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序章


 極めて個人的な意見ではあるが人の真価は成長にある。

 生物学的な肉体の成長ではなく、精神的な成長こそ、人を人たらしめるものだと思えてならない。

 それでも、嬉しいことはある。


「……さかき」


 白と紫を基調とした御子服、艶やかな黒髪を揺らして第一皇女殿下が駆け寄ってくる。

 長い裾を踏んで転びそうだな、と思ったので身を屈めた。


「……あっ」

「っと」


 前のめりになった体を受け止める。

 相変わらず小さくて軽いのだが、わずかな変化に気付く。


「……ごめんなさい」

「いえ、それよりも……少し大きくなられましたか?」

「……!」


 指摘すれば日桜殿下は顔を上げる。

 元々大きな瞳をさらに一回り大きくして、こちらを見ていた。


「……わかるのですか?」

「ええ、まぁ、そうですね」


 爛々と輝く眼差しに若干戸惑いながらも頷けば、ちび殿下の顔には喜色が浮かぶ。

 我が主様は同年代の平均よりも随分と小さい。生来の食の細さと皇族としての苛烈な日々、忌日という慣習故の食事制限が体の成長を阻んできた。


 伝統は守るべきだろう、それによって成立する部分は確かにある。しかし、俺は見ていられなかった。殿下の好みを踏まえ、栄養価を考えて献立を作ってもらった。なるべく一緒に食べることで食事そのものが苦痛にならないよう配慮してきたつもりだ。

 殿下の成長は一つの成果といえる。努力が実ったことを今は素直に喜びたい。


「……にせんち、おおきくなりました」

「ということは一四〇センチですか。それは喜ばしいことです」

「……はい」


 身長が伸びて一喜一憂、というのは子供の特権。

 俺自身も学生の頃は級友たちと競ったりした。今となればほとんど気にしない。日本人の平均身長以上にならなかったのが心残りではあるが、その程度だ。


「ようやく追いついてきた、というところね」


 医務室から顔を出したのは伊舞朝来。

 近衛服を着崩し、白衣を引っ掛けただけの女医は実に気だるげだ。


「一二歳の平均は一五〇センチですから、まだ足りませんね」

「あら、詳しいのね」

「主のことですから、多少は」


 ちび殿下を抱き上げながら体重も計ってみる。

 先月よりもわずかに重くなっている気がするので、こちらも大丈夫だろう。


「ようやく二次性徴に入ったのかもね」

「……はいりました」

「だと良いのですが……。杞憂でないことを切に祈るばかりです」


 意気込みに嘆息してちび殿下を下ろそうとすればシャツを引っ張られる。

 このままが良い、ということなのだろう。困った第一皇女様だ。


「では、このまま引き取ります」

「頼むわ」

「……あさこ、ありがとう」

「はいはい」


 ひらひらと手を振る伊舞に一礼して御所へと向かう。


「……なおとらは、どうしていますか?」

「鷹司副長と一緒に朝霞に行っておられます。重要案件だと伺いました」

「……あさか? さかきが、きりひめのふくかんでは、ないのですか?」

「今は解任されています。私を混ぜると余計な問題を巻き込むとのことですので、殿下の側役に専念するよう仰せつかりました」


 小さな顔を覗き込めば、ちび殿下は少し考えるような仕草はするものの、すぐに表情を明るくして、俺の首に手を回してべったりとくっ付いてくる。


「殿下、お行儀が悪いとノーラに怒られますよ?」

「……しんぱいありません。のーらちゃんはおでかけ、です」

「出掛けた? 一人で、ですか?」

「……ゆうこと、です。ふくをかうと、いっていました」

「アイツか……」


 裂海優呼は殿下、千景、ノーラのちび三人に姉貴分を気取りたがる。

 近衛に年の近い同性は少ないのだから気持ちは分からなくもない。しかし、時折先入観と思い込みで妙なことを吹き込むのだけは勘弁してほしい。


「殿下もご一緒なさればよろしかったのに。公務はありますが、それほど重要なものはなかったと記憶しております」

「……だめ、です。めをとおすもの、たくさんあります」

「これから公布される法律ですね。あれらは無理にご覧にならなくてもよろしいものばかりです。御自身で仕事を増やすこともありませんよ」


 すでに可決され、施行を待つ法律に目を通す意味はほとんどない。

 憲法から行政、教育、社会、環境、刑事や民事、知的財産と多岐に渡る。これらは時代に合わせて毎年のように改正や新しいものが生まれている。提出数に差異は有れど、多ければ一度の国会で五〇件が審議され大多数が成立、施行ということもあるくらいだ。


