一二話
月橋との早めの夕食を取ったのだが、食べ足りないという裂海の我が儘に付き合いつつ、街場での情報収集も兼ねてもう一軒行ってみようということになった。
これは収穫を期待してのことではない。期待は無くはないのだが、普通に生活をしていて変わったことががあるかと聞かれれば普通は分からないだろう。
日本とロマノフは海を挟んでの隣国でも気質や考え方、国民性について知っていることは多くない。それでも人と触れあえば、ロマノフ人の気質は分かるのではないかと考えながら、美味しいと評判の店を探していた。
一般的にロマノフ人は笑わない、というものがある。寒いから表情まで凍って笑えないと、欧州の人間ならば揶揄するだろう。冗談を真に受けた日本人ならそう思うのかもしれない。現に、彼らは余り笑わないからだ。
「すみません、道を尋ねたいのですが……」
そう聞いても最初はムスっとした顔をする。
しかし、
「ロマノフは初めてなのでお教えいただけると嬉しいです」
「ああ、その店なら街の南ブロックにある。ほら、信号が見えるだろう? あの十字路を右に曲がって、一〇分くらい歩くと大きな建物が見えてくる。そのすぐ横だよ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
こんな具合に丁寧な受け答えをしてくれる。
笑顔は見えないが、嫌われているようには見えない。
「内気なんじゃない?」
とは裂海の言葉だ。
彼女の推理を裏付けるのは話しかけた俺は勿論、隣にいる小さな日本人にまで気を使って、手を振ってくれる。不愛想な人間に、そうそうできるものではない。
「怯えや警戒をするなら眼球がせわしなく動くはずだけどそんなことはなかったし、ヘイゾーの動きを観察していたようにも見えたわ」
「お前の観察力にも参るよ」
「お世辞なんていらないわ。どうせ似たようなところ見ていたんでしょう?」
「優呼もサラリーマンで出世できる素質があるぞ」
「いらないわ。私は武士だもん!」
他愛ない会話をしていると店にたどり着く。
地元の人間しか集まらないであろうレストランに入ると、給仕をしている大柄で恰幅の良いご婦人は怪訝そうな目をした。
「共和国街ならもっと東だよ」
「私たち日本人です!」
「日本人?」
二度見される経験なんてほとんどない。
「美味しいお店を伺ったらここだと言われました」
補足をすればご婦人は仏頂面のまま、厨房と俺たちとを交互にみた。
「ここには日本人が食べるようなものはないよ」
「私たち、ロマノフは初めてなんです。だから、ぜひ食べたいんです!」
「ふぅん、変わっているね。まぁ、いいけど。不味くてもしらないよ?」
「ありがとうございます!」
そう答えると、やれやれといった様子で厨房へと戻っていく。
「オッケーってことよね、これ」
「とりあえず邪険にされているわけじゃないから、大丈夫だろ」
木の椅子に座ると、ご婦人がメニューを持ってきてくれる。
海外のレストランでは最初に供されるお冷やお茶がない。あれは日本独特の文化で、水は注文したらでてきて、有料であることが当たり前だ。
「メニューは読めるのかい?」
「字は少し読めますが、おすすめの、皆さんが普段召し上がっているようなものをいただけたらと思います」
「私たちと同じものをかい?」
「はい!」
裂海が元気よく頷く
こういう時は実に頼もしい。
「飲み物は?」
「私は赤ワイン、この子には炭酸水をお願いします」
物腰低く、丁寧に注文すれば嫌そうな顔はしない。全部が全部ではないのだろうが、裂海の内気という表現は当たっているように思えた。
最初に出てきたワインと炭酸水は見えるように栓を抜き、グラスに注いでくれる。海外では安全性を示すために客の前で抜栓することが多い。こうした気遣いからもこちらへの配慮が伺えた。
「なんで私だけ炭酸水なのよ! ちょっと飲ませなさいよ!」
