一八話
自分と他人とは違う。
考え方も、感じ方も、物事のとらえ方も、価値観さえ違い、同じ生物、同じ人間なのに生きる目的すら違う。それでいて、他人には共感を求める。自分が辛い時に分かってほしくて、求め、求められることを切望する。
なんと愚かしく、不器用で、人間らしいのだろうか。
ロマノフで起こったクーデターは二週間が経過しても進展を見せていない。
通常、クーデターが起こると早ければ数時間、遅くとも数日中にはどちらかから声明が出される。反体制側が主要なメディアや拠点を占領して宣言を出すか、逆に体制側が鎮圧して終息宣言をするのだが、これがない。
国境は軍が固めているため、容易に入り込むことはできず、内部の情報が表に出てこないからだ。ロマノフ内部からの情報は封鎖され、辛うじて偵察衛星から送られてくる画像を解析すると散発的な戦闘が起こっているとの見方が強い。
誰が、誰と争っているのか。各地に展開する方面軍同士の争いとも考えられたが、どうにもキナ臭い。調べるほどに事実が遠ざかるような気がした。
「ふぅん」
広げていた資料をテーブルの上に置き、天井を睨む。
個人的に気になるのは表に出ない雷帝の動向、騎士王ジョルジオ・エミリウス・ニールセンよりもたらされた、あの不鮮明な写真についてもその後が分からない。
「何を考えているの?」
「千景様」
体ごとかぶせるように覗き込んできたのは、元ご主人様にして今は後見人を引き受ける朱膳寺千景殿下。
季節はそろそろ晩秋へとさしかかり、肌寒くなってきている。元ご主人様は薄いニットワンピースの袖を顔に押し付けて視界を塞ごうとする。
「仕事中です。お戯れはよしてください」
「私は休みよ。文化の日だから、国民の祝日ね」
顔を起こしても顔や首に袖が巻き付いたまま、呼吸をすると甘い香りが鼻腔をくすぐる。香水はいささか早いと思ったのだが、匂いには覚えがあった。
「お土産、気に入っていただけたようですね」
「気遣い以外は朴念仁の平蔵が初めて買ってきてくれたものよ。付けるのが主人の務めでしょう?」
「恐縮です。元ご主人……っ!?」
わざと言葉を強調すると、今度は細い腕が首に巻きつき、耳たぶを噛まれる。
「噛み千切ってほしいの?」
「め、滅相もありません。ご無礼をお詫びします。平にご容赦を……」
「……冗談よ」
耳元で囁かれる。
数瞬の間の後、千景は俺の顔を触る。
「ハンドクリームの匂い、よく気付いたわね」
「このところ、毎日のように日桜殿下とノーラが付けていますから、どうしても気付きます」
「日桜殿下もノーラも大変だわ。鈍感なうえに甲斐性なしなんだもの。平蔵って釣った魚に餌を上げないタイプよね」
「相互認識に誤解があると思うのですが、いかがでしょう」
「自覚がないから厄介なの。恐竜並みの鈍さだわ」
「僭越ながら、現代に恐竜はいません。確かめようがないと思いますが」
「想像を絶するってことよ」
座っているソファーの背もたれを跨ぎ、俺の膝の上に乗る。ちょうど、先日のチャイルドシートのような状態だ。
しかし、どうしてだろうか、心臓が痛い。
「いいの、気にしないで仕事を続けて。私は平蔵と一緒にいたいだけだから」
「この状況で気にするなと申されましても……」
「続けて」
強めに言われる。
こうなったら千景は動かない。
諦めて、千景を膝の上に乗せたまま仕事を再開した。
「ねぇ、平蔵」
「なんでしょうか?」
「平蔵はいつも悩んでばかりね。息抜きはしないの?」
「していますよ。こうして自室にいると落ち着きます。資料室や副長の執務室は肩が凝りますから」
「部屋にいても仕事はしているじゃない」
「ただ読んで、考えるだけです。これを書類に残すと仕事といってもよいのですが……」
