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短編 鷹司霧姫(後)


 鷹司霧姫が肌の温もりを感じたことは少ない。

 巨大財閥の長子として産まれ、幼少期は英才教育を施されてきた。同じく鷹司家長子だった母と、没落武家だった父との間に何があったのかは知らないが、結果として今の霧姫がある。

 

 忙しかった母の代わりに世話を焼いたのは父親だった。しかし、没落したとはいえ武家出身だった父は愛娘の心身を鍛え上げることこそ愛情だと疑わなかった。

 剣術こそ教えはしなかったものの、清い心は健全な肉体に宿るという思想の元、成人までの期間を過ごすことになる。

 

 勉学と修練の毎日を過ごし、思春期を迎えても両親の愛はいささかも冷める様子はなく、優秀だった霧姫には習い事も卒なくこなした。

 優秀であるほど両親は喜んでくれたが、一緒にいる時間は減り続けていった。

 

 大学を出てからは研修という名目で鷹司財閥の子会社へと就職、いずれは本家へと戻り母親の跡を継ぐはずだったのだが、転機がやってくる。霧姫が父の所持品だった刀を興味本位で触ったことにより覚めてしまった。


 巨大財閥の息女という立場から任官も免除しよういう動きもあったのが、霧姫は受諾した。

 日桜とは面識もあり、境遇には同情を禁じ得なかったこともある。それ以上に父と同じ武家になることを嬉しく思った。

 しかし、温もりからはさらに遠ざかることになる。


 父の教育と財閥の金でほとんど病にもかからず、健康に過ごしてきた霧姫にとって体の不調は不安そのものでしかない。有体に言えば慣れていない。

 人は多かれ少なかれ体調を崩す。経験則からなにが危なくてなにが大丈夫かを学ぶのだが、霧姫はその経験があまりになかった。


     ◇


「うっ……」


 上半身に纏わりつく悪寒、剣戟で火花を散らすような頭痛、骨まで蝕む倦怠感。

 ほとんど味わったことのない感覚への恐怖心が心を支配する。


「くるしい、さむい、やだ」


 切られる痛みになら耐えられる。

 血を流すことは厭わなくても内側から溢れ出る不快感には耐えられない。

 誰かに傍にいてほしい。

 深淵の底で嘆き叫んでも両親は手を差し伸べてはくれない。


「くるしい、ひとりは、いや」


 誰か―――。

 誰でもいいからこの手を掴んでほしい。

 この苦しさから、恐怖から救い出してほしい。

 誰か――――――――!