「俺なりの優しさだ」
「余計なお世話!」
脇腹を殴られながら待っていること数分、皿が運ばれてくる。
「お待ちどうさま」
事前知識では黒パンやじゃがいも、ボルシチは知っていたが、目の前の皿には見たこともない料理が並ぶ。
「これはなんですか?」
「グレーチカ。ソバの実を炊いたものよ」
「ソバって……あの蕎麦かしら?」
「なんだい、日本でもソバを食べるのかい?」
「食べますが粉状に加工してから練るなどします。ですが、これは……」
「ソバの実を茹でてから一度冷ます。食べる直前に温め直してからバターを落とすんだ。私たちの大事な食べ物さ」
裂海がスプーンを手に取り、一掬いして口に運ぶ。
もぐもぐと咀嚼すること数秒、何度か頷くと猛烈な勢いで食べ始めた。
「味はどうだ?」
「バター風味のお粥、ちょっと風味が違うかなって感じかしら。別に不味くないし、むしろ美味しいわ」
「じゃあ、俺はこっちにしようか」
透明なスープに手を伸ばす。
口にするとベースの味は肉や野菜の合わさったブイヨン、そこにベーコンの味が広がり、中に入っている具材はわずかな酸味と塩分が主張する。ピクルスのような漬物を刻んで入れたのだろう。
「美味しい。それにくどくない」
皿に乗ったパンを齧る。
「スープはソリャンカ、パンはピロシキだ」
「これがピロシキ。名前だけは聞いたことがありますが、食べるのは初めてです」
ピロシキの中身は細かくした野菜に挽肉、卵も入っているだろうか。それらが混然一体となって味に奥行きを出している。
「私にも頂戴!」
「分かったから袖引っ張るなって」
ソリャンカの器を譲りつつ、新しい皿に手を伸ばす。
食べる間に小さな餃子のような蒸し物が数点、それに赤黒いボルシチまでが並び、テーブルがいっぱいになる。
「アンタたちよく食べるねぇ……」
「だって美味しいんだもの!」
「そうかい、気に入ってくれるならなによりさ」
初めて笑顔を見せてくれる。
やはり、食事を通したコミュニケーションというのは大事だ。食べ物は文化そのもの、それを受け入れるとなれば警戒心はぐっと下がる。
「アンタたち兄妹?」
「ふうふ……」
「同僚です」
危険な発言をしかけた同僚を遮り、大きめの声で宣言する。
テーブルの下で足を踏まれ、肘が脇腹に突き刺さって胃に入ったソリャンカが出そうになった。
「同僚って、働いてんのか?」
「ずいぶん若そうに見えるけどな。何歳だ?」
厨房から男性が顔を出し、常連と思しき男性も会話に加わる。
次第に注目が集まるのが分かった。
「私が二六、彼女が一八です」
「はぁん、東洋人は若く見えるっていうけど本当だね。そっちの子はもっと幼く見えるよ」
「細いですからね。前も後ろもぺったん……!」
あまりの痛みに叫びそうになるのをようやく堪えた。
視線を落とせば強靭な握力で太ももを抓られている。
「ヘイゾー、調子に乗り過ぎ」
「わ、悪かった」
「口は禍の元って教わらなかった?」
「分かった! 分かったから!」
千切れる寸前まで捻じられ懇願する様子をみて、周囲からは笑い声が聞こえる。
こんな異国の地で恥を晒すとは思わなかった。
「グレーチカもボルシチも、ピロシキもペリメニも美味しいわ!」
「よく食べる子だね。どこに入ってんだい?」
「ここ!」
「あら本当だわ、少しポッコリしてる」
裂海がおばちゃん相手に笑いを取ってくれるので場が和んできた。こうなれば雰囲気はよそ者を受け入れた、ではなく普段のレストランという雰囲気を取り戻す。
「折角ですので、如何ですか?」
ワインのボトルを差し出せば隣のテーブルにいた男性が目を白黒させる。
「いいのかい?」
「こんな美味しい料理をいただいて、素敵な雰囲気を味わえたのです。そのお礼だと思ってください。さぁ、皆さんもどうぞ」
新たなボトルを注文しながら、栓を抜いたものを回していく。ロマノフといえば無色透明なウォッカを想像するが、ワインも生産され人気がある。