「好きなのね、仕事」
「嫌いではありません。貴女や、日桜殿下、ノーラのためでもあるわけですから」
「好意的に受けれとればいいのかしら?」
「ご随意にどうぞ」
口が達者になって困る。
広重さんに謝ることが増えてしまった。
朱膳寺家の墓にも謝りに行こうかと考えていると、千景は持ってきた紙袋から毛糸玉と編み棒を取り出し、何かを作り始めた。
そのまま数十分、無言のまま時が流れる。最初は気になったが、次第に慣れて仕事を進めていた。
そうこうしていると耳なじみのある足音が二つ聞こえてくる。
「そろそろね」
千景は毛糸玉と編み棒を袋に戻して立ち上がり、服装を整える。
小さなノックの音に応じるようにドアの前に立った。
「……あっ」
「日桜殿下、お待ちしておりました」
「……ちかげちゃん!」
出迎えた千景にちび殿下の顔が輝く。
そのまま千景に抱き着き、胸元に顔を埋める。
「あら、千景さん。早かったのですね」
「ええ、予定が早く終わったから。ノーラもお疲れさま」
「私は殿下のお付きですから、大変ということはありません。千景さんこそ学校も部活動もあって忙しそうですね」
「慣れたらどうということはないわ」
殿下を除いて千景とノーラの会話は大人の社交辞令のようだ。
目が笑ってないあたりに緊張感が伺える。
「……ちかげちゃん」
「殿下、どうかなさいましたか?」
「……さかきの、においがします」
「!」
ちび殿下の言葉にノーラの背筋が伸びる。目つきが一層鋭くなったような気もしたが、当の千景は動じない。慈母のような顔で頷き、殿下の手を取る。
「挨拶の時に抱き着いてしまいました。ご容赦ください」
「……それなら、しかたありません」
納得してしまう殿下の将来に一抹の不安が過る。
「千景さん、抱き着いただけですか?」
「ええ、そうよ」
「抱き着いただけで匂いが移るものでしょうか……」
「さぁ……それは私にもわかりません」
「分かりました。殿下、私の代わりに確かめていただけませんか?」
「……のーらちゃん?」
「お願いします」
ノーラの要請に殿下は首を傾げるが、千景がどうぞと頷いたのもあってこちらに駆け寄ってくる。
どうしてだろうか、俺の胃が痛くなってくる。胃薬を探したいところだが、逃げてはあとがややこしくなるだけだろう、抱き着いてシャツに顔を埋めてくる殿下のなすがまま、だ。
「…………」
「で、殿下?」
「……におい、しません」
ここで千景の周到な作戦に気付く。
殿下は今日もハンドクリームを付けているだろう。その匂いに鼻が慣れてしまっている。千景も同じクリームを付けているのだから匂いに慣れ、感じにくくなっているはずだ。
「……のーらちゃん、におい、しないです」
「そうですか。千景さん、不躾を許してください」
「気にしてないわ」
目を細めるノーラに微笑む千景。
竜虎が相まみえたらこんな状態になるのだろう。
「……さかき、おちゃにしませんか?」
「え、ええ、喜んで」
有り難い申し出に頷く。
喉が、いや口の中が渇いて仕方ない。
「直虎さんから良い茶葉をいただきました。ヘイゾウさんにも飲んでいただきたくて」
「あら、それなら甘いものを用意するわ」
茶器とお湯の準備を始めるノーラに、冷蔵庫を開けて何かを作り始める千景。
ここが誰の部屋なのか分からなくなる。
「……たのしみ、です」
「左様ですか」
お花畑な殿下がうらやましい。
胃痛はしばらく収まりそうもなかった。
◆
近衛副長の仕事は多岐にわたる。
人と会うこと、物事の成否や判断、事務処理、時には雑事までもこなす。仕事であればかつては殺しあった間柄でも握手をして見せることもあった。
「鷹司霧姫です」
「白凱浬だ」
