エピローグ
季節は新緑から梅雨へと移りつつある。
肌寒かった風は熱まで帯びてじっとりとまとわりつくようだ。
「ふう」
約半月ぶりに鷹司霧姫は自らの執務室へと戻ってきた。
体を包む近衛服に以前のような密着感はない。筋肉が衰えてしまい、歩くだけでも息が切れた。
「これではヤツを笑えんな」
事件を解決するたびに入院する問題児を思い出す。
今頃ベッドに横たわっているだろう姿を想像して、鷹司の顔には笑みが浮かんでいた。
髪は銀色のまま、生命力の減少から愛刀の宗近を持つこともでず、未だ自由に動かない体に鞭打ってここまで来たのには理由がある。
「さて……」
事の顛末は立花直虎から聞いた。
榊平蔵がやろうとしていることの資料は近衛でも共有されている。鷹司にとってそれらは表面上の結論であり、重要であってもすでに決定された既定路線でしかない。どうしてそこに行き着いたのか、なぜそんな考えが出てきたのかを知らねばならない。
「……」
黙々と榊がまとめたであろう資料を読んでいく。
彼は日付を書く癖がある。
それはかなりの時間を一緒に過ごした鷹司だからこそ知り得る情報だ。作った資料と一緒にたどれば考え方の変化までたどることができる。
「かなり早い段階から企業化は考えていたようだな。それにODA、政府開発援助も並行して追っている。各地で工作員を探し、接触は避けるように仕向けている。徹底して対立を避けたのか」
この様子では昨年末の事件、騎士王との直接対決がよほど応えたらしい。
力では絶対に及ばない。戦略でも戦術でも抗えない存在がいることに気付いたのだろう。戦わずに済む方法を探しているようだった。
「だが……これは弱者の理論だ」
歯噛みをする。
ここに至って、彼に正しい対処を教えられなかったことを鷹司は悔いる。
勝てないから戦わない、という方針は強大国からすれば格好の的であり、餌にしか見えない。
本当の解決方法は警察、陸軍、公安と連携して全面対決。血で血を洗うことも厭わない姿勢が求められる。企業化を許すなど事情を知った他国が同じことを企みかねない。我も我もと押し寄せては国防など成り立たなくなる。
「私が言えた義理ではないがな」
なにせ、白凱浬から必殺の一撃を受け、下手をすれば死んでいた。
文句が有っても言えやしない。鷹司の仕事はさらなる暗躍が予想される各国諜報機関との対峙になった。
「次期副長候補か、せめて代理を探しておくべきかもしれん」
バックアップ、とまではいかないが考えを鷹司と共有できる人間が必要だ。
真っ先に浮かんだのは立花直虎だったのだが、彼女の心を知ってしまった今となっては悩みもの。
第一大隊長青山総司は協調性がなくマイペース、隊長の連城は復帰の見通しが立たない。帝都に駐留する第三大隊長卯木尚人は昔気質で融通が利かず、第四大隊長久瀬薫は慎重すぎて決断が遅い。
「あのバカの相手もできると……」
榊を諫めつつ舵取りもできなければならない。
大隊長でなくともせめて固有持ちが良い。近衛の人材不足に頭が痛くなってくる。
「宗忠は……主体性がない。優呼は若すぎる……あとは……」
頭が痛いといえばここ数日、新聞を賑わせている城山英雄の方針転換。
現政府の方針を取り入れ、表向きはシンガポール、実際には共和国資本の企業支援を打ち出して世間から注目を集めていた。
保守派の大物が示した未来構想には多くの期待と同じだけの疑念がつきまとう。しかし、弁舌冴えわたる政治家は悪名すら巧みに利用することだろう。
「台風のような奴だな」
榊平蔵が動いた後では景色が一変する。近衛に来てたった一年でコレだ。
「やれやれ、先が思いやられる」
深々と溜息をついたはずの口元は弧を描く。
無意識に浮かべていた笑みの理由は鷹司本人も分からない。
◆
大人と子供を分けるものは何かといえば、責任が取れるか、取れないかではないかと思う。
ある人は大人の大半は子供でいられなくなった人だと述べていた。確かに子供でいられなくなった部分はあるだろう。しかし、自ら進んで大人になる人間も少ない。
皆が立派ではなく、仕方ない部分を引きずりながらも周囲に支えられて大人になる。
その集大成が責任。支えも含め自らで立ち、責任を負う。
頬が痛い。
バチバチという音も聞こえる。
「平蔵、起きなさい! 誰が瞼を閉じていいといったの!」
「千景さん、落ち着いて!」
「ノーラもやりなさい。こんなことくらいじゃ死なないんだから!」
「で、でも……」