   ◆



 伸ばされた腕に捕らわれた時感じたのは体温、匂い、それに柔らかさ。

 距離の近さから不意に触れることはあっても実感することなくここまで来てしまったことは迂闊だった。


「っ!?」


 誰かの胸に抱かれることは初めてではないにせよ、ご無沙汰だったことは確か。

 脳が麻痺するほどの芳烈に一瞬とはいえ、体の力は奪われてしまった。


「だれか、だれか……」


 普段は凛々しいはずの声がか細く、弱々しかったことが原因がもしれない。

 力は強くてもそれが強引なものではなかった。

 だから、引き込まれてからしばらく背中を抱いてしまっていたのは拭いようのない事実。


「……ちちうえ……ははうえ……」


 苦しむ女性が求めていたものの正体に気付き、我に返った。


「っ! くそっ、この!」


 触手のような腕から逃れ、上掛けから顔を出す。

 下半身は今だ脚を巻きつけられたままなのだが、上半身さえ自由になってしまえばこっちのもの。スマートフォンを取り出し、誰に連絡するのが無難かを吟味する。


「殿下とノーラ、それに直虎さんは公務中。伊舞のババアは外出。男は……論外」


 つまり、消去法だと一人しかいない。

 それもこの上なく面倒なヤツだ。


「まぁ、なんだかんだ面倒見はいいし、頼りになるし、バカだし、丁度いいか」


 番号を押してコールすること数秒。

 裂海優呼は


『なに?』

「今どこだ?」

『食堂でご飯食べてる。むねむねも一緒よ。ヘイゾーは?』

「副長の部屋だ。すまないがちょっと手伝ってくれ」

『副長が? 手伝う?』

「午前中に体調不良で倒れてな。様子を見に来たんだが俺一人の手には負えない」

『……分かった。すぐ行くわ』


 通話が切れる。

 これで一安心、あとはここから抜け出せればいい。


「ぬっ、ふっ……くっ!」


 クラーケンの触腕もかくやというほどの脚から抜け出し、近衛服の襟を直す。

 まったく、危うく人生を踏み外すところだった。


「副長! ヘイゾー!」


 ガンガンとドアを叩く音と裂海の声が聞こえる。

 食事中と聞いていたのに到着が早い。


「開いてるぞ」

「失礼しまーす!」


 援軍に肩の荷が下りる。


「それで、何をどう手伝うの?」

「先ずは着替えだ」

「ふぎゃん! ちょっと、なにこれ!?」


 鷹司の汗がべったりと付いた手で裂海の頬を撫でれば猫のような声を出す。

 そのまま寝室を出て着替えの間はリビングの掃除だ。書類の山はどうにもならないので衣類だけでもまとめられたら少しは片付くだろう。


「ヘイゾー、この服着せたのってヘイゾー?」

「朝、医務室にいたノーラに任せたから、多分彼女じゃないか? どうしてそんなことを聴くんだ?」


 寝室からの声に数分前の情景が脳裏を過った。

 頭を振って邪念を払いのけ、掃除に集中する。


「副長に何かした?」

「なにも」

「じゃあ、どうして副長がヘイゾーのペンなんて持っているの?」

「へっ?」


 裂海の声が怖い。

 慌てて懐を探ると感触が無かった。


「ねぇ、どうして?」

「……」


 顔を出し、三白眼で睨まれる。

 ここで尻尾を出しては元サラリーマンの恥だ。


「さっき副長に水を飲ませたから、その時に落ちたんだろ」

「落としたものをどうして手に持つのよ?」

「それは副長に聞いてくれ。偶然だよ」

「ふーん」


 やれやれ、肩を竦めて見せるが裂海は疑惑を向けてくる。

 どうしたものかと悩んでいるとスマートフォンが不快な音を鳴らした。本日二度目となる緊急の呼び出しだ。


「優呼」

「……分かってるわ」


 一応の断りを入れてから画面をスライドさせる。

 表示には青山の文字。


「榊です」

『青山だ。今稚内にいるんだが、領海を警戒していた海軍から緊急の呼び出しがあった。どうやらロマノフの艦隊が動いているらしい』

「どういうことです?」

『軍内ではロマノフ側に亡命が露見したのではないかという憶測が広がっている。下手をすれば仕掛けてくるのではないか、とな』

「まさか、そこまでの強硬策を講じるとは思えません。下手をすれば戦争になります」

『同感だ。亡命を希望する人間はロマノフ空軍の士官。持っている情報も高が知れているだろう。しかし、緊張が高まれば暴発しないとも限らない』


 青山の懸念はもっともだ。現場で圧力をかけられ続ければ現場で何があるか分からない。

 ここは最大限の警戒をすべきだろう。


「分かりました。私も市ヶ谷に掛け合います」

『すまない。俺もすぐに部隊と合流する。せっかく骨を折らせたのにすまない』

「いえ、このようなこともあるものです。進展があればこちらからも連絡いたします」

『頼む』


 通話が切れる。

 どうやら、事態は予想以上の展開を見せているらしい。


「優呼」

「……なによ」

「副長を頼む。こっちはやることができた」

「分かってるわよ」

「すまない」

「バカ」


 罵声を背に衣類をクリーニング用の籠に押し込み、部屋の外へと置くと執務室へと急いだ。

 面倒事はまだ終わっていないらしい。



     ◆



 夢を見た。

 不安で、苦しくて、助けを求めた手を誰かが握ってくれる。

 温もりは孤独や寂しさからも救ってくれるようで、心地よかった。

 誰?

