本音はお前を介入させたくないらしい。事が大きくなるから、とな」
「……あの人は……」
「騎士王の件は聞いた。ずいぶんと大立ち回りを演じたらしいな。気取った、今時騎士道を掲げる、あのいけ好かない男の顎を割ったのは褒めてやる」
「お褒めいただき恐縮です。お二人は縁があるようですね」
どうだ、と差し出された煙草を受け取り、火までつけてもらう。
煙が肺を焼いて、ニコチンが脳を揺さぶる。騎士王もそうだが、これが美味いとは到底思えない。
「ヤツと最初に会ったのは一〇年以上前のカシミール、その後もシンガポール、フィリピンで戦った。協力関係にある今の方が不思議なくらいだ」
「因縁や遺恨というわけではないようですね。てっきり恨みつらみの積る話だと思いましたが……」
「互いに自分のためであったなら遺恨も残るだろうが、そうではない。立場が違うだけでやっていることは同じだ。貴様もそうではないのか?」
「……ご尤もです」
確かに、これまでを振り返っても俺自身、心に恨みが積み重なるわけではない。虎や白凱浬は国家のために戦っている。騎士王は欧州全体を背負い、極東まで来た。例外は京都での一件くらいだ。
「話が逸れたな。雷帝のことなら本国にいるとき少し調べた。資料が残っているだろうから手配しておこう」
「ありがとうございます。助かります」
「しかし、貴様が雷帝の資料を揃え、真実に迫ったとしてどうする。近衛や鷹司は不干渉を貫くことは明白、何もできないぞ」
「保険です。何かがあった時にだけ動くのでは後手後手に回る。あらゆる、というわけにはいきませんがある程度を予想して対処法を考えておきたい」
「それは……政府や役人が考えることではないのか?」
「私もそうだと思います。ですが、なにか引っかかる。クーデターが雷帝主導や民間の武装蜂起で起こったものならば想定も杞憂に終わるでしょう。しかし、逆であった場合は……」
武官の顔に不安の色が見えた。
密接になれば互いに影響を及ぼす。
「雷帝が討たれるというのであれば歓迎する」
「もう一つ引っかかるのが出所不明の写真です。あのぼやけた何枚か、見かたによっては誰かが、子供の手を引いているようにも思える。誰が手を引いているのか、引かれているのは誰かが気になるのです」
「出所を踏まえると皇帝一族か、それに連なる公爵、伯爵家……あれが何を指示しているのかは誰も知らない」
「私は写真の主がロマノフ皇帝なのではないかと考えています。小さい人影はその子供ではないかと……」
「まさか……ロマノフ皇帝に子供はいないはずだ。公式にも発表されていない」
「表に出せない子供だとしたら、いかがでしょう。先天的な障害、あるいは病気によって表に出られないとしたら隠匿していてもおかしくありません」
「想像というよりは思考の飛躍だな」
「誰も予見していないものですから、せめて私が……と」
「邪推にも等しい思考飛躍が現実になったとして貴様に何ができる?」
スーツの懐から封筒を出して渡す。
訝しみつつも白凱浬は中身を読み、首を傾げる。
「そうですね、万が一に備えて貴国で産出されるコバルトを少々頂きたいのです」
白凱浬が眉を顰める。
「雷帝への切り札です。できるだけ高純度、それでいて大きな結晶体が必要です」
「切り札?」
驚愕を浮かべる白凱浬に胸の内を晒す。
計画の一端を話せば共和国筆頭武官は呆れ顔だ。
「如何でしょう」
「私では思いつかないものだ。無論、褒めているわけではないがな」
「騎士王殿には協力を要請してあります。貴方にもぜひ加わっていただきたいのです」
「……貴様には借りがある。それに、突拍子もない考えが正しければ我が主の未来にも関わるだろう。資料とコバルト、どちらも引き受ける」
「ありがとうございます」
頭を下げれば肩を叩かれた。
激励か叱咤か、どちらにせよみっともない姿は見せられない。
「この国はまだ大丈夫だ。だが、いつまでもこのままというわけにはいない」
「分かっています」
静かな夜が続くことを願うのは誰しも同じだった。