六本木の大きな商業ビルに居を構えた白凱浬の元へ、鷹司と立花直虎が挨拶に訪れていた。そんな三人を心配そうに見つめるのは城山英雄の尽力で工作員ではなく、社員となった共和国の人間たち。異様な緊張感の中で話し合いは始まろうとしていた。
「座ってくれ」
白凱浬の言葉に鷹司は椅子に腰を下ろし、立花直虎は微動だにしない。麒麟児とまで呼ばれた女剣士の指は適度に開き、即応の体制が整えられている。
「相変わらずだな、猪武者。今は敵対していないぞ」
「用心のためです。私に流れる血は貴殿らを切りたくて疼いておりますが……」
「我が主の安全が保障される限り、主と日桜殿下に誓って敵対行動は起こさない」
「その言葉が聞けただけでも十分です。直虎、構わん」
「ははっ」
鷹司の言葉に立花直虎は一歩下がる。
依然として指が蠢いているが、殺気を放たなくなっただけマシなのかもしれない。
「それで、近衛副長殿がどのようなご用件でお越しになられたのかな?」
「貴殿とは情報共有ができる間柄になっておきたいと思っております。窓口が榊ではいささか不足がありましょう」
「……どういうことだ?」
「貴殿があのバカと会っていたことは承知しています。色々な話をされたであろうことは想像に難くない、そこについては約束もあるでしょうから触れません。しかし、ヤツに動かれては困るのです」
「ほう、困る、とは?」
「ヤツが動けば台風の目となる。これまでの行動を踏まえると、周囲を巻き込み強大な嵐となって吹き荒れるでしょう。それは避けたい」
鷹司は手のかかる部下のこれまでをかいつまんで説明する。
最初こそ身構えていた白凱浬も最後は苦笑いを浮かべていた。
「あの騎士王と真っ向勝負を……怖いもの知らずだな」
「今生きているのが不思議なくらいです。しかも、先の貴殿との件をみれば反省などしていないことは明白」
「……少々向こう見ずだとは思ったが、そういうことか」
「私たちの懸念をご承知いただけるかと思います。その上で情報共有がしたいのです」
「こちらも鷹司財閥とやりとりができるのは願ってもないことだ。息女ともなれば様々に権限があるだろう」
「ご想像にお任せします。その代わり……」
「分かっている。榊へ提供する情報と同じものを渡すことを約束する」
白凱浬は言葉をいったん切り、部下が運んできた茶を啜る。
「渡さない、とは言っていただけないのですね」
「信用信頼の問題だ。榊は唯一、私の思考を読み切り、交渉材料を用意して行動に移した。自分と同じ考えに至れる人間というのは少ない。騎士王との一件もトランシルヴァニアの姫君と欧州の思惑の極致に至ったからこその発想だろう」
「……」
「互いが立場を慮ることは難しい。口にはできても、実際の行動に移すことができるのは稀だ。榊はそれができる。そういう意味では最も信頼ができる相手といえる」
「我らでは信用に足りぬと?」
「騒ぐな麒麟児。信用信頼は時間が必要だ。榊のように特別なものがなければ仕方ない」
火花を散らす立花直虎と白凱浬に鷹司はため息をついた。
敵か味方かではなく、榊平蔵が白凱浬という一個人に迫ることができた結果だろう。こればかりは真似をすることができない。
「承知しました。先ずは信用を重ね、信頼を得られるよう努力しましょう」
「……なるほど、鷹司霧姫とは噂通りの人間のようだな」
「噂?」
「榊がいつも零していた。融通が利かず、不器用で真っ直ぐで扱いやすい、と」
「良いことを聞きました。戻って灸を据えましょう」
「榊は不死身と聞く、楽しみにさせてもらおう」
鷹司霧姫、白凱浬という両巨頭の言葉に立花は件の後輩に黙祷を捧げる。
この後、近衛寮に戻った榊平蔵が地獄を見るのだが、それは別の話だ。