一六話
休日は大切だ。体を休ませ、心を洗う。人によっては休みを待ちながら生活していることだろう。
サラリーマン時代は昼迄寝て、遅めのランチをとりながら新聞を読み、夕方から出掛けて夜外食をして戻ってくる。
一年近く近衛にいれば曜日の感覚などなくなって久しい。
今日が土曜日だと思い知らされたのは胸元にしがみついた千景の存在にある。
副長室の扉を開け、会釈をするまでは普通だった元ご主人様は、俺の前まで来ると抵抗する隙を与えないまま抱き着いてきた。
「どういうつもりですか?」
「……うるさいのよ、バカ」
「仕事中なのですが……」
「すればいいじゃない」
夏には早いというのに、ひらひらのワンピースを着た千景の肩は冷たい。
上着を脱いでかけてやるとしがみついたまま深呼吸を繰り返している。
「このままでも構いませんが、書類は見ないでください。機密文書ですので」
「興味ないわ」
まぁ、そうだろう。
手元にあるのは米軍、海軍と外務省からの機密文書。国際問題にまで発展しそうなものを好む中学生というのはあまりいない。
机の上に置いてある冷たくなったコーヒーを含み、気を取り直して仕事に戻る。
「ふむ……」
今日になって外務大臣に要求していたものは届いた。
思った通り、共和国の大都市は急激な開発によって水質汚染が進んでいる。もっとも、水質だけではなく大気や土壌の状態も深刻だ。経済成長を続ければ環境破壊は当然の代償ともいえる。
「瀋陽は運河の都市。周囲にこれだけの工業施設があると汚染の度合いは相当なものだろう……」
水は濁り、ヘドロが堆積した水底には生き物が住めず、浄化が望めない。冬ならばまだマシだろうが、温かくなれば悪臭を放つはずだ。
瀋陽の汚染は思った通りなのだが、北京は首都だけあって数値上は綺麗だ。工業施設なども遠ざけられ、汚染もさほど進んでいない。しかし、水だけは別だ。膨大な人口を抱える共和国では上水に使われるダムにまで生活排水が流れ込んでいる。技術がどれほどあるかは分からないが、水道水は飲めたものではないだろう。
情報を整理していると疑問が浮かぶ。
水道水が飲めなければミネラルウォーターを輸入すればいい。それが日本産でなくてもいいはずだ。
思考に耽っていると胸元の中学生がごそごそと動く。
「千景様、あまり動くとせっかくの御召物にしわが寄りますよ」
「なにか感想はないの?」
「良くお似合いですが、それ以上は……」
正直を口にしたのに上目づかいで睨まれる。
なんとなく理不尽な気がする。
「朴念仁、鈍感、仕事人間」
「否定はしません」
罵詈雑言を聞き流しながら次の資料を手にする。
外務省が国際警察と欧州連合から集めてくれた白凱浬に関するもので、主だったものは交戦記録が占める。
「白凱浬、年齢性別は不明。活動が頻繁になったのはここ一〇年ほど、オスマン帝国との小競り合い、インド国境で大英帝国とぶつかった。ここで騎士王殿と戦っている。騎士王殿か……」
昨年末の出来事はあまり思い出したくない。無茶と無謀の結末は完敗である上に手心まで加えられた。
クレーム処理で失敗し、穴埋めをしてもらい、損害まで補てんしてもらったようなものだ。借りというには大きすぎる。
「しかし、今は背に腹は代えられ……千景様、御戯れは止めてください。左胸には心臓しかありません」
千景は俺の左胸に耳を当てている。
年頃の女の子のやることはいまいち理解できない。
「早くならないのね」
「何がですか?」
いちいち構っているわけにもいかず、仕事を進めるべく自分のスマートフォンを取り出し、以前登録した大英帝国大使館へとかける。
「近衛府の榊と申します。昨年はお世話になりました。折り入ってお願いがあるのですが……」
用件を告げれば、担当者の嘆きが聞こえる。
まぁ、相手側からすればあまり歓迎されることではない。
「電話でもメールでも、どちらでも構いません。なるべく早いと助かります。それでは、失礼します」
短いやり取りを終えて通話を切る。視線を下げれば千景はシャツのボタンを外そうとしていたので、鼻をつまんだ。
「はにふるの?」
「それはこちらの言葉です。御戯れが過ぎますよ?」
「はっへ、へいほうがはほんでくへはいんはほほ!」
「千景様はお休みでも私は仕事中です。今少しお待ちいただければ相手もできます」
「ほんほう?」
眉根を寄せ、迫る眼は真剣そのものだから困る。
「ええ、本当です。ですから少し大人しく……」
説得の途中でスマートフォンが震える。
画面には見知らぬ通知、この番号を知っているのは限られるのだから、可能性は高い。
「失礼」
「ちょっと……もう!」