「平蔵は、平蔵は死なない……」
繰り返される言葉が深い水底にあった意識を引っ張ってくれる。
導かれるように目を開けば、涙で顔をぐしゃぐしゃにした千景がいた。
「死なな……」
「! 千景さん、ストップです」
馬乗りになって振り下ろした手が丁度頬に当たる。
ぼやける視界を動かせばノーラが、その後ろには病院なのに長煙管を咥えた伊舞の姿もある。
「なによノーラ、止めないで……」
「違います、ヘイゾーさんの目が」
「目?」
千景が驚き、両手で顔を掴まれる。
体に力が入らないので抗いようがない。
「平蔵、私がわかる?」
「朝来さん」
「はいはい、ちょっと待ちなさい」
割って入った伊舞に脈をとられ、瞼をめくられる。
反応を確かめるように色々と触られ、最後に顔を寄せて、
「死ねなかったことを後悔なさい」
ババアの囁きで意識が明瞭になる。
目覚ましに採用すれば遅刻が世界からなくなるだろう。
怖気が身震いとなって全身を伝い、意識は明瞭になっていく。
「……死ぬかと思いました」
「いい度胸ね」
長煙管で小突かれる。
「はい、お待たせ。もういいわよ」
ババアのお墨付きをもらい千景とノーラが抱き着いてくる。
千景の目は泣き腫らしたのか真っ赤、ノーラは憔悴していた。
「馬鹿!」
「大丈夫ですか?」
二人の心配に曖昧な笑みで応じる。
大丈夫、ではないのだが、死ぬことはないだろうと高を括っていたことは否めない。
「千景様、ご心配をおかけしました。ノーラもありがとう」
「本当よ! 心配ばかりさせて!」
「ヘイゾウさんは無茶ばかりです」
そんなに心配されると思わなかった、というのが本音なのだがこの体たらくでは無理もないのだろうか。少しでも安心させようとベッドから体を起こそうとする。
「ちょっと、まだ寝ていなさい!」
「起きてはダメです」
今度は揃って押さえつけようとする二人に首を振り、居住まいを正した。
「申し訳ありませんでした。どうしても必要なことだったので、やむを得ませんでした……では納得していただけませんか?」
「当然よ」
「そうです!」
鬼の形相で怒られる。
まぁ、詳細を知らないのだから当然。俺自身、死にかけることに抵抗がなくなっているのも問題かもしれない。
「そうですね、どのようにご説明申し上げたらよいやら……」
「違うわ! 私たちが怒っているのは別の理由なの!」
「ヘイゾウさんは何にも分かっていません!」
「はいはい、文句はもっと元気になってからにして頂戴。ここは病院、コイツも一応ケガ人なんだから」
「……」
「……」
伊舞の言葉に文句を言いたそうなちび二人だったのだが、病院、ケガ人の言葉が引っかかったのか、あるいは教育のなせる業か、顔を見合わせてすんなり引き下がる。
「また来るわ」
「お大事になさってください」
伊舞にも一礼をすると少し後ろ髪引かれるような千景をノーラが押していく。
物分かりが良いのは有り難い。
「アンタ、そのうち刺されるわよ?」
「それで解決するなら構いません」
「馬鹿じゃないの?」
心底呆れた目で、侮蔑を向けられてしまった。
女は怖い。
「……体は動くのかしら?」
「問題ありません。腕も治療していただいたのですね」
「当然よ。むしろ腕の方が危なかったくらい。断面は完全に炭化していたし、無理矢理くっつけたもんだから神経や血管もぐちゃぐちゃ。何かを持てるようになるには一ヶ月ってところね」
「そんなにかかりますか?」
「普通の近衛なら半年はかかるわ。下手すれば接合できずに片腕無くすのよ!」
「し、失礼しました。反省しています」
ババアの剣幕に降参のポーズをとる。
腕の上げ下げはできるが、左は二の腕の部分で包帯が巻かれ、引き攣ることから糸か金属で接合の補助をしてるのだろう。
「まったく、いつもいつも死にかけて、何様のつもり? 日桜を宥め賺すのはアンタの仕事でしょうが!」
「すみません。でも、直虎さんを止めないと、あの人相打ちで死んでましたよ」
「……」
「あの、直虎さんのこと分かってて俺に預けましたよね?」
「……知らないわ」
「痴呆ですか? 介護しませんよ」
「うっさいのよ。アンタを買被っていたわ」
長煙管で小突かれる。
図星らしい。
「最善とは申しませんが、次善策くらいだったと自負しています。伊舞さんなら止められます?」
「出来たわ。だから、立花勝頼にはアンタから説明しなさい」
「……拒否権はありますか?」
「ないわね」
