一六話
世界は時として思いもよらぬ方向へと舵を切る。
渦中にあっては全貌をとらえることもできず、大概の人間は良し悪しは後になってみないと分からない。
順調ではなく混迷となった時代では、その流れを読んだ人間が先導し、新たな時代を作ってきた。今の世も例外ではない。
ロマノフ連邦で起こったクーデターの知らせは世界に衝撃を与えた。
長年対立してきた欧州連合は国境へ派兵、米国も海軍と海兵隊をハワイと沖縄に派遣して万が一の事態に備えている。日本国も本州で展開する軍の一部を北海道へと送り、進展を見定めていた。
しかし、
「日桜殿下、お時間です。参りましょう」
「……はい」
「本日は横浜で新設された博物館を視察、続いて芦ノ湖にてジオパークの見学と外来生物の現状についてのシンポジウムとなります」
「……しょうちしています」
俺は日桜殿下と公務をこなす毎日を送っている。
混迷の時代であっても日常は続き、止まることはない。日本政府や内閣は対応に追われているものの皇族を取り巻く状態には変化はない。いや、無理にでも日常を続けさせ、不安から目を逸らさせているようでもあった。
「今回新設された博物館は開港地横浜をアピールするため計画、新設されたものです。これまでの歴史、開港前から後の移り変わりを展示してあります。両国にある江戸東京美術館に近いものとなっています」
「……しりょうは、さくばんのーらちゃんといっしょに、よみました」
「結構です。博物館を視察した後に昼食となります。ジオパーク到着後は……」
横浜に着くまでの間に、一日の予定とそれぞれの施設での段取りを確認していくが、説明だけならばものの数分で終わってしまう。
問題はここからだ。
「……さかき」
「なんですか?」
「……こっちに、きてください」
「遠慮申し上げます」
「……どうして、ですか?」
「聡明な殿下ならばご推察いただけると思いますが……」
「……わかっています。でも……」
目線を落とし、御子服に人差し指でのの字を書き始める。
ノーラや千景の話では無意識にやっているようだ。伊舞からは潜在的な不安の表れではないかという指摘があった。
「……だいじょうぶ、なのでしょうか……」
「なにがでしょう」
「……みんな、どこかはりつめています。ふあんを、おしころしているように、おもうのです」
「そのようにお思いになられますか?」
「……はい」
瞳には不安が映り込んでいる。色々と敏感な年頃、世情も時世も感じ取っているのかもしれない。
こんな時、どうすればよいのか判断に迷う。
聡明な殿下ならば事情を呑み込み、最大限の配慮を、と命じるだろう。そして、自らも一層気を使うに違いない。それが間違った対応ではないとは思いつつも、まだ早いような気がしてならなかった。
「殿下はどこまでご存知でしょうか?」
「……しんぶんにかいてあることならば、おおよそ。くわしいことは、きりひめも、なおとらも、はなしてくれません」
「お二人はまだ知らずとも良いという判断なのでしょう。私も賛成です」
「……わたしが、しったところで、なにかできるわけではありません」
「それも重々承知しております。知ったからとて解決しないからお教えしないわけではありません。殿下の御身を思ってのことです」
「……どうして、そうなりますか?」
頬を膨らませ、足をバタバタさせる。
行儀が悪いのでやめてほしい。
「殿下は頭でっかちでいらっしゃいます。知識偏重といえます」
「……さかきにいわれたく、ありません」
「そこは否定しませんが殿下の場合は私の比ではない。皇族として当然と詰め込まれたものは一般人のそれをはるかに凌駕するでしょう。しかし、そこに落とし穴があるのです」
「……おとしあな、ですか?」
小さな首を傾げる。
それもまた可愛らしい。
「今は情報があふれ、誰でも触れる機会を持つ時代です。それが悪いわけではない。しかし、知ってしまったら考えざるを得ないのです。一晩寝れば忘れてしまうような能天気さがなく、いつまでも頭の片隅に置こうものならお優しい殿下なら倒れてしまうでしょう」
「……そんなことは、ありません」
「それでは殿下、私が女だとしたらどうしますか?」
「……!」
突飛な発言にちび殿下の背筋が伸びる。
まじまじと俺の顔を見てから胸元、腰へと視線が下りるのが分かった。
「嘘です」
「……! ……わるいこ」
「ですが、否定しなければずっとお考えになったことでしょう」
「……ちがいます」
車が動いているにも関わらず、殿下がシートベルトを外し、俺の横までやってくる。最近は実力行使に出ることが多くなった。
仕方ないので膝の上に乗せ、抱きかかえて動きを封じる。
「……さかきのそういうところ、いけません」
「殿下の驚く顔が面白かったので時々試したいくらいです。そうすれば少しは意地の悪い方になっていただけるでしょう」
「……うそは、いけません」
「世の中に私以上のうそつきはたくさんいます。笑顔で人を騙す輩もいるでしょう。素直なだけでは渡っていけません」
「……でも」
殿下がそうはならないこと知っているからこその言葉だ。
我ながら底意地が悪い。
「クーデターの知らせから一週間、続報はありません。情勢が分かれば随時報告も致しますが、現状では考えても何もできません」
「……それでも、しんぱい、です」
「お優しいのは美点ですが、世界中を心配されては苦労が絶えないことになります。ほどほどになさるのがよろしいかと」
「……くにはちがえど、おなじひとです。ぎせいになるのは、よわいひとなのですから」
「承知しております。調べは進めますので、進展があればご報告いたします」
「……はい」
殿下だけではなく何もできないのは俺も同じだ。
