一五話
国には独特の匂いがある。
それに気付いたのは初めて日本を出た時だった。大学の頃、欧州を歩いてからから戻ってくると、空港でそれを感じた。空気や水、森林、地面、舞う塵や潮風が運ぶ、なんとも独特な匂いは日本に戻ってきたことを実感させてくれる。
「悪くない」
心の底からそう思える。
郷愁からさっさと九段、いや御所へと戻りたかったのだが職務を優先することにした。
帰国後、空港で裂海と別れてやってきたのは渋谷区松濤、今回の出張を後押ししてくれたスポンサーへ成果を伝える必要があったからだ。
「九段より参りました榊と申します」
門で挨拶をすれば妙齢の女性が案内してくれる。
都内とは思えない広さの敷地に、見事な庭木、池に泳ぐ錦鯉と政治家の邸宅そのもの。屋敷の奥に鎮座するのは七〇を超えて与党の総裁に就任した古狸というよりは化け狸。
「おや、ずいぶんとはやい訪問だね。てっきり明日かと思っていたよ」
「先生には骨を折っていただきましたので真っ先にご報告をと思いまして」
「殊勝なことを言うじゃないか。お世辞と分かっていても嬉しくなってしまうね」
「滅相もありません。これからますますお忙しくなられるのですから、暇なうちにお願いしたいと伺った次第です」
「相変わらず口が上手いな。そうだ、裂海君は一緒ではなかったのかな?」
「城山先生と相対するのは時期尚早です。あいつは全部顔に出ますから、根掘り葉掘り聞かれたら隠せません」
会釈をすれば化け狸が笑う。
「それではまるで、私に隠し事があるかのようじゃないか。私はスポンサーであり支援者、もう少し協力的でもいいと思うんだけどね」
「事の良し悪し関係なく、先生は何でもお使いになる、それに時の権力者になろうというお方に関わりすぎると、敵対勢力が増えることになります。殿下の今後を考えれば、得策とは言い難い」
「惜しいなぁ、君が近衛でなければ私の後継者にするのだが……」
「残念ながら政治に興味はありません」
話を続けていると化かされそうになるので、早々に飛行機の中でまとめた資料を差し出す。
「半年前、ロマノフ内部で何かが起こったようです。軍を国境に移動させ、他国との共同事業を止めている。地方政府の運営にも支障をきたすものです。上でなにか、権力構造に変化が生じたのではないかと推察されます」
「予想されるのは二つ、失脚か死のどちらか。しかし、そのような報道はされていない」
「隠していることは十分に考えられます。腑に落ちない点も多々ありますが……」
城山は資料を読みながら顎に手を当てて唸る。
「早急に調べる必要があるね。私の勘だが、ロマノフと共和国内の動向が無関係とは思えない。二つの問題を関連付けて調べる必要があると思うんだ」
「それについてはこちらでも確認をいたします」
「私も随時知らせを出そう。しかし、だ。これほど協力をしているのだからもう少しうま味があってもいいと思うよ」
「今でも見逃しているものがありますから、ほどほどになさってください。権力の移動はどこでも起こるもの、せっかく掴んだ好機を自分から手放すことは賢明とは思えません」
「君に脅されると背筋が凍る。肝に銘じよう」
「ありがとうございます」
再び会釈をして座布団を離れる。
「榊君、このあと食事でもどうかな? 明石から鯛が届くんだ」
「ありがとうございます。申し訳ありませんが先約がありまして、これで失礼させていただきます」
「連れないな。もっと土産話を聞かせてくれてもいいだろう」
「ご勘弁ください」
あまり時間を空けると面倒だ。
足早に御所へと戻ることにした。
◆
一週間は短いようで長い。
起床するたびに自室でないこと、日課をこなさなくてよいことを思い知り、食事のたび無意識に忌日であったかどうかを考える自分を笑った。
思った以上に俺自身はお節介で、世話役であったらしい。
逸る気持ちを抑えながら渋谷区松濤から九段の近衛本部に戻り、まずは務めを果たすべく上司のもとへと向かう。
「開いている」
扉をノックすると聞きなれた声に安堵してしまう。
「失礼します」
入って一礼すれば鷹司は相変わらず忙しそうに仕事をしていた。傍らには直虎さんがいて会釈をしてくれる。
「榊平蔵、ただいま戻りました」
「優呼から聞いている。先に城山先生のところに行ったそうだな」
「遅くなっては文句と嫌味が増えそうでしたので先に資料を置いてきました」
「先生には便宜を図っていただいたのだ。順番としてはまちがっていない」
鷹司は手も止めず署名捺印をしている。
日本国内の情報には目を通していたので大きな問題が起こらなかったことは知っている。陽光に照らされた髪の色艶は悪くなく、目の下の隈も薄いことから心労はあまり重ならなかったのだろう。
「どうだった、ロマノフと欧州は?」
「収穫は色々ありました。ロマノフという土地を実際に見ることができたのは大きい、彼の国の、国民と風土をもっと知る必要があります」
「国を形作っているのは一部の特権階級ではなく、国民そのものだ。彼らを見ずして国を語ることはできない。一層注視していくことは重要だろう」
「貴重な機会をいただきました。ありがとうございました」
「世辞などいい。これからの行動で示せ」
顔を上げ、まっすぐな目で睨んでくる。
