五話
忙しい毎日には潤いが必要だ。
心や肉体を癒し、活力を得るのはあくせく働く現代人にとって不可欠といえる。豆を挽き、時間をかけて淹れたコーヒーと過ごす時間は至福、のはずなのだが、
「苦い……。ちょっと焙煎が深すぎるわ」
隣に座る千景が淹れたコーヒーに眉根を寄せる。
彼女の好みは浅煎りで酸味や奥行きを持った複雑な味が好みのはずだ。苦さが先行するマンダリンはお気に召さないらしい。
「千景様、私の部屋にはこれしかありません。それに、お飲みになるならご自分のカップをご用意ください」
「私はこれが飲みたいの」
「……左様ですか」
困ったことに、元ご主人様は文句を言いつつも俺のカップから飲みたがる。別の器を用意しても拒まれてはお手上げだ。
最近の千景は休日になると朝早くからやってきて、日桜殿下とノーラが揃うまでの間、俺の部屋で編み物をしている。一度、殿下の寝所へ直接行ってはどうかと提案したのだが睨まれてしまった。
深く考えると頭痛がしてきそうなので仕事に集中する。
騎士王から託された写真の分析を試みているのだが、専門家ではないのでかなり難しい。先ずは場所の特定を、と植生から調べても葉っぱ一枚の特定に半日以上かかっている。やはり、鷹司に相談し財閥の調査機関を使わせてもらおうか悩んでいると千景が身動ぎをする。
「機密ですので見ないでくださいね」
「興味ないわ」
本当に、まったく興味なさそうな素振りでカップに手を伸ばし、冷めきったコーヒーを飲んでは顰め面をする。
「淹れなおしてお飲みになれば……」
「私はこれが飲みたいの」
どうにも疲れるやり取りだ。
この状態をどうしようかと考えあぐねていると入口のドアがノックされ、小さな頭が二つ覗く。
「おはようございます。ヘイゾウさん、千景さん」
「……おはようございます」
休日の来訪者は最初に千景、続いて日桜殿下とノーラ。
後からやってきた二人は自分のポジションへと移動する。俺の右側に陣取る千景、左腕に抱き着くノーラ、膝の上に乗っかる殿下というのが最近のスタイル。
「ヘイゾウさんは今日もお仕事ですか?」
「そうだね。機密情報だから見ても口外してはダメだよ」
「はい」
返事をしても彼女が画面を見ることはない。
こういう時のノーラは素直だ。時折目の輝きが尋常ではないことがあるが、それ以外は大人しく、物分かりが良いので助かる。
「……にがい、です」
ノーラと話している隙に、ちび殿下がテーブルの上にあったコーヒーを飲み、顔を顰めて文字通りの渋面になる。お願いだから俺のカップから飲むのを止めてほしい。
「殿下、この時間にお飲みになると夜眠れなくなりますよ」
「……だいじょうぶ、です」
「それが本当ならどんなによろしいことか」
ちび殿下は身長が伸びたとはいえ、未だ凹凸のない胸を張る。
カフェインの効果は成人でも服用から約五時間にも及ぶ。体の小さいちび殿下ならもう少し必要になるだろう。
尚も一口含もうとするので取り上げた。これ以上は明日に影響してしまう。
「いけません」
「……いじわる、です」
「夜眠れなくなります。明日の午前中は公務もありますからお控えください」
「……わたしも、おおきく、なりました」
「二センチ程度では足りません。体重ももう少し増やしていただかないと、冬になったらまた風邪を引いてしまいます」
「……なりません」
小さな、膨らんだ頬を引っ張るとちび殿下も手を伸ばし、俺の頬を触る。
「殿下、御戯れはお止しになってください」
「……おかえし、です」
二人で不毛なやりとりをしていると千景が殿下に抱き着き、ノーラが俺の首に手を回した。
「お二人とも、私と千景さんの前でこれ以上は許しません」
「ノ、ノーラ?」
「殿下、接触が過ぎます。私も我慢しているのに……」
「……ちかげちゃん、こわい、です」
目付きの鋭くなった二人に気圧され、殿下と一緒に諸手を上げる。
このあとをどうしようか考えあぐねていると、パソコンから音声通話の着信音が鳴る。
