九話
サラリーマンの頃は出張が嫌いではなかった。
見知らぬ土地、見知らぬ人に出会うことは嫌いではなかったし、それだけ人脈が作れると思っていた。今考えれば、会社を笠に着ての押し売りでしかなく、顔から火が出るほど恥ずかしい。
過去を消すことはできず、これからを改めることしかできないと自らを省みながら窓の外、遠くに見える大陸を睨む。
大陸のお姫様と武官の対面、騎士王の側近らしいロメロティアに機密書類を渡してから、会社員に扮してロマノフ行の飛行機に乗った。今はロマノフを目指し、空の旅を満喫している。
「おっでかけおっでかけ!」
隣の席では裂海優呼が分厚い窓ガラスの向こうに広がる雲の平原にテンションを上げている。遠足気分なのか手にはチョコレートが何枚も握られ、片っ端から胃の中へ送り込んでいた。
俺の視線に気付き、少し考えてチョコレートを一枚差し出してくる。
「食べる?」
「いらない」
「そう? おいしいのよ!」
頬張って見せてくれるのだが、今はとてもじゃないけれど食欲がわかなかった。
明日に控える交渉の席を前に気持ちが逸る。飛行機に搭乗してからというもの手帳を見ては会話の想定を繰り返していた。
「ねぇねぇ、さっきからなにしてんの?」
「なにといわれても会話のシミュレートだよ」
ぶつぶつと独り言を繰り返していると裂海が顔を覗き込んでくる。
「シミュレート? 明日の面談で主に話すのは特殊レンズメーカーの人なんでしょう? ヘイゾーは質問を挟むくらいだって言ってたじゃない。それなのにシミュレートするの?」
裂海の言う通り、主に話すのは担当者。話題を振るのは担当者の役割だ。俺は名目上、新人として顔見せのために同行するので質問を挟む程度しか喋れない。しかし、この質問が重要だ。短く、適切に、具体的に話を聞きだす必要がある。
「そこが難しいんだよ。どんな会話の流れからもロマノフの内情に関わる質問に巻き込む必要があるからな」
「それってちょっと不自然じゃない?」
「そこを何とかするのが腕の見せ所だ」
俺の言葉に、裂海は何枚目か分からないチョコレートを噛み砕き、唇を尖らせる。
「じゃあ、なおさら今考える必要はないんじゃない? ヘイゾーのことだからある程度の想定は済んでいるんでしょう?」
「勿論だ」
「だったらこれ以上は無駄よ。気負ったら負けなんだから、あとはどっしり構えていなさい。心が忙しないと態度に出るわ」
正論に面を食らう。まさか、裂海から諭されるとは思いもしない。
まじまじと顔を覗き込めばにっこりと笑う。
「どう見直した?」
「お前のことは尊敬しているよ。出会ったころからな」
「お世辞は通じないわ。それに、敬っているというなら態度で示しなさいよ」
「示しているよ。俺としては最大限だ」
「どこがよ!」
犬歯を露わにして怒る。
裂海は喜怒哀楽が分かりやすいからありがたい。
「なぁ、優呼は緊張とかしないのか?」
「しないわ!」
相変わらずの即答。
まぁ、こいつらしいといえばらしい。
「だいたい、しても仕方ないじゃない。現地でやることは決まっているんだし、周りも御膳立てもしてくれる。これが急に決まったことなら必死に考えるけれど、そうではないでしょう」
「……まぁな」
「だったらどっかり構えていなさい! いつもの太々しさはどうしたのよ」
「太々しいってのは否定したいが、自分から言い出した手前、手ぶらで帰るわけにもいかないから、成果は欲しいところだ」
「あのね、ヘイゾーが何を求めているのか知らないけれど、世の中はそんなに簡単じゃないの。誰しも望む成果と結果が得られたら苦労はない。今回だってヘイゾーは新人という立場なんだから、あんまり出過ぎた真似はしないの!」
至極真っ当な意見にぐうの音もでない。
こいつは時々真っ当なことをいうから困る。
「……分かっているよ」
「だったらその手帳をしまいなさい。たくさん食べて、たくさん寝て、万全の体調で臨む方がいいわ。チョコレート食べなさいよ」
