一九話
時計の針が午前0時を指す。
ほとんど自室と化した鷹司の執務室で目頭を揉み、溜息とも深呼吸ともつかないものをして、冷めきったコーヒーを飲んだ。
「ふぅ」
パソコンを前に作っていたのは白凱浬に渡す民間連携事業の計画書。発展途上国への支援という形で、共和国へ浄水技術を提供する。
政界、財界からかなりの風当たりが予想されたのだが城山英雄と川島法務大臣の尽力により最小限に抑えられていた。
「あとは、これを本人に届けるだけなんだが……」
表示画面で印刷を選び、実行を押す。
レーザープリンターから吐き出される用紙を手に取って、最後のチェックをすれば出来上がりだ。
紙束をクリップで留め、分厚い封筒に入れる。データだけでもいいのだが、印刷したものがあった方が手っ取り早い。準備はできた、そう思っていると執務室のドアが叩かれる。
「どうぞ」
こんなに時間に誰だ?
訝しんでいるとドアの向こうから小さい頭が見える。
「……いいですか?」
「ダメと申し上げても戻ってはいただけないのは分かっています。どうぞ」
「……はい」
案の定、ちび殿下が入ってくる。
本当なら寝る時間なのだが、なにか理由があるのだろう。
「ただいま椅子をご用意……」
「……ここで、いいです」
立ち上がろうとしたところを引っ張られ、膝の上に登られてしまう。
「御一人ですか?」
「……なおとらも、います」
「んっ?」
ドアの方をみれば、確かに強烈な存在感がある。
きっと見張っているに違いない。
「それでは就寝時間になられたのに御出でいただいた理由を伺いましょう」
「……なおとらから、たいへんだと、ききました」
「近衛にきてから大変でなかったことなどありません」
「……むずかしいこうしょうを、するのではないですか?」
「交渉事に簡単なものはありません。簡単に考えることはできますが、油断をすればご破算となります」
「……さかきは、いつもごまかします」
「滅相も……」
しかめっ面の殿下がシャツを引っ張る。
「主を前に腹の探り合いをしても仕方ありません。殿下の目的を伺いましょう」
「……かってきままなしんか、です」
「お褒めいただき恐縮です。私の特技ですよ」
「……わるいこ」
今度は頬を引っ張られる。
寄った眉根が不安を表していた。
「大丈夫です、今回は」
「……かくしごと、だめ、です」
「していません。殿下だって直虎さんからお聞きになっているでしょう?」
「……! どうして、しっていますか?」
「当然です。あの真面目で素直な直虎さんが殿下の問いに答えないはずがありません。少しは渋るかもしれませんが、無駄ですね」
直虎さんから殿下へのことは予想できた。
なにせベタ甘な人なのだからちび殿下が少し拗ねた振りでもすれば簡単に口を割るだろう。部屋に入ってこなかったのも顔を合わせ辛かったからに違いない。
「……てごわい、です」
「あのですね、私だって反省もすれば後悔もします。昨年のことは……申し訳ありませんでした」
「……かまいません。さかきこそ、そのことはなし、です」
真っ直ぐな瞳に射貫かれて諸手を上げる。
「今回は、本当に隠すことなどないのです。こちらをどうぞ」
上げた手を小さな肩まで下し、パソコンの方に向け、片手でカーソルを動かし、もう片方で画面を直になぞる。
「今回の発端はご存知ですか?」
「……はい。かのくにの、あんやくである、と」
「首謀者、かどうかは分かりませんが重要人物に白凱浬という存在がいます。副長と戦ったのも白凱浬。旧大秦国の皇帝一族を人質に取られたものが焦るあまり、我が国の人間とぶつかったわけです」
「……そのげんいんが、みず」
「はい。調べたところによりますと、彼の国は今、水質汚染が進んでいます……」
政治家に話したことと同じことを説明する。
直虎さんから聞いているだろうが、当事者から聞くのでは意味合いが変わってくる。
「私は今件を軸に、大陸への橋頭堡を作りたいと考えております。技術支援が可能となれば人員を送り込める。ベールに包まれた彼の国を知ることができます」
「……しる」
「相互理解への第一歩は互いを知ることです。今までは一方的に調べられるばかりでしたが、相手の内情を理解することで見えるものもあるでしょう」