「ごちそうになるよ」
「すまんな、若いの」
「日本に乾杯だ!」
全員に行き渡ったのか、テーブルごとに乾杯の声が聞こえる。
和気藹々とした雰囲気であるほど質問はし易く、され易い。
「お前さんたち、日本のどこから来た?」
「仕事とはなんだ?」
「魚でも買いに来たのか?」
警戒心が消えたのか質問が飛んでくる。
「私も彼女も東京です。仕事は特殊なガラスやレンズを扱っています。ご覧になりますか?」
月橋からもらっていたサンプル用のレンズを差し出せばみな興味津々に覗き込む。光にかざしたり自分の手に当てる人間まで出てくる。
「はぁ、こんなものを買うのか。俺はなんに使うのかもわからん」
「カメラのレンズじゃないのか?」
「半分正解、と申し上げておきます。あとは企業秘密なので悪しからずお願いします」
唇に指を当てる仕草が何を示すのかは万国共通、それからは他愛もない話で盛り上がる。
酒を注ぎ、注がれればもう国籍は関係ない。
顔を赤くした給仕のご婦人は隣の椅子にどっかりと座る。
「アンタら、今は特にスリに気を付けな」
「特に、ですか?」
「そうさ、パスポートを紛失すると警察へ行って紛失証明書を受け取らなきゃいけないんだ。でも、その発行が遅いらしいよ」
「私たち以外の日本人が被害に遭われたのですか?」
質問をすれば、隣のテーブルにいた赤ら顔の男性が身振り手ぶりを交えながら解説を始める。
「ちょっと前に行政で色々あったらしくてな、警察もいつになく仕事が遅い。欧州からの旅行者がスリや置き引きの被害に遭って、書類の申請から再発行まで偉く時間がかかったって噂だ」
「ああ、そういう話もあったな」
「酷い役人だぜ」
「俺達も一時パスポートや証明書の発行が遅れたことがあったんだ。何を聞いても答えられない、上の方針の一点張りだ」
「アレは困ったな。どこだったか、国が管理する施設も使えなくなって大変だったらしいぞ」
「どうなっているんだか、この国は……」
一人が愚痴れば皆が頷き、我も我もと話し始める。
ふと、その色々あった時期というのが引っかかった。
「その色々あったというのは、どのくらい前ですか?」
「半年くらいかな」
「ああ、そのくらいだ」
「半年前……」
ここでも半年前という言葉が出てくる。
メンデーレフから聞いたことも気になる。これは戻ってからもう一度、半年前のロマノフの状況を洗ってみる必要が出てきた。
「優呼、そろそろだ」
「分かったわ」
囁けば護衛役は残った食べ物を口に流し入れた。
「そろそろ時間ですのでお会計をお願いします」
「あら、もういいのかい?」
「もういっぱい食べました!」
「アンタは食べ過ぎ」
伝票を受け取ると、かなり安い。
ワインもかなりの本数開けたのに、少ないくらいだ。
「これは……」
「いいんだよ。美味しいって食べてくれたし、いろいろ聞かせてもらったしね」
「よろしいのですか?」
「仕事ならまた来るだろ? その時に寄っておくれ」
「分かりました。ありがとうございます」
ご婦人の気遣いが心に刺さり、言葉が出てこない。
こうした時、自分の性格が嫌になる。
「気を付けて帰るんだよ」
「ありがとう!」
裂海が手を振り、すっかり暗くなった夜の街を歩く。
店が見えなくなったところで裂海が背中を叩いてきた。
「良い人たちだったね」
「ああ」
「収穫あった?」
「……まぁな」
「じゃあ、シャンとしなさい。また来れば嘘にはならないわ」
「そうだな」
「胸張って、前向いて歩くのよ、新米!」
「分かってるよ」
偶然が重なった触れ合いに心が癒される。
言葉を交わせば人は分かりあえることを実感させてくれる夜となった。
◆
エレオノーレ・クルジュナ・トランシルヴァニアには悩みがある。
それは最も信頼する男性が出張に出掛けたことでも、ライバル視する女性が大人しいことでも、親愛なる主君がちょっと抜けていることでもない。目の前にいる上司が女の顔をしていたからだ。