情報が錯綜しすぎて、真実がどこにあるのか、事実はどこに向かおうとしているのかがわからない。知って何かできるとは思えないのに求めてしまうのは人の性なのかもしれない。
世界中が注視をしているにも関わらず、クーデターの詳細は分からない。首謀者も、誰が追われ、誰が追っているのかすら曖昧だ。ロマノフ各地では散発的な戦闘が繰り返されているという報道もあるが、信ぴょう性が薄い。ロマノフで集めた情報の精査もまだだというのに、これではラチが明かない。
頼りにしていた城山英雄を筆頭に政治家連中は対応に大慌て、軍部は上へ下への大騒ぎであてにならない。
「……き……さかき」
「はい?」
「……わたしのはなし、きいていましたか?」
「いいえ。考え事をしておりました」
「……さかきのほうが、しんぱいです」
「子供に心配されることではありません」
「……」
しまった、と思った時にはもう遅い。
ちび殿下が膝をぺしぺしし始めていた。
「……こっち、です」
「お断りします」
「……だめ、です」
「今は移動中ですので大人しくなさってください」
「……あっ」
殿下の手を取り、抱きかかえる力を強くする。
すると、ちび殿下は思いのほか大人しくなった。
ちょうどいいのでしばらくこの体勢を維持することにする。
「……これも、わるくありません」
「左様ですか」
なぜか嬉しそうな殿下に嘆息しながらも思考は加速していく。
時代の出口はまだ見えない。
◆
殿下の付き添いで横浜、箱根芦ノ湖と公務をこなし、帝都に戻ったのは二〇時に近かった。そこから殿下が寝るまでの相手をし、自分の仕事を片付け、夜の港へ向かったのは日付が変わってから。江東区新木場、埋め立て地にある公園には人影があった。
車を止め、波の音が聞こえる海岸沿いのベンチに座る。
「ずいぶんと用心深いんですね」
「お前は身軽だな」
宵闇の中から現れたのは白凱浬。浅黒い肌に引き締まった体にスーツが驚くほど似合っていない。
周りの気配は彼の部下だろう。用心のために連れてきたらしい。
「少し前から本国から指令が届かなくなり、ほぼ同時期に電話に雑音が入るようになった」
「盗聴ですか?」
「可能性は高いだろう」
白凱浬は隣に座り、煙草に火をつける。
紫煙を吐き出しながら封筒を渡してきた。
「拝見してもよろしいですか?」
「同じものを城山英雄にも渡してある。それは近衛の分だ」
封筒の中身は大陸語で書かれている。
「向こうにいる部下からの報告書だ。今朝がた届いた」
「何と書いてあるんですか?」
「党の上層部が揉めているらしい。上の部分はこれまでの経緯、下は争っている陣営の詳細だ。党は一つでも内部は一枚岩ではないからな、色々な派閥がある。今回問題を起こしているのは福建と東北の奴らだ」
「派閥争い……」
「今は党内で権力を得るにも金の力が必要だ。そこに目をつけ、入り込んできたのが黒社会の連中、香港の三合会、上海の青幇、紅幇、福建を拠点とする蛇頭が有名だな」
「私は初耳です」
「勉強不足だな。城山は知っていたぞ」
「政治家と比べないでください」
珍しく白凱浬が笑う。
あんな古狸と一緒にされたら困る。
反社会的な組織は世界中に星の数ほどある。全部なんて覚えきれない。
「拗ねるな。今回揉めているのは蛇頭と東北幇らしい。私もあまり関わったことがない連中で、詳細の把握に苦労している」
「貴方でも、ですか?」
「マフィアが力をつけてきたのはここ一〇年ほど、経済活動が活発になってきてからだ。それまではチンピラの域を出なかった連中が組織化し、金と武器を持つようになった」
「このような資料まで用意するということは、ロマノフのクーデターにも関係があると?」
「派閥争いは珍しくないが表立ってするのは初めてだ。それも党の内部まで巻き込んでの抗争など聞いたことがない。マフィアの抗争は激化すれば互いが必ず血を見る。なのに仕掛けた」
「そうするだけの理由がある、ということでしょうね。それか、勝てる見込みがある」
「勝算もなく仕掛ける輩はいない。それに、蛇頭はこれまで確固たる頂点を持たなかった。犯罪者のネットワーク、群体ともいえるほど緩い繋がりだったにも関わらず表立って抗争をしている」
「強力なリーダーが現れたとみるべきでしょう。そこにロマノフが関係しているかどうか、ですね」
「ああ、そうだな」
白凱浬はチェーンスモーカーのように火をつけては二、三度吸い、もみ消しては新しいものに変えている。彼の苛立ちが見て取れるようだった。
「連邦のクーデターが軍部による暴走だった場合、連中とマフィアが手を組む可能性は否定できない。情勢不安になれば国が割れてしまうだろう」
「日本としてはそれでもかまいませんが、貴国の姫殿下はお嘆きになるでしょうね」
「……」
鋭い目で射抜かれる。
「そう怖い顔をしないでください。承知しています。これだけでは限度がありますから、協力はしていただきますよ」
「分かっている。それも含めて調査中だが、我らも忙しい。これにばかり人員を割くわけにもいかん」
「……私が暇だといいたいわけですか?」
「聞けば日桜殿下に付きっきりらしいな」
こういうところは耳聡い。
出所は城山あたりだろう。意趣返しもいいところだ。
「言い方は気に入りませんが……色々と当たってみます」
「我らは本国からの指示があるまで動かないつもりだ。採水地の確保も凍結させる。しばらくは動かないだろう」
「承知しました。調べが進み次第連絡をいたします」
「頼んだぞ」
白凱浬は煙草を海に投げ捨て、再び宵闇の中に消える。
複数の気配も消え、残るは潮騒だけ。
「まぁ、こうなるか」
なんとなく、こうなる予感はしていた。
封筒をしまい、背もたれに体重を預ける。
暇には程遠い生活になりそうだ。