七話
なにかが起こりつつある。
実態の見えない、漠然としたなにかが忍び寄ってくる。そんな予感さえしてしまう。
城山英雄から渡された資料を読むほど、そう思えてならない。外務大臣や白凱浬、そして今回もたらされた情報の向こうに何かがいることは間違いなかった。
「これは……遠からず表面化する」
独り言が鼓膜に焼き付いて頭から離れない。直感、虫の知らせに近いものに突き動かされ、パソコンに向かっていた。気が付けばテキストがズラリと並び、状況の分析を始めようとしている自分がいる。
脳裏を掠めるのは幼い笑顔。日本に降りかかる火の粉は殿下への禍そのもの。止められはしないのだろうが、できるだけの対応策を講じる必要があった。
「行くしかない」
いつの間にか腹が決まり、プリントアウトした書類を手に上司の元へ向かう。
「出張に行かせてください」
単刀直入に切り出せば、鬼の副長こと鷹司霧姫は溜息をついた。傍らには秘書役を務める直虎さんが一緒になって資料を覗き込む。
「出張か」
久しぶりに顔を合わせた鷹司は相変わらずの不機嫌顔。色の戻らない髪に眉間の皺、目の下には薄く隈がある。きっと寝不足なのだろう。
「城山先生からもお話が来ているかと思いますが……」
俺の言葉に、直虎さんがどこからか取り出した書類の束を置く。さすが辣腕政治家、仕事が早くて助かる。
「昨晩これと一緒に連絡があった。貴様を一週間ほど貸してほしい、とな」
「私も先生から伺いました。看過すれば……いえ、このままでは必ず問題は表面化し、影響を及ぼすでしょう。そうなってからでは遅いと考えます」
「その行先がロマノフ、ウラジオストクでの視察。ブリュッセルにも寄るらしいが、欧州に何の用だ?」
「ウラジオストクでは海洋開発機構の職員として参ります。あくまで同行という形ですが、何かしらの情報が得られたら、と考えています。ブリュッセルには騎士王が滞在中とのことですので、直接顔を合わせることで得られるものもあるのではないか、と思っております」
「ふう」
鷹司が眉間を揉む。
逡巡の後に向けられた眼差しは鋭い。
「私は貴様が行く必要性を感じていない。公安調査庁や警察の特殊部隊から選抜すれば事足りる」
「私も同意見です」
「ならば、なぜ貴様が行く」
鷹司が溜息をつき、傍らの直虎さんは目を伏せていた。
二人の言い分も理解できる。
「国内にいるだけでは見えないものがあります。それに、今件は近衛にとっても転機となる問題です。私たちは公安調査庁や警察、軍、外務省と同じ目線が必要です。同じ問題を共有し、危機感を抱くことこそ、これからのためになるのではないでしょうか」
白凱浬の事件を通じて、これまでギクシャクしていた軍や警察、各組織との関係は改善しつつある。伝家の宝刀と揶揄され、自らを特別であると自負する近衛も、日進月歩する兵器開発からすれば未来は怪しい。だとしたら、考えを共有し、最善の場面で使われるような準備が必要だ。孤立しては自滅の道を歩みかねない。
「貴様がその第一歩となる、と?」
「私は元サラリーマンです。生来の武士である近衛の面々よりは上手く付き合えると思っています」
「貴様だけが上手くいっても意味がない。もし、なにかあった場合はどうする? その後が続かない」
「失敗を前提にするとことは進みません」
「立場上、最悪の事態を想定するのも私の仕事だ」
今日の鷹司はなかなか折れてくれない。
もう少し柔軟な対応をしてくれると踏んだのだが、虫の居所が悪いのだろうか。
「でしたらもう一人の同行を許可してください。近衛からもう一人、私の護衛として連れていきます」
「……」
「……」
鷹司が眉を顰めてから直虎さんを見る。美貌の女剣士は困ったような顔をしてから上司に耳打ちをした。
こちらには聞こえないやり取りがしばらく続き、我らが副長は何度目かの溜息をつくと、
「分かった。許可しよう」
「ありがとうございます」
ようやく折れてくれた。
心なしか、直虎さんにも疲れが見えるのは気のせいではないのかもしれない。
「ただし、同行者はこちらで決めた。優呼を連れていけ」
「……決めた?」
鷹司の言葉に一瞬思考が止まる。