「どうした、ノーラ、私の顔に何かついているか?」
「いいえ、そういうわけではありません」
にこやかに答えると上司こと鷹司霧姫は食事に戻る。
眉根は寄りため息ばかりをついている姿はいつもの、凛然とした近衛副長という立場からは想像ができない。
「副長、何を心配なさっているのですか?」
と問えば、
「アイツが動けば嵐が起こる。国際問題にならないかどうか、それが不安だ」
アイツとは榊平蔵のこと。鷹司はもっともらしいことを並べるがエレオノーレからすれば、物憂げな顔は一日千秋と待ち焦がれる乙女そのもの。なにをそんなに考えることがあるのかと思うほどに一日中同じ顔をしている。
ライバル視する千景は自らの感情を公にして、思い焦がれるのは当然というスタンス。恋愛という感覚に乏しい日桜、良くも悪くも大人の思考でいる直虎。目下のライバルは千景だけだと思っていたのに、雲行きが怪しくなってきていた。
「副長は、榊さんのことをどう思っているのですか?」
「ぶふっ」
率直に聞けば飲んでいた茶を吹く。
口元に付いた液体を手の甲で拭う様は実に男性的で、エレオノーレからすれば色気の欠片もない。しかし、鷹司の顔は整っていて、肢体も凹凸がはっきりしている。特に、近衛服を押し上げる胸元は大きいの一言。自らの視線を落としてもそこに比べられるものはない。
「エレオノーレ、妙なことを言うな。ヤツは部下だ」
「つまり、男性として見ているのですね」
「……前提を話さなければいけないのか?」
「端的に申し上げれば鷹司副長が一番ヘイゾウさんを心配しているように思えます」
「やめろ」
心底嫌そうな顔をする近衛副長に、主である日桜は興味深そうな目を向け、同じく部下である立花直虎は食事の手を休めることなく、一瞥すらしない。
「……きりひめ」
「殿下、私が心配しているのはヤツが問題を起こさないか、という一点です。口は立ちますが、禍の元とも申します。これまでを振り返ると、いささか不安にもなります」
「でも、出張の許可はお出しになっているではありませんか」
「城山先生から口添えもあったからな。無下にはできない」
「突っぱねればよかったのでは? ヒデオも、そこまで強要はしないと思います」
「……きりひめ?」
日桜はエレオノーレの指摘を受け、神妙な顔で頷いてから臣下に目を向ける。簡易的な裁定の場となった食卓で、鷹司はあまり表に出したくもない部下の評を披露せざるを得ない。
「これからを考えれば仕方ないのです。武士として使えないのであれば、違う使用法を考えねばなりません」
「……さかきは、ものではありません。だめです、そういういいかた」
「事実です」
頬を膨らませる日桜に、鷹司は冷や汗を浮かべている。
エレオノーレからすれば得心せざる、本心を隠すような言い方だ。裏を返せば従来の近衛が不得手としている折衝や交渉事の専門家として育てようとしている意図が伺えた。
「副長はヘイゾウさんに将来性があることを見抜いていらっしゃるのですね?」
「将来性かどうかは別として、元はサラリーマン、それもかなり腕が立ったのだから組織を預かるものとしては上手く使う必要がある」
エレオノーレは上司の言葉が本音なのか建前なのか、経験の浅い自分では判別がつかない。
ちらり、と立花直虎に目を向けても、彼女はわれ関せず、相変わらず黙々と食事をしている。
「満足したか?」
「判断しかねます」
「その言い方は榊そっくりだな」
「副長こそ、会話の組み立て方がそっくりです」
「……」
「……」
「……?」
互いに腹を探り合うような時間が流れる。
ただ一人、探り合いができない日桜が二人の顔を交互に見るだけ。
「……意外な伏兵かもしれません」
「なにがだ?」
「いえ、こちらの事です」
「そうか」
溜息をついて鷹司は食事を続ける。
いつもは猛獣のように食べるのに、この時ばかりは勢いがなかった。