「いや、お前ほどは食べれないよ」
いわれた通り手帳を閉じて胸ポケットに入れ、食べかけのチョコレートを受け取る。
「これでいいか?」
「八〇点。いいけれど、十分とは言い難いわ」
「あとの二〇点は?」
「やっぱりこれでしょう」
裂海が満面の笑みを浮かべて自らの太ももを叩くのを目の当たりにして、頭が痛くなった。
ここはエコノミー席、満席とは言わないまでも結構な人数がいる。そんな中で膝枕をすれば結果がどうなるかは見えていた。
「なによ、私が折角癒してあげようっていうのに!」
「意見は聞いたが、どうして癒す必要があるんだ?」
「だって、殿下が言ってたもの! ヘイゾーには膝枕が絶対必要だって!」
「……勘弁してくれ」
「ねーねー、膝枕は?」
「知らん」
「ひーざーまーくーらー!」
「……」
もう騒いでほしくない。
無視をしていればそのうち諦めるだろうと高をくくっていると、
「もう、しょうがないわね!」
「はっ?」
腕を引っ張られ、バランスを崩したところで腰ごと倒される。
気が付けば裂海の顔が上にあった。
「ヘイゾーが私に逆らおうなんて、一〇年早いわ」
「逆らってない。拒否しているだけだ」
「そんなのないわ!」
頬を膨らませ強引に頭を撫でられる。
周囲から囁くような笑い声と視線が集中するのが分かる。一刻も早くこの状況から脱したいのだが、
「なによ、その反抗的な目は?」
「いえ、別に……」
どうにも、早めの解決は難しそうだ。
「あとは何だっけ?」
「もういい。このままでいいから……」
裂海が首を傾げる。
客室乗務員が口元を隠しながら目配せをしていることに気付き、諦めがついてしまった。
「じゃあせめてマッサージしてあげる。凝っているところはないですか?」
「好きにしてくれ」
「はーい!」
マッサージとはいいつつも、頬や顎、唇から瞼までを触られる。
向けられる無邪気さに辟易しながら、飛行機が早く到着するのを祈るばかりだった。
◆
彼女はそわそわしていた。
御所の中枢ともいうべき日桜殿下の執務室の中にあっても心はどこかに行っている。
近衛副長という立場上は落ち着いているようにみせていても、細部までは誤魔化しきれない。指先は書類の縁をなぞっているのに視線は泳いでいる。
本人は深呼吸と言い張るため息も何度目か知れない。人一人、それも大した役職があるわけでもない人物がいないだけでこれだ。
「……」
今もちらちらと時計を気にして、仕事が全く進んでいない。
制服の胸ポケットが膨らんでいるのは普段はほとんど持ち歩かないスマートフォンが入っているからだ。彼が戻ってくるまであのポジションなのだろうと思うと笑ってしまう。
「副長、少しは落ち着いたらいかがですか?」
「! な、なんのことだ?」
跳ね上がる肩、回らない口が動揺を物語っている。
これほどまでにあからさまだと指摘をする気にもならない。
「飛行機はすでに出発しています。今頃は本州を抜けて日本海洋上でしょう。我々にできることはありません」
「分かっている」
「でしたら仕事に集中なさってください。先ほどから進んでおりません」
「んん……」
露骨な上司の姿に、かえって冷静になれる自分がいることに立花直虎は気付いていた。
こうなった以上は同行する裂海優呼に任せるしかないと思うのだが、鷹司霧姫はそうではないらしい。なにかあれば飛んでいきそうな感じさえする。
「……♪」
部下の一挙手一投足に気が気ではない上司とは対照的に、鼻歌交じりで執務をこなす主君がいる。上機嫌で筆を走らせつつ、時折目を向けるのは机の端に置かれたスマートフォン。きっと出したメールの返事を待っているのだろう。
「……まだかな」
主君も感情は細部に表れている。足は規則正しいリズムを刻み、顔には微笑みすらある。不機嫌顔で胸ポケットを触る上司とは実に対照的な様子だ。
「難しい顔をされていますね」