決めた、とはここまでの会話を予想していたことになる。
「……どういうことでしょう?」
「貴様の考えなどすぐわかる」
「副長にとって、このやり取りも想定内ということですか」
「そういうことだ。文句があるのか?」
「いえ、ご慧眼感服いたしました」
読まれていたのは意外ではあるものの、鷹司も同じ未来を描いていたことに驚きと安堵を覚えてしまう。それに、裂海も絶妙な人選といえる。実力は申し分なく、俺自身への楔という意味合いもあるのだろう。
「いいか、短絡的な行動は避けろ。国外ではバックアップもない。どうなるか分からないからな」
「承知しました」
「本当に分かっているのか?」
「疑われるほどではないと思いますが……」
懐疑的な視線を向けられる。
いくつかの前科があるのでこれ以上の抗弁は信用低下を招くので控えたいところだ。
「あとは……殿下だ」
「はい?」
鷹司が眉間の皺を一層深くして、こちらを睨む。
まぁ、理由は分からなくもないが、杞憂ではなかろうか。
「副長の懸念も分かりますが、期間は一週間です。それほど心配をされることはないと思いますが……」
「榊殿、一つよろしいですか?」
「は、はい?」
これまで静かだった直虎さんまで睨んでくる。
普段がおっとりとしているだけに妙な迫力があって怖い。
「日桜殿下に万が一があってはいけません。京都での件もありました。事情を話さず行かれるのは道理に反します」
「いえ、話さないわけではありません。ですが、それほど問題視することでもないかと……」
「貴様の意見も分かる。我らもそうであったならどんなに楽か……。しかし、現状はそうなっていない。貴様に何かあれば殿下は心を痛めるだろう。それが、どんな結果につながるか、分からないとはいわせない」
「……私にどうしろというのですか?」
「今すぐ事情を説明しろ」
「すぐですか?」
「そうだ。どうせ貴様は理由を作って大した説明もせず行くだろう。それがどんなに罪深いことかを自覚していない」
「榊殿、日桜殿下の御心痛をお察しいただきたい。どうか、私からも重ねてお願いを申し上げる」
「直虎さんまで……」
まるで北風と太陽だ。
硬軟織り交ぜられては逃げ道がない。
「分かりました。今から行きます」
「そうしろ。くれぐれも優しく、最大級の敬意をもって接するんだ」
「は、はぁ、それでは失礼します」
敬礼をして部屋を出る。
◆
物事には予兆がある。
嵐の前の静けさであったり、動植物の異変であったりと様々だ。肝心なのはそれに気付けるかどうかにある。
「出張に行かせてください」
部下からの申し出に鷹司霧姫は頭を抱えたい衝動を必死にこらえ、努めて冷静に理由を問う。しかし、意思は強固、曲げさせることはできても止めさせることは難しい。
「まったく、あの馬鹿は……」
「城山英雄からの連絡からわずか半日、これほどまでに早いとは思いませんでした」
「単純に焚き付けられたわけではないのだろう。燻ぶっていたものに火が付いた、というところか」
「野火のようですね」
「風は吹いていたのだろうから回りは早かったのだろう」
どちらかともなく溜息をつく。
昨晩、城山英雄からの連絡を受けた時、鷹司自身まさかと思ったが、準備をして正解だった。
「副長の苦労が手に取るようです。」
「ヤツの上役は苦労する。なにせ加減を知らないからな」
「覚えておきます」
「……直虎、そう気に病むな。決まったことだ」
「裂海の娘は人生経験そのものが浅く、洞察力の割にお人好しです。腕は立ちますが、柔軟さはありません」
「我らの問題は選択肢の少なさだ。能力の都合上、偏らざるをえない。それでもあのバカのいうことを聴くだけマシだ。あとは穏便に済んでくれることを祈るだけだ」
二人に出来ることは部下を止めることではなく軌道修正のみ。下手に押さえつければ暴走しかねない。騎士王とエレオノーレの一件、あれの再来だけは避けたかった。
「気が重いです」
「いうな」
何度目か分からない溜息が重なる。
二人の悩みは当分尽きそうにない。
◆
時刻は午前一〇時、御所へと顔を出せば、公務をひと段落させた殿下が小休止を取っているところだった。
