一〇話
朝は清々しくありたい。
国は違っても差し込んでくる日差しに揺れるカーテン、時折聞こえる鳥のさえずりは心を落ち着かせてくれる。
すでに冬が訪れている大陸とはいえ、天気さえよければ日向は暖かい。分厚い上掛けを押しのけ、伸びをして冷たい空気を吸い込めば思考も鮮明になる。
悪くない朝だ、そう思っていると枕もとでスマートフォンが震える。画面をスワイプさせ、耳に当てればわずかな息遣いが聞こえた。
「はい、榊です」
『……お、おはようございます』
「おはようございます、殿下。そちらは良い朝ですか?」
『……えっと』
何かを考えているのか少し間が開く。
「急がなくても結構ですよ」
『……へんなかんじ、です。かおをみないではなすのは、なれません』
「そうですか? 私は殿下の困り顔が想像できてしまいます。首を傾げて、頬に人差し指が当たっているかと思いますが、いかがでしょう?」
『……! あたっています』
ちび殿下のしぐさや行動など容易に想像ができる。
時計に目をやれば時刻は七時、ウラジオストクは日本と一時間の時差があり、こちらのほうが進んでいる。つまり帝都では午前八時、起きて朝食をとる前の時間なのだろう。
「本日は午前中に接見、午後から御所内で公務のはずです。忌日ではなかったと記憶しておりますのでお食事と休息を十分に取り、無理をなさらないようにしてください」
『……はい。だいじょうぶ、です。さかきも……』
「はい?」
『……さかきも、むりはしないでください。いこくのちで、たいへんとは、おもいますが……』
「私は大丈夫です。優呼もいるのですから、心配いりません。なに、いざとなれば泳いで帰ります」
『……でも、しんぱい、です』
今度は眉根を寄せて俯き、畳にのの字でも書いているはずだ。
どうしたものかと考えながら窓辺に立つ。ホテルからは色とりどりの小さな屋根、石畳の道路や行き交う人々、その先には群青の海と白波が見える。
「殿下、こちらは良い天気です。街並みも美しく、海も綺麗です。写真を撮って帰りますので、あとで一緒に見ましょう」
『……こんどは、はやくかえってきますか?』
「勿論です。お土産は特産の蜂蜜にしますから、良い子で待っていてください」
『……やくそく、です』
「承知しました」
声に生気が戻る。
子供はやはり元気なほうがいい。
「そろそろお食事の時間かと存じます。あまり侍従たちを困らせてはいけませんよ」
『……わかって、います』
「結構です。それでは良い一日をお過ごしください」
『……あっ、さかき、ちょっとまってください』
「まだなにか?」
ちょっと焦った様子の殿下が電話口でごそごそやり始める。
何かと思って待っていると、可愛らしい咳払いが聞こえ、
『ヘイゾウさん』
「ノーラ……君か」
声に表情があったのなら、きっと双眸を吊り上げた笑顔のまま迫ってくる彼女が見えたことだろう。
『殿下ばかりではなく私にも声を聞かせてください。そうでないと、寂しくて泣いてしまいます』
「す、すまない」
『約束ですよ。あと、このあと千景さんのところにも連絡をしてあげてください。きっと待っています』
「連絡は構わないが、今日は平日だし千景も学校が……」
『ヘイゾウさんのそういうところ、良くないと思います』
今度は指を突きつけられている気分になる。
「わかった。かけるよ」
『はい。不公平はダメですからね』
「あ、ああ。それじゃあ……」
ノーラは失礼します、と丁寧に通話を切る。
彼女の鬼気迫る訴えは胃に悪い。
スマートフォンのアドレス帳から千景の名前を呼び出し、通話ボタンを押す。わずかな間をおいてコールが始まる。
『千景です』
元ご主人様はすぐに出た。
なぜか声が上ずっている。
「おはようございます、榊です。千景様、今朝のご機嫌は如何ですか?」
『悪くないわ。平蔵こそどうなの?』
「私はいつも通りです」
『そう……それならいいの。出張先がロマノフだと聞いたから心配したのだけれど、杞憂みたいね』
「お心遣いありがとうございます。ですが、千景様はまだ学生です。私の心配よりもご自身の心配をしてください。期末試験が近いのではありませんか?」
『それなら大丈夫よ。恥ずかしい点数なんてとらないから』
「結果を楽しみにしています。お土産を持って帰りますので楽しみにしていてください」
『……平蔵』
「なにか?」
『無事に戻ってきて』
「承知しました。それでは……」
通話を切る。
思いつめる千景が瞼の裏でちらつくようだが、これも仕事だ。深呼吸をして頬を叩けば気合が入る。彼女たちに恥じない仕事をしなければならない。
「これからが大変だな」
窓を開けて身を乗り出せば町の中心部が見える。
