二話
非凡であることが必ずしも優秀さを示すものではなく、平凡であることが劣っている理由にはならない。
鷹司霧姫が部下である榊平蔵を表するなら『平凡』に尽きるだろう。一般的な常識と教養、道徳を身に付け、近衛という特異な中にあっても、その平凡さが変わることはない。特筆すべきものがあるとすれば愚かしいまでの忠誠心。主に対する絶対的な想いがあるからこそ彼は彼のままでいることができる。
「まったく、労力を惜しまないやつだ」
膨大な書類を前に鷹司霧姫は嘆息する。
資料室の一角を占拠する、昨年末から今年の春までに貯えられた共和国の資料は見ただけで胸焼けがしそうだった。
「これを榊殿が……一人で……」
「そのようだ」
同席する立花直虎も声を漏らす。
棚を埋める出版物、各省庁からの報告書だけではなく彼が実際に書き溜めたものまでが山積している。調べるだけでは飽き足らず、自らの考察を手書きで連ね、瞬間的な発想まで残されている。あたかも思考そのものを紙に写しているようにいるようだった。
「ノーラの事件に端を発し、先の事件、私が倒れたことで切羽詰まった。普通の人間ならば慌てふためいてなにかに頼ろうとするものだが、ヤツはそれをしなかった。最も難しい手段、遠回りでも確実な手段を選んだらしい」
「徹底的な調査、分析ですか。恐ろしい量です」
「文字通り寝る間も惜しんだことだろう。そういう意味ではヤツの固有は便利だな。とことんまで無理が利く」
「霧姫様」
「分かっている。睨むな」
部下の視線に鷹司は片目を閉じた。
「今回は有り難く使わせてもらう」
「本人には断りなく、ですか?」
「言ったところでどうなる。ヤツを巻き込めば面倒事を引き込むぞ。それに、殿下の側役としては最上の人選だ。侍従以上に細かく目端が利くからな」
「榊殿が側役にうってつけ、というのは否定しません。少しマメが過ぎるくらいです」
「嫉妬か? 珍しいな」
声のトーンが変化したのを鷹司は聞き逃さない。
「先日、殿下の身長が二センチ伸びたと伺いました。私も日々の変化を近くで確かめたく存じます」
「直虎……かつての部下が嘆くぞ」
「それとこれとは話が別です。近くにいるというのに、特権を行使できないのは実に歯痒いものです」
「どっちもどっちだ」
鷹司が苦笑いを浮かべる。
主を想うことは良いことなのだが、彼女の場合は度が過ぎて、本当の母親のようですらある。
「さて、始めるとしよう」
「承知しました」
手近にあるパイプ椅子を広げると資料を読み始めた。
二人がここへ来た理由は一つ、共和国とロマノフの情勢を知ることにある。
榊平蔵をこの件から外した以上、彼と同等以上に知り、軍部や官庁とのやり取りについていかなければならない。これまでも対外的なやり取りを一人に任せるのは好ましくなかったのだが、状況がそれを許してくれなかった。
万が一、榊に何かあれば近衛は交渉役を失うことになる。鷹司が復帰したとはいえ、十分とはいえない。そこで立花直虎へと白羽の矢が立った。
「直虎、私の後任はお前しかいないと思っているのだがな」
「両親は喜ぶでしょう」
「自身では望まないのか?」
「順当にいけば青山か卯木あたりが候補となりましょう。特に卯木は下に裂海優呼がいますから、副長、ゆくゆくは隊長も視野に入ります」
「青山は責任感に欠ける。あれに副長を任せるのは不安だ。卯木はどうにも視野が狭い。優呼は……まだ若く、これからは駆け引きを覚えなければならん」
「やはり榊殿が適任と考えます。これからの近衛は関係各所との連携が必要不可欠、加えて政治的なやり取りも出てくるでしょう。霧姫様の元で仕込むのが最適ではありませんか?」
「むぅ……」
資料を読み進めながらも鷹司が唸る。
彼女が心配しているのは近衛内の派閥争いだ。
男所帯、縦社会の中で榊平蔵だけを優遇しては遺恨が残る。
