四話
澄み切った空気と、刺し貫くような殺気。
日中でさえ涼しさが優るようになった室内で一振りの刃と対峙する。
「……」
「……」
眼前には千人切を構える裂海優呼。
江戸時代、処刑用の刀として数多の首を刎ねた無銘の一振りは呪いを宿すと言われる。歴史にその名を遺す名刀は希代の剣士の手で輝きを増しているようだった。
音もなく裂海が動く。
間合いを一瞬にして詰め、愛刀を袈裟掛けに振り下す。
あまりに早すぎて、素人に毛が生えた程度の俺では視認できない。しかし、避けられないかといえばそうではない。
剣士としての裂海優呼は一撃必殺というシンプルな考えのなかで戦っている。小手先の技術は一切用いず、一太刀が命を奪う威力で向かってくる。見えないからといっても動作が予測できれば対処は可能だ。
「っ!」
袈裟掛けに心臓を狙った初撃を弾き返せば幼さを残した顔に喜悦が浮かぶ。
裂海は流された刀を胸元まで引き戻し、続けざまに突きを放ってくる。剣山と見まごうばかり、点ではなく面で迫ってくるような圧力に本能が悲鳴を上げて左手を差し出した。刹那で迫る切っ先を視力が捉え、皮膚に当たる感触が体を動かす。使える感覚を総動員して迎える。
「!」
「くっ……」
千人切の切っ先が掌を切り裂き、埋め込まれた複合装甲ごと断ち切って肘まで達する。
脳が灼けるような痛みを訴える中で、意識はすでに別の方向へと向かっていた。
そう、いくら剣山にも見える速さで迫ろうと元は一振りの刃。刺さってしまえは他は消える。
「こんどはこっちの番だ!」
息を吐いて切られた腕と脇腹で千人切を挟み、がっちりと固定する。裂海唯一の弱点は物理的な力の弱さ。速さはあっても一度運動エネルギーをゼロにされると次の動作までにわずかな隙が生まれる。
「もらった!」
こちらの刀を突きだす。
裂海の左肩、腕を繋ぐ一点を狙ったのに、刺さったのはあろうことか、華奢な首だった。
「!?」
目測を誤った。
早く手当てをしなければ、と思った瞬間、刺されたはずの裂海が笑う。
「はい三〇点」
声が別の方から聞こえてくる。
意味が分からず考えが分散して動きが止まった。
「どういう……うぶ!?」
腹部と顎が衝撃に揺さぶられ、目が天井を向く。
膝が崩れて道場の床に倒れたとき、見えたのは二人の裂海だった。
「これが……」
一人は筒袖を着ているのに、もう一人は肌を晒したまま首から血を流している。彼女の固有能力だと思い至ったときは全てが遅かった。
「惜しかったね」
筒袖を着た方が口を開き、素っ裸の方が手を振る。視界は一瞬にして暗転、それ以上見ることはできなかった。
これで気絶できたら楽なのに、冷たい水の洗礼が意識を引っ張り上げる。
「ぶはっ!」
「いつまで寝てんのよ。さっさと起きなさい」
ついでに踏まれる。
酷い師匠だ。
「はーい、今回の採点です。最初の一撃を返したのは合格、私の刀を止めたのも及第点。でも相手から目を逸らしたから、そこがマイナスよ。だから入れ替わっても気付かないの!」
「あれがお前の固有か……」
「見るのは二度目だっけ? そうよ、あれが私の固有、分裂ね」
「分裂……」
分身ではなく分裂。
二つの違いについて考えようとしたところで切られた腕に痛みが走る。
「あーあーもう、またこんなにして。自分から傷付きにいくなんてよほどバカなのね」
「やったのはお前だろう」
「あら、腕がないのが悪いのよ!」
あっけらかんと言われる。
まぁ、事実なので否定しない。
「はい、そこ持って」
「おいおい、あんまり触るなっ……いでででで!」
裂海はあろうことか埋まっている複合装甲をべりべりと引きはがす。すでに筋肉や骨と癒着しているので凄まじく痛いのだが彼女は気にしない。
「こんなものが入ってるから防御を疎かにするの。もうちょっとの我慢だから、しっかりしなさい」
「バカ、無理に引き剥がす……ああああああ!」
「はいおしまい。よく我慢できました」
裂海が複合装甲を床に投げ捨てる。
「心棒にしてる金属は骨と結着しているから、今回はこれだけね」
「……勘弁してくれ」
ぐったりしていると裂海が俺の腕に細い紐を巻き付け、固定していく。
「う~ん」
「……なんだよ、まだ文句があるのか?」
「違うわ。ヘイゾーの腕は上がってないけど、場慣れしたの。それが良いのか悪いのかって、思って」
「場慣れ?」
「そう! 刀も痛みも怖がらないし、平気で腕や足を差し出す。そういうのは格上の相手とやる時に大事になる。死中に活を求める、絶対に生きて帰るという意思の表れね」
思いがけないお褒めの言葉に面を喰らう。
どういう風の吹き回しかと凝視すれば額を叩かれてしまった。
「それは……良いことじゃないのか?」
「半分ね。う~ん、そうね、たとえ話なんだけれど、もし近衛が全滅してヘイゾー一人で殿下を守らなきゃいけなくなるとするじゃない?」