表示はドイツ語、名前には見覚えがあるが、あまり良い予感はしない。
「誰?」
「仕事上の知り合いです」
「ナイアンテール・ダウケント。ドイツ系、それも女性の名前ですね」
「ノーラ、君という子は……」
「ナイアンテール?」
「……さかき、だれですか?」
千景は眉を顰め、殿下は疑いの眼差しを向けてくる。
まだ昼中だというのに疲れてきた。
今出るとややこしそうなのでお手上げ状態のまま通知が切れるのを待っていると、千景が通話ボタンを押してしまう。
画面上に現れたのは短めの黒髪に白い肌、緑に近い瞳の女性。
以前は声しか聴いていないので分からなかったが、こんな女性を侍らすあたり騎士王も面食いらしい。
『? なんだ、このちんまいのは?』
「ち……」
ちんまいの一言に千景の額に青筋が浮かぶ。が、そこは皇位継承者。
怒気を口に出すことなく画面の前に立ちはだかった。
「どこのどなたか存じませんが、人の身体的特徴を、悪しざまに口にするのはどうかと思います」
『はっ、どう見たって子供だろうが。引っ込んでろ。用があるのはヘイゾー・サカキだ』
「なっ! 用件なら私が伺います。私は彼の……」
「千景様、ストップです」
「平蔵!?」
燃え上がりそうだったので抱きかかえてソファーに座らせる。
文句を言いたそうにしていたので頭を撫でれば、戦意が鎮火したのか大人しくなる。困った元ご主人様だ。
「失礼しました。ナイアンテール殿、ご無沙汰をしております」
『へぇ、そんな顔をしているのか』
美人が不敵な笑みを浮かべる。
「私の顔に無作法があればお詫びします」
『違う。ジョージを殴ったヤツがどんなもんか見ておきたかっただけだ。こんな細面の優男だとは思わなかったがな』
「以前、お電話いただいたときにも同じことを伺いましたよ」
『ツラも見ておきたいだろ。会った時に困るからな』
会った時、という一言にちび三人がこちらを見る。
ナイアンテールが示唆するところは、昨年俺が騎士王の顔面を打ち抜いたことへの意趣返しなのだろうが、人生経験が少ないお子様たちは素直に受け取ってしまう。
「誰よ、この女。それに会ってどうするの?」
千景が耳を引っ張り、ノーラは頭頂部に噛みついてくる。殿下だけが「……おはなし、しますか?」と聞いてくるのが救いだ。俗世に染まってはいけない。
『お楽しみ中なら改めようか?』
「ご冗談を。私は問題ないのですが……」
千景やノーラはまだいいのだが、このままだと欧州に行ったとき、殿下とナイアンテールが顔を合わせた際に問題が生じる。
「ご挨拶をしておいた方が良さそうですね。私の誤解も解いておきたい」
『挨拶? 誤解?』
「まず、こちらはナイアンテール殿です。欧州の騎士団、昨年お世話になったジョルジオ殿の部下、という認識でよろしいですか?」
『間違ってはいない』
「ありがとうございます。つづきましてこちらにいらっしゃるのは朱膳寺千景様です。日本国の皇位継承権一九位を保持されています。千景様、ご挨拶をどうぞ」
「……千景です」
『皇族なのか』
足を踏まれながらではあるが渋々挨拶をする。
皇族と分かるとさすがのナイアンテールも背筋を伸ばし居住まいを正した。
「続きましてエレオノーレです。近衛に所属しております。部下ではありませんが同僚です」
「エレオノーレです。どうぞノーラとお呼びください」
身を屈めて肩の上に乗るノーラの顔を出させる。
誤解のないよう同僚という部分を強調したのに後頭部に爪をたてられてしまった。
「最後に、日桜殿下です。日本国全権代行大使、皇位継承権一位であらせられます」
『! 日桜殿下?』
さすがに驚きを隠せず画面越しでもわかるほど畏まる。
厳格な階級社会を持つ欧州騎士団ならではの反応だろう。
「……ひおう、です」
『ご、御尊顔を拝し恐悦至極です。ジョルジオ・エミリウス・ニールセン隷下騎士団序列三位、ナイアンテール・ダウケントにございます』
「……ないあんてーるどの、さきのけん、きしおうにはごはいりょいただきました」