 感触が遠くなる。

 追い求めるように手を伸ばしてもするりと逃げてしまう。

 行かないで。

 祈りも虚しく温度も輪郭も消える。


「父上……!」


 気が付けば、そこは自室だった。

 見慣れた天井に見慣れた室内。

 自分がどういう状態なのか分からないまま、霧姫は首だけを動かして周囲を見渡す。


「優呼?」


 ベッドの傍らで裂海優呼が寝ている。

 霧姫の手を握っているのも部下の小さな手だった。


「すまない」


 労うように握り返すが反応はない。

 枕もとの時計は深夜二時を指しいた。


「どうして部屋に……。確か、朝……榊に……」


 霞がかかったように頭がぼんやりとしている。

 記憶も曖昧で全く思い出せない。


「そうだ、こうしていられない」


 責任感か使命感、自分でもどちらか分からないものに突き動かされながら霧姫は自室を出る。

 自然と足が向かったのは自らの執務室。そこで何かをしなければならないような気がして、深夜の近衛本部を歩く。

 ふらふらとした足取りのままたどり着いた執務室からは明かりが漏れていた。


「誰かいるのか?」


 半分開いたドアノブを押し込み、中へと入った。


「……!」


 明かりが点いたままの室内、ソファーの上には突っ伏すように寝る榊の姿がある。

 手元には書類が散乱し、パソコンも電源が入ったまま。何かの作業の途中で力尽きたのだろう。


「こんな夜中まで、いったい何を……」


 嘆息し、起こそうと隣に座って体を揺するが反応はない。


「榊、起きろ……」


 霧姫は自分が無意識のまま後生大事に持っていたものに気付く。

 それが部下の愛用するペンだと思い至るには数分の時間が必要だった。


「……どうしてこれが?」


 今持ったわけではない。

 ということは、つまり――――。


「!」


 記憶が急速に蘇る。

 朝、この部屋で倒れたこと。

 榊に抱かれて医務室へいったこと。

 注射をされ、ノーラに部屋まで送り届けてもらったこと。

 生々しいまでの温度を思い出し、霧姫は息を飲んだ。


「まさか……榊が?」


 いや、そんなはずはない。

 この朴念仁、ロリコンの仕事人間にそんな甲斐性はないはずだ。

 では、あの包み込むような温かさはなんだったのだろうか。

  手の残る温度と、榊の体温が余りに酷似しているようで、霧姫はしばらく榊の肩に手を置いたままになっていた。


 どれくらい時間が経っただろうか。テーブルの上に置かれたスマートフォンの振動で我に返る。

 榊の私物なのだが気にせず手に取ると、メールが届いていた。

 差出人は青山総司、件名は連邦に動きあり。

 たった一日の間に事件は起こり、事態が進行していた。


「休んでいる暇はなさそうだな」


 スマートフォンを投げる。

 時勢は留まってはくれず、時代は変化を続ける。


「……」


 倒れている暇などないはずなのに、榊の寝顔を見ていると揺り動かそうとした手が肩を通り越して首、頭をへと伸びる。

 そういえば、日桜殿下は榊の髪を撫でるのが好きだといっていた。

 少し太い髪は指通りも良く心地良く、耳、頬となぞるのも楽しい。


「もう少しこのまま……」


 せめて朝日が昇るまでは――――。

  

     ◇


 翌朝、鷹司の不在に気付いた裂海優呼と、榊の部屋に闖入しようとしたちび三人が不在に気付き、揃って執務室で眠る二人を見つけることになるのだが、それはまた別の話である。


パソコンのトラブルで投稿時間が遅くなってしまいました。

お詫びいたします。


今回で短編は終わりとなります。

第五部については少し時間を置いてからの掲載となります。

進捗については活動報告にて月一くらいは書きます。どうしても気になる方は逆波のTwitterをご覧ください。

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