「なんだ、その妙なたとえ話は?」
「いいから聴くの! それで、手足を失った場合はもう殿下を守ることはできないでしょ? 最後の一人かも知れない護衛のヘイゾーが倒れたら、殿下がどうなるか……」
「そんなことは……」
「現代ではほとんどないといっていいわ。でも、可能性がゼロとも言い切れないでしょう?」
「…………犠牲を前提にしない戦い方をしろってことか?」
「剣術は先人たちが長い時間をかけて研鑽を重ね、たくさんの技法を編み出してきた。その中には最低限の動作で大勢と戦うためのものもある。手足を傷つけないやり方だって、相手を殺さない方法だってあるわ。ただがむしゃらに、後先を考えず戦うというのを改める時期だと思うの」
「前にも聞いたな」
「分からず屋には何度だって言ってやるわ」
話をする間に腕の裂傷は包帯で巻かれ、細かな傷は医療用の瞬間接着剤でふさがれる。
「はい、これでいいわ」
「手当なんて必要な……」
「バカ」
裂海の拳が腹筋に突き刺さる。
切られるよりも痛い。
「手当されるばかりじゃなくて、手当をする側になりなさい。自分がケガをした時、痛かったり苦しかった時を覚えておくのよ。そうしたら誰かが同じ状況だったら助けてあげられるわ」
「……そうか」
「なによ、文句ある?」
「いや、凄いヤツだよ。尊敬する」
「本当?」
上目づかいで睨まれる。
「師匠が偉大で有り難い」
「だったらもっと敬いなさい。頭を垂れて感涙に咽ぶのよ!」
そっくり返って薄い胸を空に向ける。信じもしない空の神様に申し訳ない気分になったので筒袖を引っ張るが、そこは希代の女剣士、バランスを崩すことなくこちらを睨みつけてきた。
「ちょっと、それが敬うべき師匠への仕打ちなの?」
「御師匠様、謙虚も大事ですよ。薄い胸ではなお恥ずかしいかと……」
「あー、気にしてるのに!」
腹筋に突き刺さる拳に耐え、小さな額を弾く。
「ちょっと、なにすんのよ!」
「失礼しました。ちょうどよい位置にあったものですから」
「その態度は敬ってない!」
安らぎは瞬く間に過ぎてゆく。
◆
政治家というのは厄介だ。
言葉を交わしても本音が見えず、口と心が乖離しているように思える。なにを信じ、なにを指標としてよいのか分からない。
「お待たせした」
「いえ、こちらこそお電話いただきまして恐縮です」
裂海との訓練疲れも抜けないままやってきたのは御所からもほど近い帝国ホテル。
人が大勢いるラウンジで外務大臣鈴木寿夫と握手をする。グレーのスーツは肩幅が広く、白いシャツには糊が利いている。ベルトではなくサスペンダーを使うのは英国式の現れか。前に会った時は普通の、いわゆる日本式の装いだった。短時間でよくかぶれたものだと思ってしまう。
「忙しいのに悪いね」
「大臣こそお忙しいのに、時間を割いていただいて感謝いたします」
「君には真っ先に伝えたいと思ってね」
大臣が肩を竦める。
建前を守るつもりなのだろう。裏を返せば人伝に出来ない内容ともとれる。
「お話を伺うのが楽しみです」
「退屈はさせないと思う。ところで、せっかくの帝国ホテルだ。ディナーだと思っていいのかね?」
「勿論です。こちらの料理長とは懇意にさせて頂いております。今日も腕によりをかけていることでしょう」
「相変わらず口が達者だ」
「恐縮です。こちらへどうぞ」
一礼して先導する。
帝国ホテルのフレンチレストランを取り仕切る料理長とは会ったことがある。フランス大統領来日の折、日桜殿下のことで色々あってからは親交がある。
「予約していた榊です」
「お待ちしておりました」
男性給仕に案内され、広いフロアのほぼ中央、生演奏の前に座る。
窓際だと口の動きから会話が読み取られ、出入り口は人の眼がある。中央というのは密談をするのにうってつけだ。
「鈴木先生、欧州は如何でしたか?」
「どこも良い国ばかりだった。特に大英帝国はいい。同じ島国だけあって日本人に気質が似ている。食べ物も噂ほどではなかった」
「私も一度行ってみたいものです。耳にするものと目にするものは違うと聞きますから」
「直に見て肌で感じる、というのは大事なことだ。もっとも、この言葉は城山先生に教わったものだ」
「あの人らしいお言葉です。重みが違います」
「年季、ではなく?」
「滅相もありません。先生の耳に入れば嫌味を延々と聞かされてしまいます」
「ふっ、面白い男だ」
軽口を叩き合っていると水滴の輝くボトルが運ばれてくる。
グラスを黄金の泡で満たし、静かに掲げた。
「良い夜と最高の料理に……」
「先生のご活躍に……」
当たり障りのない乾杯をする。
グラスの中身を半分ほど飲み、テーブルに置けば給仕が皿を持ってくる。前菜はアスパラガスとルッコラ、生ハムのサラダ。料理に手を付けようかと迷っていると、大臣はスーツの内ポケットから名刺ほどの紙を取り出し、なにかを書き始めた。