『滅相もございません。殿下の御意思に触れる機会を得たことをジョルジオも喜んでいることでしょう』
「……どうか、これからもよしなに」
『恐縮です』
丁寧にお辞儀をする殿下に、さしもの女戦士も脂汗を浮かべている。
世界に冠たる日本の皇族、それも次代を担う第一皇女に頭を下げられてはそうならざるを得ない。
「それでは殿下、千景様、ノーラ、私はナイアンテール殿と仕事の打ち合わせがあります。寝室を使って結構ですのでしばらく二人にしてください」
「……! よいのですか?」
「あまり上掛けをくしゃくしゃにしないでください。あと、以前のように枕の中身を入れ替えるのもダメです」
「……だいじょうぶ、です」
「ノーラ、頼むよ」
「はい。お任せください」
普段は制限している寝室への立ち入りを許可すると、ちび殿下は嬉しそうだ。
あまりにもプライベートがないのでご遠慮いただいているのだが、今は仕方ないだろう。
「千景様」
「分かっているわ。私だって仕事の邪魔をするほど無粋ではないつもりよ」
「結構です」
三人が寝室へ入るのを確認するとナイアンテールへと向き直る。
疲労困憊なのにこれから話をしなければならないのが辛い。
「お待たせしました」
『心臓に悪い。どうして日桜殿下がお前の部屋にいるんだよ』
「そこは色々と複雑な事情がありまして……。側役を仰せつかっている弊害だと思ってください」
ナイアンテールもやや疲れた顔をしている。
突然国の最高権威に会えば気持ちもすり減るだろう。気勢を削ぐ、という意味ではこの上ない状況だった。騎士王にも同じ手を使おう。
『まぁいい。お前がジョージ宛に送ったメッセージの回答を預かった』
「騎士王殿はお忙しいのですか?」
『欧州議会から招集でベルギーに行っている。俺はフィンランドで留守番だ』
「フィンランド?」
頭の中の地図を呼び起こす。
フィンランドといえば地形的にロマノフと国境を接し、大都市サンクトペテルブルクが間近にある。そんな場所に騎士団の、それも序列三位がいるというのは緊張状態を意味している。
『冬の帝国に動きが見える。俺は偵察と、なにかあったときの対処要員だ』
「……不穏ですね」
『ああ、どうにもキナ臭い。ジョージが送った写真もそれに関わる。アレの出所もロマノフ内部だからな』
「これはいったい何を写したものですか?」
『俺たちも探っている最中だ。ジョージが渡したのはお前が何かを掴むと期待しての事らしい』
「……買被りをして頂くのは恐縮ですが、私にも分かりません」
『今すぐどうこう、ってわけじゃない。最近は日本も随分と手を伸ばしていると聞いた。手掛かりを掴んでくれることを期待する、っていってた』
騎士王とはある程度の情報を共有している。
白凱浬や共和国にいる旧皇帝の長子への働きかけをしてもらった。そんな状況で回されてきたとあってはどんな面倒事でも断れない。
『独自で動いているものもあるんだろ?』
「まだ調査段階です。必要とあらば正式な文章も用意しますが……」
『受け取りの問題だろう? それは大丈夫だ。近いうちに騎士団の一人が日本へ行く。件の、大陸の御姫様を迎えにな』
「では、こちらを経由して向かうのですね?」
『御姫様も白凱浬が日本にいるから会いたいんだろう。感動の再会を邪魔するほどジョージも野暮じゃない』
「分かりました。お迎えの方の名前と外見の特徴を教えてください」
『名前はロメロティア・イクタリア。金髪に碧目のお嬢様だ。見ればわかる』
「……承知しました」
ロメロティアという名前にも聞き覚えがある。
これまた嫌な予感しかしないが、仕事だと割り切ることにしよう。
『用件は以上だが……その……なんだ、日桜殿下のことは報告書に書かないようにする』
「お察し頂き感謝します。それでは……」
『じゃあな』
通信が切れ、力が抜けた。
外務省の次は欧州、厄介ごとばかりが舞い込む。どうにも無関係ではいられない。
「とりあえず賄賂の品でも考えるか」
寝室から聞こえる騒がしさも含め、問題は山積する一方だった。