最近のお気に入りだという国産の紅茶に、プレッツェルにチョコレートコーティングした菓子をリスのように齧りながら、のほほんとした顔をしている。一緒のテーブルに座るノーラとじゃれ合っては笑顔を見せる。
「殿下、お話があります」
そう切り出してもチョコレートで唇を濡らしながら首を傾げるだけ。この様子だと事前に打ち明ける必要も感じない。
「……しゅっちょう、ですか?」
「はい。ウラジオストクとブリュッセルに……」
「……!」
話の途中で瞳が大きく開き、思案するように眉根を寄せる。
何かを察したノーラが侍従達に指示を出し、彼らを退席させた。
「日桜殿下、どうなさいましたか?」
「……さかきのしゅっちょう、まえといっしょ、です」
「前、とは?」
「……きょうとのとき、です」
「千景さんの?」
殿下とノーラは顔を見合わせて頷く。ノーラは京都出向のことを知っているらしい。
こういう場合、すぐに否定するとかえって不信感がでる。言いたいだけ言わせてからがいい。
どう順序立てて説明すればよいかを考えていると、ちび殿下が袖を引く。
「……だれかの、ごえい、ですか?」
「いいえ殿下、今回は単なる同行です。私自身が外の世界を見てきたいと思い、申し出ました。期間も一週間ほど、すぐに戻ります」
「……いっしゅうかん」
殿下が顔を伏せる。
楽しげだった休憩の時間を不安で塗り固めてしまうのは心苦しい。
どうしたものかと悩んでいると、いつの間にか隣にいたノーラに脇腹を小突かれる。
「ヘイゾウさん、ここで甲斐性をみせなければどこで見せるのですか?」
「か、甲斐性?」
「もう、男の人はいつまで経っても子供です。女性を安心させるのは殿方の温もりと相場が決まっています」
呆れ顔のまま背中を押される。
「……さかき」
「ああもう、分かりました。こちらへどうぞ」
「……!」
腕を広げれば、わずかに戸惑いながらも抱き着いてくる。
肩が震えているのは不安だからだろう。京都でのこと、離れていた期間と葉山での殿下が浮かび、軽視した自分を恥じた。
「……いっしゅうかん、ほんとうですか?」
「本当です。城山先生のバックアップもありますし、優呼も一緒です。そこまで心配される必要はありません」
「……しんぱい、します。まえといっしょは、いやです」
「分かっています」
「……ばか」
シャツを引っ張られ、額を胸に押し付けてくる。
「今回のことは私だけではなく近衛や殿下にも関わることです。この先を鑑みればどうしても必要になってきます。それだけはご理解ください」
「……さかきは、いつもとうとつ、です」
「それは謝りますが、前回は不可抗力でした。私だけに非があるわけではありません」
「……でんわ、してくれませんでした」
「それは……」
「……ちかげちゃんと、いちゃいちゃ、していました」
「していません。語弊があります」
「……ごしゅじんさま、だれですか?」
「日桜殿下です」
この不毛なやりとりがいつまで続くのだろう。
胃が痛くなってきたところで肩を叩かれる。
振り向くと、額に青筋を浮かべたノーラに戦慄する。
「それ以上はダメです」
小声で囁かれ、二の腕を抓られる。
これが凄まじく痛い。
「殿下、ヘイゾウさんも反省しています。お仕事ですから大変なこともあるでしょう」
「……のーらちゃん、いいかんがえ、ありますか?」
「ヘイゾウさんには毎日定時連絡をしてもらえばいいのです。朝と夜、起きた時とお休みの前でしたら無理がありません」
「……さかき、いいですか?」
揺れる瞳に言葉が詰まる。
これを否定するのは難儀だ。
「ですが、時差などを考えると……」
「そこは妥協してください」
囁きと一緒に痛みもやってくる。
もう頷くしかない。
「分かりました。朝晩の二回、ご連絡します」
「……やくそく、です」
「承知しました」
殿下がようやく笑顔に戻ってくれた。
しかし、
「二つ貸しです」
ノーラの言葉にも頷くしかない。
この場にいない千景が後で知ると思うと、彼女のフォローは必要だ。
「行く前の方が大変だな」
天井を仰ぐ。
せめてこの出張を多くの益があるものにしたい、そう思った一幕だった。