軍法会議真っ青だ。弁護人もいない。
説明に行くなら九州まで足を伸ばす必要もある。
げんなりしながら考えていると伊舞は病院だというのに煙管に火を着け、紫煙を燻らせる。本題はここからだ。
「その様子では言いたいことがあるようですが……」
「山ほどあるわよ。そうね、まずは無茶をした理由を聞きましょうか」
伊舞は腐っても医者だ。
俺の反応を見ながら様子を確かめているのかもしれない。
「そう……ですね、白凱浬が持っていた薬はどれも一度は摂取経験がある。予想以上の効果と持続性があったことは誤算でしたが、生存率は高いと思っていました」
「呆れた。やっぱり気付いていたのね」
「調べることも仕事のうちです。伊舞さんは分かっていて俺に教えなかった。違いますか?」
「教えたら無茶するでしょう? 言わなくてもしたけれど」
「ご明察です」
伊舞のため息が大きい。
鷹司の体から検出された成分はどれも漢方薬で用いられるものであることがわかった。加えて虎のように毒を操る武官がいるなら、薬を扱う存在がいてもおかしくない。
漢方薬といえば様々な場面で世話になる。胃薬、風邪薬、頭痛薬といった具合に幅広く使われ、医療の現場でも成分だけを抽出した処方箋と併用することで副作用を抑制する、局所的ではなく体質改善にも用いられる。少量でも一度でも経験しているのなら耐えられると踏んだわけだ。
「アンタの予想通りなら摂取経験のある薬の方が大したことはない。でも違った。白凱浬が所持していたものは五苓散という方剤に改良を加えたもので、向こうは天王丸と呼んでいたけれどかなりの量のアンフェタミンが含まれていた」
「アンフェタミン?」
「覚醒剤。おかげで白凱浬も治療する羽目になったんだから」
「本人はそれを……」
「知らなかったみたいね。かなり効き目を強くしてあって、一般人なら一回でもオーバードースって量よ」
背筋が凍る。
「……つまり」
「名前は朱申、同じ武官らしいわ」
疑問が一つ氷解する。
やはり、日本国内で活動する人数を白凱浬一人でまとめられるはずがない。二~三人のリーダー格が存在すると思ったのは正解だった。しかし、そこまでだとは思わなかった。
「そいつの動向は?」
「分からないわ。連絡手段も全部途切れていて呼びかけようがない。それに、仲間すら操るようなヤツを計画に参加させるわけにはいかないでしょう」
「白凱浬はなんと?」
「相当ショックだったみたいよ」
そうだろう。
共和国では武官が疎まれ、追いやられるように日本に来た。
同じ立場、同じ境遇の人間に裏切られたのは応えるだろう。
「他人の心配してる余裕はないわよ」
「そう……ですね」
伊舞が鋭く切り込んでくる。
「自覚あるみたいだから言うけど、前回に続きアンタは近衛として例外的なくらい手を伸ばしたわ。政治家、関係省庁それに地方自治体。年末の総裁選で城山英雄が票を集めれば政権にだって大きく関与する」
「覚悟しています」
「過去に照らし合わせれば近衛の領分を逸脱する。その自覚はあるの?」
「伊舞さん、私たちの役目は何でしょうか」
「…………私たちは武士よ」
「分かっています。ですが、それではこれからの時勢を乗り越えていくことは難しい。国難の時代が必ず来ます。寄り添うだけでなく理想を共有する存在でなければならないと考えます」
「具体的には?」
「殿下が御望みになるなら、共和国でも連邦でもお供します」
「そう思うならあまり無茶しないの。ほら……」
伊舞が顎で示す先、少しだけ開いたドアから小さな影が覗く。
艶やかな黒髪に、輝く髪飾りはちび殿下しかいない。
「何回泣かせるのよ」
「すみません。ですが、先ほども申しました通り必要でした。鷹司副長と互角に戦い、あの騎士王すら一目置く達人を説得できたのですから」
「実際、上手くまとめたと思うわ。時間も人員も限られた中では最善だったかもしれない。でもね、最良ではないのよ。少なくとも日桜にとっては」
「……」
伊舞の言葉に今度は俺が黙る番だった。
「信頼を自己犠牲の言い訳にしないの。これしかなかった、ってのはアンタだけで考えた場合よ」
「……」
「世界で一番頭が良いと自負するなら構わないわ。でも、そうではないでしょう?」
「はい」
睨まれる、というよりは諫めるような眼差しに頷くことしかできない。
心のどこかで、いや、覚めてからどこかで自分は死なないのではないか、自分なら大丈夫なのではないか、という驕りがある。