「大臣……」
「君は食べ始めてくれ」
「承知しました」
言われるがまま前菜に手を付ける。
アスパラガスの甘みとルッコラの香り、そこに生ハムの塩気と独特の香気をオリーブオイルが溶け合わせ非常に美味しい。黒コショウのアクセントも相まって仕事を忘れそうになる。
政治家の顔という肴はあまり好まないが、食事だけで帰れるのならどれだけ気が楽だろうか。
「ふぅ、次は君の番だ」
メモ用紙とペンがテーブルを滑ってこちらへやってくる。羅列された文字に食事をする手が止まった。
紙には達筆で≪ここ半年、ロマノフ皇帝が姿を見せていない。皇帝直属の親衛隊も確認されていない≫とある。
「大臣、これは……」
「出所は大英帝国、これ以上ないほど確かな情報だ」
外務大臣は涼しい顔をして前菜を食べ始める。
半年といえば稚内の海軍基地にロマノフの人間が亡命してきた頃だ。すぐさま米国に引き渡されたので亡命してきた人間の身辺情報は何もない。だが、時期が重なるというのは気になる。
ペンを取りメモ用紙に≪北海道の件と無関係とは思えません。どこまでご存じですか?≫と書き、大臣へと滑らせる。
「随分とせっかちだ。もう少しゆっくり食べさせてほしい」
「ご無礼を……」
「だが、気に入ってくれたようで何より。私も知らせた甲斐がある」
大臣はそそくさと前菜を平らげ、次の皿を待つ間に筆を走らせる。今度はすぐに戻ってきた。≪稚内へ来たのは空軍将校、亡命先は米国か大英帝国を希望。それ以外は黙秘≫とあった。
運ばれてきたスープを口にしながら考えを巡らせる。
亡命とロマノフ皇帝、親衛隊が姿を見せなくなったことに直接的なつながりを示すものはない。しかし、タイミングからすると無関係とも思えない。
「疑いたくなるタイミングですね」
「私もそう思う。だが、確証はない。そして、これをどう扱ってよいのかも分からないものでね」
「この件、菅原さんには?」
「まだだ。念には念を入れて直接会ってお伝えしたいが、向こうも私も忙しい」
なるほど、それで俺にお声がかかったのだろう。
ある程度信用があり、利害や背後関係を疑う必要がないというのは便利だ。
「それに……」
大臣はメインの肉料理を切り分けながら不敵な笑みを浮かべる。
「君なら色々な情報網をもっている。独自の見解が聞きたいと思った」
「ご冗談を。私は一人の側役に過ぎません」
「覚えておくことだ。謙遜も度が過ぎれば嫌味になる」
鴨肉のロティを口に運びながら今度は封筒を取り出す。
朱色の蜜蝋は破られておらず、封がされたままであることが分かる。
「ジョルジオ殿から預かった。贈り物のお礼、だそうだ」
「騎士王から、ですか?」
贈り物とは刀。白凱浬の件で情報提供をしてもらったので、大小一組を用立てたのだが、大分お気に召したらしい。
「失礼します」
封筒を受け取り、封蝋を剥がせば一枚の写真が出てくる。
全体に不鮮明、白黒なのは夜写したもので、映像の一部を切り抜いたものだろう。中央に写っているのは小さな人影と、それに寄り添う大きな体。小さな方は膝のあたりが歪んでいるようで、手を引いているような、あるいは支えているような印象を受ける。
「なにが入っていたのかな?」
「どうぞ」
大臣に写真を渡せば表情が曇る。
これが何を指しているのか分からない。
「これだけでは分からんな」
「はい。ですので、確かめる必要があります」
「結果を楽しみにしている」
返事の素っ気なさが引っかかって大臣の顔を盗み見れば意識は食事へと向いているようだった。情報提供、というよりも自分が扱いきれないな案件を丸投げしてきたように思えてしまう。
「……大臣」
「なんだ?」
「漁夫の利を狙ってはいけません。利用されるだけというのはあまり気分の良いものではない」
「利用しているわけではない。私は対等な……」
「でしたら一つお願いがあります。勿論引き受けてくださるものと思っていますが」
「……なんだ?」
「大英帝国に人脈はできたことでしょうから、欧州連合の、ロマノフや共和国への姿勢を調べていただきたいのです。なにを考え、どのようなスタンスで臨むのか。今後一〇年ほどの計画が知りたい」
「分かった。調べておこう」
「ありがとうございます」
少しきつめに睨み、釘を刺す。
まったく、政治家というのはこれだから嫌いだ。
「面倒事が増えただけだな」
せっかくの料理も考え事が多くなると味がしなくなる。
ロマノフ、亡命、それに騎士王からの写真。
どれもパーツがバラバラで形を成していない。そもそも形となるのかも分からない状態に辟易する。
「……はぁ」
どうやら、今回も面倒事は俺を放っておいてくれないらしい。