「必要とあらば義弟を第一大隊に送ります。あれも少しは融通が利く、青山にも箔が付きましょう。卯木は交渉事の席に同行させれば収まりはつきます」
「優呼に大隊長代行をさせるのか?」
「青山も同じころに第一大隊長の副官をしています。それに、彼女はあの裂海の当主です。反対意見はでません」
榊平蔵ばかりの優遇ではなく、全体の調整を進言している。
鷹司としてはようやく安定しつつある現在の体制を崩したくなかったのだが、それよりも優先すべきものがあった。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「しかし、だ。直虎、お前は引き続き副長補佐として動いてもらう」
「夜にお時間をいただけるなら喜んで」
「好きにしろ」
誰かに似てきた元第六大隊長に近衛副長は苦笑いを浮かべるしかない。
「それにしても、えらく入れ込んだものだな。九州の麒麟児が気にかけるような男とは思えん」
「副長こそ、ずいぶんと可愛がっておられる。前線に出ない近衛など聞いたことがありません。血みどろの実戦を四度も経験したものは少ない。十分に任を全うするかと存じます」
「前にも話しただろう、命の安売りをするやつは信用しない。自己犠牲に酔っている間は三流だ」
「酔う、ということとは少し違うと思います。あれは一途ということの証明、主を想うからこその行動です」
書類を読む手が一瞬止まる。
「一途……か。以前ならば出てこない言葉だ。実家で何かあったのか?」
「霧姫様こそ、少し前から様子がおかしい。あからさま、ではありませんが接触を避けているように思えます。体調を崩された時、榊殿と寄り添って眠っていたと伺いましたが、なにかあったのですか?」
「…………」
「…………」
鷹司と直虎、どちらかともなく顔を上げて互いの眼を見る。
そのまま数分、微動だにすることもなく、これまたどちらかともなく視線を逸らした。
「やめよう」
「そうですね」
鷹司は咳払い、直虎は深呼吸をして仕事へと戻る。
資料室からしばらくの間、声が聞こえることはなかった。
◆
近頃、食堂で小耳に挟む話題がある。それは近衛最強は誰か、というのもだ。
以前ならば鷹司霧姫一強だったのだが、髪色が未だ黒へ戻らず、加えて立花直虎が本部に滞在していることが挙げられる。
副長交代の噂も立つなかで注目されているのは大隊長と、その直下となる平連中の昇格。今のところ最有力は立花直虎、次いで第三大隊長の卯木尚人。
本来、卯木は元第六大隊長であり九州の麒麟児、名門立花家の長女を相手に出世争いができるほど目立った戦績はない。地味だが堅実、実直を貫くタイプ、なのに名前が挙がるのは目の前で食事をするコイツのせいだったりする。
「おばちゃーん! サンマ五匹追加して! あと大根おろしも!」
山盛りのご飯を頬張り、丸々と太った旬のサンマを頭から尻尾まで骨ごとバリバリとかみ砕く。
「ん~! 美味しいわ!」
味噌汁を啜ってからお浸しで味覚をリセットすると、再びご飯サンマの順番で食べ始める。これを飽きることなく繰り返していた。
「優呼、食べ過ぎじゃないのか?」
「へ?」
裂海優呼はなにが? と言わんばかりに首を傾げる。
まぁ、近衛に食べ過ぎということはないので構わないのだが、尋常ではない食欲に厨房のおばちゃん達まで苦笑いを浮かべていた。
「いつもの倍は食べてるぞ」
「固有を使ったから仕方ないわ!」
「お前のか?」
「うん!」
屈託なく頷く。
裂海の固有は俺も一度しか見たことがない。ハッキリとは知らないが無数の分身、いや複製を作り出すものだ。
「洋上で撃たれたから仕方なかったの」
顔を寄せ、小声になる。
洋上で撃たれたということは海軍と不審船で一戦交えたということだろう。
「ミニガンみたいなやつか?」
「携行型の地対空ミサイル。三発同時に撃たれたから仕方なく、ね」
片目を閉じる仕草はどこか大人びて見える。