「だったら相談なさい。私たちはそんなに頼りないかしら」
「……はい」
「分かっているのならいいわ。ほら、待っているのだから呼んであげなさい」
長煙管を咥えたまま伊舞は行ってしまう。
途中で殿下の頭を撫で、後ろに控えているであろう直虎さんにちょっかいを出して、足音が遠ざかる。
「日桜殿下」
待ち焦がれたように御子服姿の殿下が顔を出す。
なのに、
「……」
「?」
一向にこちらへ来ない。
訝しんで身を乗り出すと細められた眼と膨らんだ頬が見えたので笑ってしまった。
なるほど、伊舞はこのことを指していたのだろう。勝手に死にかけたので怒っているのだ。
「殿下、申し訳ありませんでした」
「……」
「もう無断でこのようなことは致しません」
「……こんなことをしない、ではないのですか?」
「次からは事前に相談します」
「……だめ、です」
瞳に涙が浮かび、首を振る。
ああ、本当にこの子は俺を心配してくれる。
「殿下」
「……!」
手を広げれば飛びついてくる。
まったく、困った第一皇女様だ。
「申し訳ありません」
「……ばか、さかきの、ばか」
言葉が嗚咽に変わる。
肩は震えて小さな手は精一杯であろう力で抱きしめてくれる。
「殿下は私の志を汲んではくださらないのですか?」
「……じぶんだけ、らくをしないで」
「楽、ですか?」
「……さかきがいなくなったら、かなしむの、だれですか? くるしいのは、だれですか?」
「そ、それは」
「……のこされるのは、だれですか?」
「殿下」
言葉の真意を思い知る。
死ぬことは簡単だ。
英雄を気取って華々しく散るのは後腐れがない。しかし、その裏では人が必ず泣く。想いが強いほどに強く焼き付くだろう。その傷は生涯消えることはない。
そうか、と自分の軽率を恥じる。
俺はこの子に、一生消えない傷を作ろうとしていた。忘れてほしいと願ってはいるが、難しいのかもしれない。
「申し訳ありません」
「……ばか」
小さな背中をあやすように叩く。
「私の命、殿下にお預けします」
「……!」
「これでご安心いただけますか?」
「……うそ、だめです」
「本当です。私が嘘をついたことがありましたか?」
「……あります。いっぱい、です」
首元にがしがし噛みつかれる。
痛くもないので気にしない。
「では証人をたてましょう。直虎さん」
「は、はい」
恐る恐る顔を出した美貌の女剣士はバツが悪そうにもじもじしていた。
なんだろう、一周回って可愛らしい。
噛みついたままの殿下を引っぺがしてベッドの上に座らせる。
「私、榊平蔵は命を日桜殿下にお預けします」
「……かってにしぬことは、ゆるしません」
「はい」
「……じぜんに、ぜんぶそうだんしてください」
「承知しました」
「……なおとら」
「はっ、僭越ながら立花直虎が証人となります」
ようやく満足したのか、吊り上がっていたちび殿下の眦が下がる。
肩の荷が下りたのか、それとも安心からか、力が抜けた。
「これでよろしいですか?」
「……まだ、です」
「とは申されましても、私から差し上げるものはありません」
ちび殿下は首を振り、正座をした太ももをぺちぺち叩く。
「今回は褒められるようなことしていませんが……」
「……こんかいは、おしおき、です」
「膝枕がですか?」
「……さかきが、よいこになるため、です」
「こじつけです。それに直虎さんもいるじゃないですか」
抗えばちび殿下は頬を膨らませ、忠実なる臣下は一瞬にして主の不機嫌を悟ると、
「の、飲み物を調達してまいります!」
と回れ右をして出て行ってしまった。
まったくもって役に立たない。
「はぁ……」
「……はやく、さかき」
「はいはい、承知しました」
いつもの如く膝枕をされる。
髪をくしゃくしゃに撫でまわされ、顔をべたべたに触られる。
「……まだどこか、いたいですか?」
「もう大丈夫です。殿下こそ大舞台をお任せしました。申し訳ありません」
「……よいのです」
戻ってきた笑顔に安心しながら目を閉じる。
こんな時間がもう少し続くようにと願わずにはいられない。
了
今回で第四部は完結となります。
気になる部分がたくさんあるかと思いますが、一区切りにさせてください。
次週からは第四部の補完となる短編が始まります。
問題が浮き彫りになった直虎、ちび三人、あとは鷹司あたりを考えています。
活動報告に詳しく書きましたのでそちらもどうぞ。
最後に、拙作の第二巻が発売中です。
こちらもどうかよろしくお願いします。