そこには目指す場所があるはずだ。
「ヘイゾー、起きてる? ご飯食べましょうよ!」
ドアをガンガン叩くのは裂海。
彼女がいればこそ見知らぬ国や町でも安心していられる。
「ああ、今行くよ」
まずは食事、それから軽い打ち合わせ。
仕事は始まったばかりだ。
◆
そこは最も近い欧州。
帝都から三時間のフライトを楽しめば、もはや東洋の面影はない。共和国の直上ともいえる地域なのに街の外観には驚くほど共通点が少ないからだ。
白亜の外壁にきらびやかな装飾の家々、直線を多用した建築様式、シンメトリックに代表される権威的な造りはいかにも欧州を思わせ、明らかな文化の違いを実感させてくれた。
街の外観も違えば、歩いている人間も違う。肌の色が日本や共和国とは明らかに異なり真っ白だ。高い鼻に掘りの深い顔立ち、窪んだ眼窩には青い目がある。髪の色も鮮やかな赤髪から金髪、ブラウンヘアーや黒髪と多種多様、港町ということもあるのだろうが色々な人たちが行き交っている。
日本とは色々なものが違う。
特殊レンズメーカーの担当者と打ち合わせを兼ねて入ったカフェではテーブルごとにウエイターが決まっていて、給仕から支払いまでを席で済ませる。クレジットカードはダメ、すべて現金のみ、それもルーブルだけではなく円やドルも使うことができるらしい。
町の中心部を歩けば昼間だというのに街娼が立ち、物売りが歩いている。学生の頃に欧州をいくつか回ったことがあるが、それらと似たような印象だ。
もう一つ気付いたのは軍人の多さ。ウラジオストクは軍港、不凍港であり共和国や日本とも近いこの場所は極東における軍事拠点も兼ねているのだろう、やたらと目に入った。
「独特の雰囲気だな」
「そうかしら? 東アジアの軍港もこんな感じよ。バンコクやクアラルンプールでも同じような光景を見ることができるわ」
「港町は総じてこのような雰囲気です。世界中からたくさんの人や物資が届けられますから、独自の文化風習があります」
「……なるほど」
さすが海外経験も豊富な裂海は慣れた様子で、特殊レンズメーカーの担当も解説をしながら先導してくれる。仕事での海外は久しぶりなので勉強になることが多い。
「あそこです」
担当者が指さす先には新しめの鉄筋コンクリートでできた大きなビルがある。そこは町の中心部、行政施設が集中する場所にあった。
「準備はよろしいですか?」
銀縁眼鏡を輝かせる担当者に、裂海と顔を合わせてから頷く。
俺の両手にはたくさんのお土産、会話のシミュレートも念入りにした。裂海との打ち合わせも問題ない。あとはやるだけだ。
「結構です。では、参りましょう」
ビルの入り口に立てば、職員と思しき男性がドアを開ける。
日本と違い、開いているわけではないらしい。身分証明書を提示し、顔と名前の照会をされる。今の俺は営業部の新人、裂海は来年採用予定の大学生という身分になっている。そのことを答えてからようやく入館を許された。
「こちらへどうぞ」
廊下を歩き、階段を上って応接室へと通される。
セキュリティは監視カメラこそないものの、途中には警備員が何人も立ち、こちらを注視しているのが分かった。何かあれば全館に配置されている警備員たちが飛んでくるだろう。
「ねぇヘイゾー、結構凄いところね」
「ああ。この会社はロマノフ国営、統一エネルギー機構の子会社だ。相応の警備体制が必要なんだろう」
「国営企業の傘下ってことは公務員?」
「形態的には第三セクターに近いらしい。でも職員は公務員に近い扱いを受けているし、事業がうまくいけばすぐに吸収されるということだろうな」
「それだけ注力している分野ってことね」
「ロマノフはほとんどが永久凍土で掘ることが難しい。これからを考えれば海の資源も重要になってくる」
資源はあるだけいい。
中東地域をみていれば、莫大な石油を背景に世界規模で経済に介入してくる。現代社会において必要不可欠な物資が採れるというだけで国としての地位まで変わる。
「ふぅん、陸がダメなら海なんだ。この辺の海って凍らないの?」
「流氷は流れてくるみたいだが、完全には凍らない。だからロマノフにとっても重要な拠点で、これだけ整備された街並みがあるんだろう」
「確かにここは欧州と比べても見劣りしないわ」
裂海と囁きあう。
このくらいの声量なら盗聴器に拾われる心配もない。
「お二人とも、そろそろですよ」
足音を聞きつけた担当者が合図を送ってくれる。
裂海と一緒に背筋を伸ばし、入ってきた白衣の研究者に頭を下げた。
「メンデーレフさん、ご無沙汰をしております」
「こちらこそ、ツキハシさんもお変わりないようですね」
二人が握手を交わし、こちらに目を向けてくる。