一週間も空けたのだから鷹司や直虎さんの負担はかなりのものだっただろう。言葉通り行動で返していかなければならない。
「騎士王殿からも便宜を図っていただき、雨彤様ともお話しすることができました。詳細をまとめましたのであとで確認してください」
「分かった」
「それから、こちらはお土産です」
懐から小さな包みを二つ取り出し、二人に渡す。
「なんだ、これは?」
「向こうの蜂蜜を使ったハンドクリームです。お二人とも手を使う仕事が多いでしょうから、食べ物よりもこうしたものが良いかと思いまして」
個人的に、お土産は基本的にすぐなくなるもの、食べ物や飲み物を選ぶのだが今回は騎士王の意見を参考にした。女性の指先にまで気を配るあたり、騎士とは大変なのだろう。
「小癪な……」
早速包みを開いた鷹司が渋い顔をする一方で、直虎さんは嬉しそうなのが幸いだ。
「私にまで……ありがとうございます」
「いいえ、いつもお世話になっていますから、これくらいはさせてください」
反応を見る限り色男の目立ては間違っていないらしい。
ほっ、と胸を撫でおろしつつ、時計を見ると、目敏い鷹司が気付く。
「もう御所へは顔を出したのか?」
「いえ、まだです」
「時間を気にするくらいならさっさと行け。今の時間なら寝所に居られるはずだ」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
一礼をしてから執務室を出て、足早に御所へと向かう。鷹司の言う通り、今の時間は着替えをして次の公務まで休んでいるはずだ。
本部の地下通路を抜けて寝所の前に立ち、深呼吸をしてから入れば、そこには変わらずいる。
「……さかき、おかえりなさい」
「日桜殿下、ただいま戻りました」
「……はい」
一週間では何も変わらないはずなのに、笑顔を見ただけで肩の荷が下りた気がした。
「殿下、お変わりありませんか?」
「……はい。さかきこそ、からだはだいじょうぶ、ですか?」
「問題ありません。今からでも殿下のお供ができますよ」
「……ひろうは、めにみえないもの、です。きょうは、やすんでください」
言葉を交わしながら殿下が畳をぺしぺしする。
ここに座れ、ということなのだろう、黙って従うことにする。
「……ゆうこが、さきほどきました」
「すみません、先に城山先生に今回の成果をお伝えして、副長にも帰還の報告をしてきました。殿下への報告が遅くなったことをお詫びします」
「……かまいません。ゆうせんじゅんいが、あるのですから」
「ありがとうございます。ところで殿下、今はおひとりですか?」
ふと気が付けばノーラの姿がない。
殿下の御付は直虎さんかノーラが担当している。鷹司のところに直虎さんがいたのだからこちらには彼女がいるはずだ。
「……のーらちゃんは、くすりをとりに、いむしつにいっています。」
「ああ、なるほど。この後は横浜ですから酔い止めですね」
「……はい……」
殿下が周囲を気にする。
何かあるのかと倣って見渡すが、特に変化はない。
「殿下?」
「……さかき、ふたりきりはひさしい、です。ですから……」
今度は太ももをぺちぺちする。
確かに殿下と二人になるのは珍しい。出張前でも殿下や俺の周囲にはノーラや千景、直虎さんや裂海がいた。しかし、今はマズイ。ノーラに見られたら必然的に千景に伝わる。そうなると後が怖い。
「お気持ちは頂戴しますが……」
「……いっしゅうかん、さびしかった、です」
「殿下……」
「……だめ、ですか?」
この表情には弱い。
一週間ぶりということもあって、腹をくくることにした。
「お手柔らかにお願いします」
「……はい」
花のような笑顔でぺちぺちし始める。
躊躇っている間にノーラが戻ってきそうなので早々と膝枕にあやかった。
「……ろまのふは、どうでしたか?」
「考えさせられることばかりでした。とても良い経験になったと思います」
「……それはよかった、です」
「忘れないうちにこちらをどうぞ」
「……?」
小さな包みを渡す。
「お土産です。ベルギーはバラの名産地、殿下には少し早いかと思ったのですが……」
「……こうすい、ですか?」
「お気に召していただけるとよいのですが」
包みを開け、小さな丸い瓶の蓋を取れば閉じ込められたバラが香る。
「……いいかおり、です。うれしいです」
「喜んでいただけたのなら私も嬉しいです」
撫でられる手にぬくもりを感じながら買ってきて正解だったと安堵していると、懐でスマートフォンが震えた。取り出してみると表示には立花宗忠の文字。
「今の時間に……?」
「……おしごと、ですか?」
「そのようです。殿下、失礼します」
画面をスワイプして耳を当てる。
『ああ、つながった! 榊、日本に戻っているな?』
「どうしたんだ、そんなに慌てて?」
立花の声からは焦りと驚きがある。
通話の後ろ、雑音交じりの喧騒からも不穏な空気が伝わってくる。
『まだはっきりしたわけじゃないが、大事だ』
「大事?」
『ロマノフでクーデターだよ』
「!」
立花の言葉に耳を疑う。
それは、これからの混乱も序曲に過ぎなかった。
今回の更新から第五部は一か月のお休みをいただきます。ご了承ください。
再開は二月一五日です。。
詳しくは活動報告に記載しますのでお暇な方はそちらをどうぞ。