一六話
殿下こと日桜様はこの国の全権代行である。
陛下に万が一あれば彼女の肩に責任と権力が集まることになる。
はずなのだが――――。
「……♪」
殿下は御所の中庭で花に水をやっている、実に幸せそうに。
輝く朝日、萌える草木、白い御子装束の子供というのは絵になる。が、これを諸外国の政治家や権力者たちが見たら、どう思うだろうか。少なくとも俺ならチョロいと思う。
――――まぁ、いいけど。
人知れず嘆息する。
どうせ見ているヤツなんていないのだから、どうでもいい。
「……!」
「あらまぁ」
開きかけた黄色いカタバミの蕾に顔を寄せては飛んできた蜜蜂に驚く。
まるで映画や物語のお姫様、正当派ヒロインといったところだろうか。
「……さかき」
「はい、殿下」
お呼びだ。
頷いて近づき、腰を落とす。
「……かたばみが、さいています」
「ええ」
「……きれいですね」
「とても」
なんだろう、イライラする。
原因はだいたい分かる。
俺の体には裂海に切られた傷が残っているからだ。
もう痛くはないし、なにか不都合があるわけでもないが、この傷は最終的にこの子の為につけられたもの。国を守ることは殿下や皇族を護ることにつながる。
最初は、中々に誇らしいとも思った。
今でも、あることはある。
でもこうした殿下の様子を目の当たりにしていると多少なりとも悩んでしまう。
はっきり言えば、この子のために命を懸けられるのかわからないからだ。
「……さかきは、おはな、すきですか?」
「好きですよ。心が落ち着きます」
「……わたくしもです。しょかは、おはながたくさんで、うれしいです」
皇族、唯一無二、今の雇い主。
金は、貰っている。
でも命を懸けるに値するかどうかはまだわからない。
傷の疼きが助長しているような気がした。
「……さかきは、どんなおはなが、すきですか?」
「そうですね、バラが好きです」
「……わたくしも、のいばらや、てりはのいばらは、だいすきです。さかきがくるすこしまえまで、さいていました」
「そうですか。来年見るのが楽しみです」
「……わたくしもです」
野薔薇も照葉野薔薇も知らない。
俺が好きなのは年中あってどこでも手に入って見栄えがして女性受けがいい、便利この上ない真っ赤なバラだ。
「……ばらは、しきおりおりにさいて、たのしいですね」
「そうなのですか。お恥ずかしながら草花には疎いもので、ご教授願えますか?」
「……もちろんです」
うれしそうに指で草花をさしては説明してくれる。
最近分かったことだが、どうやら殿下は事前に用意された原稿があるとハキハキと喋るらしいが、普段はこんなにもおっとり、というかまるでナメクジが這うように喋る。
きっと精神構造が幼稚園児のままなのだろう。
「殿下、そろそろ部屋へ。お体に障りますよ」
「……わかりました」
寂しそうに立ち上がる。
しかしながら、殿下には午前中に目を通してもらわなければならない資料がある。
いつまでもヒロインごっこというわけにはいかない。
このまま緑色の話ばかりでは俺の頭からも植物が生えてきそうだ。
「見て頂くのはこちらです」
殿下の私室に戻り、鷹司から渡されていた資料を漁る。
殿下も心得たもので畳の上に座布団を敷き、正座をして待っている。
アタッシュケースの中には百枚近い書類の束。
「まずはこれからです」
「……はい」
最初はいくつか開港についてのもの。
ちらっと見ただけだが、かなり難しい内容だ。
殿下はざっと目を通すと、珍しく眉間にシワを寄せ、少ししてから花押と呼ばれる皇族用の印鑑を押す。
「……つぎを」
促されるままに書類を置いていく。
殿下はそれらを真剣な眼差しで片づけていく。
この顔ならまだ見れるか。
さっきのような腑抜けたのは勘弁願いたい。
――――しかし、まぁ。
こういっては何だが、殿下も律儀だ。
現代において、皇族に直接的な権利などない。
だから、この書類も形式的なもの。
いってしまえば見なくても、ただ花押があればそれでいい。
その程度のもの。
なのに、殿下は額に汗すら浮かべて念入りに読む。
一一歳で博学であらせられるのもどうか。
いや、そうでなければ近衛が護る価値がない。
「……ふう」
「お疲れさまでした。食事の用意ができています」
「……はい」
書類の全てに目を通したのは、太陽が空の真上にくる頃。
大人顔負けの集中力をしている。
「……さかきも。いっしょにいかがですか?」
「よろしいのですか?」
「……ひとりでたべるのは、すこしさびしいです」
「では、お言葉に甘えさせて頂きます」
殿下が手を叩くと給仕服の女性が現れる。
「……さかきにもおなじものを」
「畏まりました」
皇族の食事には興味がある。
さぞや豪勢な食事なのだろう。
しばらくすると部屋に朱塗りの膳が運び込まれる。
小さな皿や鉢がいくつも並ぶ本膳スタイル。
これは期待できそうだ。
「……いただきます」
「頂きます」
殿下に習い、合唱して箸をとる。
まずは、と先付け、前菜の椀を一口。
「うっ?」
「……どうかしましたか?」
「い、いえ」
驚いた。
鮑かと思って口にしたのは、どうやら生麩。
もちもちとした食感はあるのだが、味が薄い。
「な、なんだこれ……」
殿下に聞こえないようにつぶやく。
驚異的なまでに味が薄い、いや淡いといった方が適切か。
気を取り直して焼き物に箸をつける。
稚鮎だと思ったのに全体がオカラでできていて、これもまた味が淡い。
全体を見渡せば肉や魚が一切ない精進料理。
「……さかきは」
「殿下?」
こちらが精進料理に面を食らっていると唐突に話しかけられる。
「……うかがっていたひとと、すこしちがいます」
「伺う、とは?」
「……きりひめに、です」
「霧姫……副長のことですね」
あの人にそんなかわいげのある名前が付いているのが不思議だ。
いっそ鬼姫の方が似合うのではなかろうか。
「それで、副長はなんと仰っていたのですか?」
「……えっと、すこしひねくれているひとだ、と」
いうに事欠いてひねくれているとは。
そっくりそのまま返してやりたい。
「……ですが、わたくしにはとてもせいじつに、うつります」
「誤解が解けたようで何よりです」
「……わたくしは、さかきのことが、もっとしりたいです」
純粋無垢な瞳がこちらに向けられる。
やめてほしい。
邪念が溶けてしまいそうだ。
「知りたいと申されましてもですね。どのようにすればいいやら」
「……さかきは、すこしまえまで、はたらいていたのでしょう?」
「はぁ、そうですね。一般的な企業に勤めておりました」
「……でしたら、そのときのおはなしを」
「大した話はありませんよ」
「……かまいません」
ヒロインの眼差しを向けられると嫌とはいいにくい。
不味い食事の気晴らしくらいにはなるだろうか。