「そちらは?」
「弊社の新人です。今年採用になった榊と、来年採用予定の裂海です。二人ともご挨拶をしなさい」
「ご紹介に預かりました榊です。お会いできて光栄です」
「同じく裂海です。よろしくお願いします」
揃って頭を下げる。
握手は親しくならないとしないので、メンデーレフと呼ばれた男性も頷くだけだ。
「榊は元々商社に勤めておりました。今回は営業の勉強として同行させています。裂海はまだ大学生ですが、少し早い実地研修といったところです」
「担当が変わるわけではない?」
「勿論です。私が御社の担当ですよ」
担当の変更というのはかなりのこと。担当が変わればスタンスが変わる。親密にもなれば疎遠もあり得る。取引先としては死活問題だろう。
「そうですか。それは良かった。御社の製品はこの計画だけでなく、我が国にとっても重要なものですから、心配しておりました」
メンデーレフは安堵した様子で座るよう勧めてくる。
担当者である月橋が座り、俺たちは後ろで立ったまま。日本では全員が座るが、欧米や海外では立っていることもある。
「ご安心ください。弊社は事前通告もなく供給を打ち切ったりはしません」
「でしたら、この時期に訪問というのは……」
「この時期だからです」
月橋が体をわずかに前かがみにして、ぐっと押し迫る。
一度は安心させ、核心に迫るとはなかなかのやり手だ。
「弊社としても突然の計画中止は手痛い。御社が国営の子会社であることは重々承知しておりますが、ただ中止といわれてもこのままでは上に説明もできない」
「……そうでしょうな」
「供給が滞れば年間の計画にも支障が出ます。そうなるとこのままでの価格でお届けすることができなくなる」
「値上げ、ということでしょうか?」
「御社に収めているものは特注品、それもロットを増やすことで単価を抑えているものです。安定的に供給できなければ単価の維持はできません」
「……そ、それは重々承知です」
「値上げで済めばまだいい、これが御社だけではなく統一エネルギー機構でも起こりうる事態だと判断されれば、しわ寄せがどこに来るかお分かりになるでしょう?」
月橋が迫る。
年齢は四〇歳を間近に控えているらしいが、切り込み方といい話し方といい堂に入っている。彼に劣っているとは思わないが、元営業としては疼くところだ。
「少しでも事情がお伺いできれば私も上へ談判ができます。ですが、現状では難しい。如何でしょう、メンデーレフさんの裁量で構いません、お話しいただけませんか?」
「……困りましたね」
白髪の混じった頭に口髭を蓄えた、五〇に迫ろうかというメンデーレフが目を泳がせる。
担当者、月橋のことを信頼しているのだろう、言葉や態度に迷いが見える。しかし、こうなっては時間の問題だ。
「正直いえば、私たちも戸惑っています。計画の中止も上からの通達でしかありません」
諦めたのか内心を吐露する。
メンデーレフの口調から上の判断に異を唱えることはできないらしい。
「理由などは聞いていないのですか?」
「はい。これといって明確なものはありません。半年前、突然打ち切るよう連絡があっただけなのです」
「半年前……」
メンデーレフと月橋も首を捻るなかで、裂海と俺には思い当たることがあった。半年前といえばロマノフ人が稚内の軍施設に亡命したころと一致する。おそらく、この時期にロマノフ内部で何かが起こったのだろう。それを月橋に伝えるべく指でソファーを叩いた。
「上からの通達ということは統一エネルギー機構からですか?」
「直接の指令はそうでしょう。ですが、方々話を聞くともっと上からではないかと思ってしまいます」
「もっと上、というと?」
声低く尋ねる月橋にメンデーレフが逡巡する。
この場で、これ以上の追及は難しそうなので再びソファーを叩けば月橋が視線を投げてくる。打ち合わせ通り肩を竦めれば頷いてくれた。
「失礼、踏み込み過ぎたようですね」
「申し訳ない」
俯くメンデーレフに月橋が事情を汲んだように頷く。
「メンデーレフさん、こうしたことにはなりましたが、私たちの関係はまだ壊れていません。何か動きがあればすぐにご連絡いただきたい」
「それは有難いのですが……」
「大丈夫です。今回の件は私が何とかします。ですから、再開の兆しがあればすぐにご一報いただきたいのです」
「あ、ありがとうございます」
「いえ、こういう時は持ちつ持たれつです。今回も些少ではありますが、お土産もお持ちしました。少しでも何かの助けになれば幸いです」
「ツキハシさん、ありがとうございます」
メンデーレフの顔にようやく笑顔が戻る。
裂海に肘で小突かれながら深呼吸をする。さぁ、勝負はここからだ。