話しかけてきたのは主君の付き人であり、同僚でもある女の子。異国の地からやってきて間もないのに気配りと心遣いは感嘆させられる。
「エレオノーレ殿はどう思っていらっしゃるのですか?」
「直虎様、私のことはノーラとお呼びください、と前にも申しました」
「失礼。それではノーラ殿、貴殿は如何様にお考えか?」
改めて問いただせば異国の元王女は主君とまた違った笑みを湛え、空を見る。その横顔には憂いとも寂しさとも違う何かが浮かんでいた。
「心配は、心配です。ですが……期待の方が大きいのです。あの方なら、きっと大きな成果を持ってきてくださる。私はそう確信しています」
「……左様か」
聞くまでもない。
この子もまた熱病に罹っているのだろう。同じ帝都の地で、今は勉学に勤しむ京都の少女も同じことを考えているに違いない。会わずとも想像がついてしまう横顔に、直虎は深いため息をついた。
「どうかしましたか?」
「……いえ、なんでもありません」
冷静でいよう、せめて覆轍は踏むまい、女剣士はそう心に誓うのだった。
◆
日本海の上空で榊平蔵が同僚の気遣いに身を任せ、御所では色々な思惑が行き交う中、渋谷区松濤にある城山英雄の邸宅では白髪頭たちが一堂に会していた。
総裁選で勝利し、次期首相の座を手にした家主を筆頭に、幹事長候補となった外務大臣の鈴木、法務大臣の川島が揃っている。三人は座卓を前に茶を啜り、各々が届けられた、あるいは作られたばかりの書類に目を通していた。
「ふぅむ」
最年長である城山が唸って顎をさする。外務大臣が顔を顰めて付箋を貼る横で、法務大臣が難しい顔で写真を覗き込む。これからの政局、世界情勢を踏まえると読まないわけにはいかないものばかりだ。
「これはまた、なんとも困ったね」
最初に読み終えた城山が苦い顔をする。
「ロマノフ内部の争いとは、共和国への影響力を考えますと前途多難です」
「全くだ。これでは内閣を新しくしても舵取りを違えれば支持率の低下に直結しそうですな」
若い二人の意見に最年長は薄くなった頭を撫で、ため息をついた。
「ふっ、前途多難に迷いの舵取り……か」
「先生?」
「どうかなさいましたか?」
「いや、すまない。私たちもようやくこんな話ができるようになったと思うと嬉しくてね」
老政治家の目には憂いと同時に少年にも似た純粋な喜びがある。
懐から取り出した古めかしい懐中時計を一瞥し、磨ガラスの向こうにある空に目を向けた。
「若者が働いているのだ。我々もただ待っているだけ、というのは芸がない」
「と、申されますと?」
「策がおありになるのですね」
「さほど立派な策と呼べるほど立派なものではないがね。とりあえず鈴木はもう一度欧州に渡ってほしい。ドイツのベルンハルト首相、スペイン外相イオニア大臣に探りをいれてみたいんだ」
「それは構いませんが、そうすんなりいくでしょうか?」
派閥長の言葉に鈴木は懐疑的だ。
「心配しなくていい。彼らとは古くから付き合いもある。それに、お土産も用意するから、彼ら個人の伝手も見てくるといい」
「土産を……承知しました」
「頼むよ。それから、川島君には国内の掌握を頼みたい。警察関係者と懇意と聞いたけれど、彼らにお土産は通じるかな?」
二人のやりとりから城山の土産がなんであるかを察した川島が一瞬考えるものの、
「最近は警察もクリーンなイメージを求められますが、内情は火の車です。直接は難しいでしょうが、迂回すれば問題ありません。そう、彼らの再就職先か保養施設あたりに流すことができればスムーズに事が運ぶでしょう」
「頼めるかな? 君にはもっと活躍してほしいし、できると思っているんだよ」
「! 承ります」
待っていましたとばかりに次期総裁の吊るす餌に食いつく。
これで次の内閣でも大臣という地位は約束されたも同然だろう。
「さて、あとは彼の活躍次第かな」
二人の返答に城山は頷き、視線を再び空に向けるのだった。