「私も概要だけ目を通しましたが、警察庁の警察法一部改正や総務省の地方税に関わるものが多かったと記憶しています。殿下の公務とは関係ないものばかりです」


 なにも法律は国民のためにあるものではなく、政府や省庁、組織を縛るものでもある。そうした一般人、皇族や近衛が関わらないものにまで目を通す必要はない、というのが俺の意見だ。

 しかし、ちび殿下は「はい」とはいってくれない。


「……だめです」

「どうしても、ですか?」

「……わたくしも、しっておかねばなりません」


 これだ。

 生真面目で融通が利かず、自らの負担を考えることしない。


「殿下、あまり根を詰めて体調を崩されては公務に支障をきたします。加減を覚えることも必要かと存じます」

「……わたしのしんぱいなど、ひつようありません」


 一転して鋭くなった眼差しに射貫かれる。

 私心と責務を受け入れて歩むことがどれほど難しいだろう。己の境遇を受け入れることさえ難しい年頃だというのに、この御人はさも当然のように在る。


 ――――敵わない。


 これがあるから、俺はここにいる。

 日桜殿下がいてくださるかぎり、未来はあると信じることができる。


「承知しました。では、私が殿下の心配をすることにいたします。進言にはご留意いただけますか?」

「……はい」


 殿下は微笑んでくれる。

 抱きしめる腕に思わず力が入った。


「全ては殿下の御心のままに」

「……さかき」


 見上げる瞳を受け止め、背筋を伸ばす。


「……ふふっ」

「足をバタバタするのはお止めください。行儀が悪いですよ」

「……だれもいません。だいじょうぶ、です」


 確かに、御所へと通じる地下通路を歩いているので誰もいない。

 口が達者になったものだ。


「……ふたりっきり、です」

「やれやれ」


 嘆息しながら歩く。

 先が思いやられる。



     ◆



 肉の盾と伝家の宝刀。

 かつての陸軍と近衛師団を揶揄した言葉だ。

 海洋国家である日本にとって陸軍など無用の長物と蔑まれ、近衛師団は数が少なく戦力として期待できないといわれた歴史がある。誰が呼び始めたのか、そうした呼び方がいつの間にか定着してしまった。