普段こそ能天気でちゃらんぽらんな彼女だが、一度戦闘ともなれば心構えが違う。護衛として就いたならば任を全うするだろう。
「大丈夫……だったからいるんだよな」
「当然よ。私が同行する以上は犠牲者をださないわ」
自信満々に、ノーラや千景以上に薄い胸を叩いて見せる。
こうした部分は頼もしい。
「向こうの船は重武装で逃げ足も速かったの。煙幕もあったし、藪蛇になりたくなかったから追わなかったわ」
「お前がいてもか……」
「私の仕事は船団護衛で捕まえることじゃないわ」
ぺかっ、と笑ってから味噌汁を一口に飲み干し、お代わりを取りに向かう。
第三大隊には裂海優呼がいる。
若干一七歳にして裂海家当主、近衛の最年少記録は立花直虎と裂海優呼の名前ばかりらしい。名家の出身であるとはいえ、男性優位であるはずの近衛で実力が傑出するのが女性であるという事実はなかなかに興味深い。
「ただいま! さぁ、第二ラウンドよ!」
焼きたてのサンマにご飯、味噌汁、小鉢をいくつか持ってきた裂海は衰えることのないスピードで食べる。見ているとこちらの食欲がなくなるから不思議だ。
「はれ? へいほーはほうはへはいほ?」
「口に入れたまま喋るな」
「ふぎゅ」
掌を裂海の口に押し当て、吹き出しそうな米粒を封じる。
まったく、どんな教育をされたのやら。
「俺はもう結構食べたよ。このところ殿下の御守りやら事務処理ばかりだからな。そこまでの量は必要ない」
「ふぅーん」
何故か目を細める。
「お前は忙しいかもしれないが、俺からすればここ一ヶ月くらいの感じでいい。大きなトラブルは起こらず、殿下も健やか、ノーラは仕事も勉強も順調、千景は大人しい。軍や警察と合同でやっている帝都警戒網も機能し始めたし、直虎さんが来てくれたおかげで副長のお小言も減った」
「ふがふが」
「勿論、心配の種は山のようにある。ロマノフの動向や共和国の内情、欧州は相変わらず先行き不安だ。国内に目を向けても問題は山積している。でも、俺が積極的に関わることじゃない。それぞれに専門家がいて取り組んでいてくれる。俺は余計なことを考えずに殿下の側役という任を全うできるというわけだ」
「要するに暇ってこと?」
リスかハムスターのように頬張っていたものを飲み下し、裂海の声がトーンを下げる。
「……違う」
「違わないわよ。だってヘイゾー仕事人間だもの!」
「今が適量ってことだ」
「本当?」
顔を覗き込まれてしまう。
真っ直ぐな瞳が内心を擽るようで居心地が悪い。
「ふーん。そうなんだ、暇なんだ」
「優呼、お前は人の話聞いてたのか?」
「だって、そんな言い方されたら、やることなくて燻ぶってます、って宣言しているようなものじゃない」
「……やめてくれ」
裂海の言葉に自らを鑑みる。
そんなに暇そうにしていただろうか。
「ヘイゾー、明日の予定は?」
「午前中は予定がある。午後からは大丈夫だ」
「じゃあ時間作ってあげる」
「お前が、わざわざか?」
探るようだった眼差しは一転して剣呑な光を放っていた。
あまりの鋭さに身の毛がよだつ。
「ちょっと緩み過ぎ。だから白凱浬に後れを取るのよ。剣の師としては不甲斐ないわ」
「ゆ、優呼?」
「鍛えてあげる。ヘイゾーが強くなればみんなの心配事も減るでしょう?」
不味い、本気だ。
この眼は俺が近衛に来たばかりの頃に似ている。
「いや、仕事といっても流動的な部分が……」
「うるさい。返事は?」
「…………はい」
胃が絞られるような重圧に諸手を上げる。
口は禍の元、先人は上手いことをいったものだ。
「決まりね。覚悟しておくこと」
「分かりましたよ、お師匠様」
「うんうん、ヘイゾーは素直な方がよろしい!」
剣の師は表情を一転させて食事に戻る。
これまで以上に美味そうに食べているのは気のせいだろうか。
「言わなきゃよかった」
慟哭は喧騒にかき消され、ただ天井を仰ぐしかできなかった。