「……そのとおり、です」
「知ることで衝突を避けることも出来ましょう。さすれば緊張を続ける必要もありません。今でなくともいい、両国間の未来のためになります」
俺の話を聞きながら、殿下は計画書を読み進め、しばらくすると自分でボタン操作をしながら、何度も読み返した。
「ご納得いただけましたか?」
「……さかきのかんがえは、わかりました」
「恐縮です」
「……」
「どうかなさいましたか?」
ちび殿下は俺と画面を交互にみながらもじもじしている。
「……わたしに、できることはありませんか?」
「おっしゃる意味が分かりかねますが……」
「……さかきのために、できること……ありませんか?」
目を伏せたと思えば上目遣いに見てくる。
まったく、心配性な第一皇女様だ。
「今のところは大丈夫です。なにかありましたら一番にご相談させていただきます」
「……やくそく、です」
「承知しました」
「……はい」
振り向き抱きしめられる。
「……さかき」
「まだなにか?」
「……だれひとりかけても、わたしは、かなしいです」
「はい」
「……もどってきてください。わたしのもとに」
「承知しました」
安心させるように背中をさする。
体温を感じながら夜は更けていった。
◆
木を隠すには森の中、人を隠すにはやはり人の中。
逃亡犯、潜入工作員の心理として重要なのは自身が目立たないこと。
加えてなにかあったときのために逃げ込める場所が欲しい。
外務省からもたらされた情報に、公安調査庁、陸軍諜報部、さらには各都道府県警からの情報を総動員した捜査網に引っ掛かったのは神奈川県川崎市だった。
主要幹線道路が通り、多摩川という水路がある。臨海にある工業地帯は身を隠すこともできるだろう。アクアラインで千葉県とつながっているという点でも納得ができた。
夜の帳がおりた頃、俺と直虎さんは川崎市川崎区浮島にいた。
浮島インターチェンジの光を背に、工業地帯を進む。
「榊殿はいつから網を張っていたのですか?」
「関東の沿岸地域、特に重要港湾がある地域には協力を求めていましたが、包囲網が完成したのはつい先日です。鶴の一声には敵いません」
「随分含みがあるのですね」
「以前、陸軍の川島参謀長に目無し耳無しと言われました。近衛単独ではやはりどうしようもない。政治家から得られる情報も限られます。事に当たるのなら連携が必要です」
「お言葉の割に、私たちに同行者がいないのは……」
「足手まとい、とまでは言えませんが彼らを人質に取られては元も子もありません。あとは交渉の場面を見られたくないというのもあります」
「彼らには彼らの役目、我らには我らの役目……でしょうか」
「その通りです」
軽口を叩きながら古びた倉庫の間を抜け、配管入り組む工場を横目に目的の場所へとたどり着く。
物流、鉄鋼、商社、石油と大会社がひしめき合う場所で海運会社というのはほとんど目立たない。
一昔前までは隆盛を誇った業界ではあるのだが、今は土地貸しや不動産業の方で稼いでいる。
結果として倉庫の中身は古ぼけ、管理も杜撰だ。
「さて、参りましょうか」
「ははっ」
錆びの付いたドアハンドルを蹴って中に入る。
「…………」
「…………」
突然の闖入に居並ぶ面々が身を固くする。
瞬時に身構えるもの、こちらの動向を注視するもの、無数の段ボールにかくれるものと様々だ。
「お寛ぎのところ失礼、私は近衛府より参りました。白凱浬殿との面談を求めます」
近衛府、の辺りで数人が目配せをする。
このくらいの反応はするだろうと思っていると、隣の美人が前に出た。
「包囲網はすでに完成している。無駄死にをしては貴殿らの主が悲しむぞ」
思わせぶりな直虎さんの言葉にあるものは眉を顰め、あるものは周囲とジェスチャーを交わす。
誰もが右往左往するなかで、スーツ姿の一人がこちらを凝視していた。
凍てつく眼差し、深淵のような雰囲気は少し前に体感している。
「ああ、そこにいらしたのですか。面をつけていらっしゃらなかったので分かりませんでした」
言葉を向ければ殺気が膨れ上がる。
間違いない、ヤツが白凱浬だ。