 帝都の最西端に位置する練馬区朝霞の陸軍駐屯地では菅原利明参謀長と鷹司霧姫、立花直虎が顔合わせをしていた。


「おや、今日は別嬪を連れていなさる」

「その節ではご迷惑をお掛けしました」

「なんのなんの、若いってのは血気に逸るものさ。気にしないでおくれ」

「ご配慮感謝いたします」


 直虎が頭を下げ、参謀長はなんのなんの、と手を振る。


「鷹司殿、加減はどうだい?」

「この通り、まだ絶好調とは言い難いところです」


 鷹司が自らの髪を持ち上げてみせる。

 普段ならば黒く艶やかなはずの髪は未だ銀色のまま。本人の顔色が良いだけに余計目立ってしまう。


「それは心配だ。……ところで、今日は榊君がいないね。忙しいのかい?」


 参謀長の言葉に鷹司は形の良い眉を寄せる。


「騒ぐと煩い輩ですので、九段に置いてきました」

「なるほど……。この件は榊君に任せているのだとばかり思ったよ」

「ヤツがいるとトラブルを引き込みやすくなります。どうにも余計なところにまで目端が利きすぎる」

「そうかい? アタシは良いことだと思うがね。まぁ、少し神経質が過ぎるきらいはある。あんなに気を張っていては疲れるだろうな」


 参謀長は手ずからコーヒーを淹れ、鷹司と直虎へ差し出す。

 茶菓子は月餅、日本ではかなり珍しい組み合わせといえる。


「話し合いの前には甘いものだ。コーヒー豆は雲南省の思茅種、味も香りも悪くない」

「頂戴します」


 鷹司は一礼してからコーヒーを含むが、眉根に皺を寄せる。

 大食漢でもともと味など気にしない性分から違いがいまいち分からない、らしい。


「苦みが強く、酸味は少ない。香りもそこまで立ちませんが……この月餅と合わせると感想が変わってきます」


 直虎が言葉足らずな上司に代わり率直な感想を述べる。

 鷹司も真似をして月餅を齧った。


「この香りは……バラ?」

「向こうでは鮮花餡というらしい。生地に使われるラードのコク、バラの香り、そこに思茅の味。組み合わせてこそ引き立つ、実に妙なる趣向だ」


 参謀長も月餅を齧り、コーヒーを飲む。

 皺の深い顔には憂慮が色濃い。


「これが共和国のものということは潜入は順調ということですか?」

「白凱浬の影響力というのは凄まじい。彼が味方になってくれてよかったよ」

「それは結果論でしかありません。たまたま上手くいったからと甘やかしては癖になる」


 鷹司の言葉に参謀長は額を揉む。


「榊君の決断は褒められたものではない。しかし、怖気づいた我々も同罪だ。彼だけ責めることはできんよ。鷹司殿もそうではないのかな?」

「仰る通りです。だからこそ、更なる統制が必要と考えます。結果として上手くいった、という前例は良いものではありません」

「だから立花君、というわけだね?」

「その通りです」


 鷹司が頷き、直虎は目礼をする。


「近衛の決定に異論を挟むわけではないんだが、あれだけ白凱浬の、いや共和国の真に迫った彼を外すというのは得策とは言い難い。好きにやらせても良いと思うがね。あの青年ならば国益、いや日桜殿下の意に沿わないことなどしないと思うが……」


 参謀長の言葉に鷹司はいくつも月餅を手に取ると不機嫌そうに口に押し込む。

 日桜殿下、のあたりを強調したのが面白くないらしい。


「私も同じことを具申したのですが、副長は血を浴びるのは武士の役割と、頑として首を縦に振ってはくださいません。ご自身も武家の出身ではないというのに……」

「私の父は武士だ」

「これです」


 忠義の部下は苦笑いを浮かべ、当の本人はまだ熱いコーヒーを飲んでは咽る。

 鷹司は隠し事が下手だ。


「可愛がるのはいいが、本人は望まないのではないかな?」

「自分の命すら簡単に投げ出す輩に、護ることの本質を理解することはできません。そんなものは覚悟とも呼べない。思い上がりも甚だしいものです」

「それは……アタシ達ですら難しいもんだ。職業軍人だからね」


 参謀長は薄くなった頭に手を置く。

 軍人は職業だが武士は生き方。本質的に違うといわれては否定のしようがない。


「副長、ご自分のことを棚に上げるのは結構ですが、それでは榊殿に笑われます」

「うるさい。ヤツの前で話さなければそれで済む」

「承知いたします」


 不機嫌そうな鷹司と微笑む直虎に参謀長は思わず失笑してしまった。


「さて、ここいらで本題に移ろう。榊君のことはまた今度伺うよ」

「承知しました」


 直虎の笑みに参謀長は肩を竦める。


「これを先に渡しておこうか。向こうから来たものの写しだ。電子機器ではデータが残るからね、こういう形にさせてもらった」


 そういって参謀長の懐から出てきたのは小さな封筒。

 開けばどこにでもある便箋にびっしりと手書きされていた。鷹司が字をなぞれば指先に黒鉛が付く。


「写しも手書き、アタシの秘書にやってもらった。情報漏えいの可能性は極力抑えたい」

「さすがは参謀長殿、手が込んでいらっしゃる」

「お世辞はいらないよ。ただ、用心するにこしたことはない。努力を無駄にはできないからね」


 先ほどとは打って変わり、老獪な目になる。

 無用の長物と揶揄された陸軍に存在感を与えた名参謀の手腕、その一端を見た気がした。


「部下たちは上海から潜入し、前皇帝の縁者に匿われる形で江蘇省徐州にいる。潜入から一ヶ月、安徽省や浙江省、山東省までを見て回ったらしいが……」


 渋面となった参謀長が鷹司の持つ手書きの報告書の一部分を指す。

 読み進めていくとところどころに寒空の影あり、という一文があった。


「寒空とはロマノフですね」


 部下の指摘に鷹司は切れ長の相貌を細くして美貌を歪めた。


「白凱浬の口利きで共和国に送り込んだ連中からの報告さ。首都だけではなく各地に領事館がある。それも一つや二つではない」

「僭越ながら、複数の在外公館を設置する国は少なくありません。国土が大きく、関係が深い国ではあり得る光景かと存じます」


「その通りなんだが、アタシが気にしているのは共和国にいるロマノフ人の数だ。北部はまだしも、南部にはほとんどいないらしい」

「……確かに妙な話です。大勢がいるならわかりますが、いないのに在外公館があるのは不自然と言わざるを得ません」


 参謀長の言葉に鷹司が頷く。


「アタシも立花君の指摘通りなら気にしないんだが、報告書を読む限りでは腑に落ちなくてね。今は共和国とロマノフとの関係も微妙だ。近衛にも知っておいて欲しかったのさ」

「お噂通りの方です。榊殿が要注意と仰るのも頷ける」

「直虎」

「失礼しました」


 口を挟む部下を鷹司が窘める。


「構わないよ。さて、具体的な今後の方策だがね……」


 参謀長の言葉に二人は耳を傾ける。

 三人の密談は夜の帳が降りるまで続いた。


第五部はこれまで通り週一回の掲載となります。

お楽しみいただければ幸いです。

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