「ご心配なく。私に争うつもりはありません。ただ、こちらを見ていただきたく、お持ちしました」
書類の束を手にしたまま両手を上げる。
直虎さんはそのままだが、まぁいいだろう。
「凱浬様」
「老子……」
誰もがスーツ姿へと視線を向ける。
なのに、当の白凱浬だけは俺に強烈な殺気をぶつけ続けていた。
「名を……」
「はい?」
「名乗れ」
「……申し遅れました。私は榊と申します。近衛第九大隊長にして鷹司霧姫の代理。昨年、新潟であなた方の同志を捕らえたのも私です」
「やはり……!」
男たちがざわつく。
どこまで情報共有をしているかは疑問だったが、結束が強いという見方は間違っていないらしい。
白凱浬はどこからか取り出した極彩色の猿面を着けると、ざわめきを背負ってやってくる。
「どうしてここが分かった?」
「お話してもいいですけれど、逃げるための時間稼ぎは止めてください。付近一帯は非常線を張ってありますし、海上には軍と近衛もいます。ここにあなた以外の武官がいないことも知っています」
「……」
面の奥から歯ぎしりが聞こえる。
白凱浬は激情を宿し、面でそれを隠すもの。そうでもしないと表情から全てわかってしまうのだろう。裏を返せば自らを知っていることになる。
「ここまでの分析から……より正確に申し上げるならば諜報部の分析から、数カ月間、あなた方が本国からのバックアップを受けていないこと、ほとんど独自で動いていることが分かりました。海上での取り締まりを徹底しましたから補給は期待できない。外務大臣に告げ口したので税関も厳しくなり活動の資金源となる麻薬も入ってこなければ迂闊に出すこともできない。オマケに鷹司とやりあったことで動きづらくなった」
「……貴様が仕掛けたのか?」
「半分くらいでしょうか。日本には外堀を埋めるという言葉があります。目的を達するために周辺の問題から処理することを指します。今回はある程度の権限がありましたので簡単でした」
「目的はなんだ?」
「互いの問題を解決したいのです。八方塞がりとなった今なら呑んでいただけるのではないかと思いました」
「貴様がそう仕向けたのだろう」
「はい」
当然だ。
満腹の狼に餌を投げても寄ってこない。極限まで飢えさせ、水すら断ち、鳴く気力すら奪わなければ人の手からエサなど食べない。
「……」
「……」
数十の殺気が集中するのが分かる。
白凱浬が鷹司と戦ってから約半月、彼らは危機感を抱き続ける毎日だったのだろうが、それはこちら側も同じこと。皮肉にも結束を促してしまったのだから。
「問題の解決とは?」
「あなた方の目的はだいたい把握したつもりでいます。ですが、確証はありません。私の想像が正しければ解決策として提案をさせていただきます」
「間違っていればお引き取り願えるのか?」
「大人しく拘置所の中に入っていただけるなら……」
「……」
「どのみち、このままではいられないでしょう。活動資金がなければ目的は遠のきます。健全に就労していただけるなら考えますが、当然犯罪に手を染める。強盗傷害、暴力団あたりと抗争しても先は見えています」
「ならば貴様から話せ」
「少し長くなりますよ?」
「構わない。夜は……まだ長い」
猿面の奥で白凱浬の目が細くなる。
気付けば、白凱浬の手から水が滴っていた。
「榊殿!」
直虎さんが刀を抜いて前に出る。
水の奔流が足元から噴き上がり、部屋中に広がった。
「貴様らに、我らの苦しみは分からない」
「……」
膨大な水塊を従え、白凱浬の口から怨嗟が漏れる。
「非常線? 近衛? 軍? そんなもの、全て押し流してやる」
「榊殿、おさがりください!」
「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」
怨嗟が濁流となって押し寄せる。
「榊殿!」
襟首をつかまれ、体を引っ張り上げられる。
戦わずにすめばいいと思ったのだが、どうにも思い通りにはならないらしい。
オーバーラップ公式で口絵と立ち読みが公開になっています。
ぜひご覧ください。
直虎のラフ画を活動報告に掲載しました。
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