千景が殿下のように頬を膨らませるのも気にせず、通話ボタンを押す。
「はい、榊です」
『よぅ、お前がジョージに一発かましたのか?』
声は全く知らない女性のもの。口調は完全に男のものなのに、声は艶めかしささえ漂わせる。
唐突ではあったが女性の言葉、ジョージというのは聞き覚えがあった。
ノーラは以前、騎士王のことを聖ジョージ卿と呼んでいた。
「受付係にしては言葉遣いと礼儀がなっていないようですね」
『はっ、誰が受付だよ。オレはナイアンテール、欧州騎士団序列三位だ。それで、ジョージにお情けかけられたベビーフェイスは誰だよ』
「榊平蔵と申します。騎士王殿にはお世話になりました」
『はぁん、ヘイゾー・サカキね。妙なイントネーションと響きだ。覚えやすくていい』
「恐縮です。ナイアンテール殿はどうしてこの番号がお分かりになったのです?」
『お前と話してみたかったのさ。まどろっこしいことを聴くなよ、野暮だろ。隣にいるから代わる。ジョージ、御指名だ』
笑い声と雑音が入り乱れる。
数秒の間が開き、溜息と共に騎士王の声が聞こえた。
『榊殿、ご無礼をお許しいただきたい。ナイアがどうしても声が聴きたいというものでね』
「理由は……あまり追求したくないものです」
『君にとっては、な。しかし、私もかなりのリスクを負った。少しくらいは労ってくれてもいいだろう』
「必要なものがあればおっしゃってください。できるだけのものをご用意します」
『ならば刀を一振り頂戴したい』
「承知しました」
この程度で取引をしてくれるなら安いものだ。
伊舞か鹿山のジジイにあとで相談しよう。
『それで、相談事とは? 貴殿なら大抵のものなら自分で何とかなるはずだ』
「お褒めいただいて恐縮ですが、こちらは鷹司が重傷を負っています。なりふり構っていられない状況ですので、お力添え頂ければと思います」
『鷹司殿が?』
騎士王の声音がにわかに曇る。
「相手は白凱浬です。騎士王殿は過去に何度か交戦経験があると伺いました』
『白凱浬が日本に? それはおかしい……』
騎士王に昨年末から起こっている事のあらましを告げる。
行方不明者、水を使ったと思しき殺人、麻薬、水の輸出。
『榊殿、私も水や麻薬のことまではわからない』
「それ以外ならお分かりになる」
『白凱浬は共和国の前身、大秦国の皇帝一族に仕えていた。白凱浬が表舞台に出るときは必ず皇帝一族が絡んでいると考えていいだろう』
「皇帝一族は生きている……」
共和国の成立時、処刑されたという記述はどこにもなかった。
同時に生きているという記述もない。
「共和国首脳部が皇帝一族を生かす理由は何でしょう」
『正確なところは私にも分からない。だが、白凱浬を筆頭に武官たちは皇帝に忠誠を誓うとされている。皇帝一族を人質に、現存する武官たちを操っている可能性はあるか……』
「人質……」
個人的な予想では差し迫った問題への対処、白凱浬の親類縁者、家族のために動いていると思っていた。皇帝一族が生き残っているとすれば、合点がいく。
考えを巡らせているとスマートフォンの音声にナイアンテールとは別のものが混じり、
『榊殿、もう一つお教えできる。白凱浬が仕える人物は皇帝一族の長子、雨彤となっている』
「その雨彤という方の情報はありますか?」
『残念ながらない。しかし、家系図からある程度の予想はつく。代替わりをして四代目ということは……恐らく一〇歳前後だろう』
白凱浬には幼く、大事な主人を置いてまで日本に来る理由がある。
単純に考えれば人質。
黙って聞いていた千景が袖を引っ張る。
「その雨彤って人が大事だからよ。今すぐにでもどうにかしたいから来たに決まっているわ」
なるほど。
麻薬はともかく、水を求めるあたり雨彤か一族に特殊な疾患が考えられる。
軍事費の増額を見れば共和国内で武官たちが必要なくなっているのかもしれない。
『もう一つ気にかかるのは行方不明者と殺人だ。私の知る限り、白凱浬は人殺しをしない』
「……敵対国家ですから気にしないのでは?」
『対外的には一度もだ。もしかしたら分からないところでしている可能性はあるがね。こちらが提供できるものは以上だ』
「ありがとうございます。とても参考になりました」
『……榊殿、あまり死地に飛び込まぬことだ。日桜殿下がお嘆きになる』
「ご忠告感謝します。ですが、主が泣くよりも耐えられぬものがあります」
『また会えることを楽しみにしている』
通話が切れる、かと思ったのだが再び雑音が聞こえ、
『ヘイゾー・サカキ』
また違った女性の声がする。
騎士王は女性でも侍らしているのだろうか。
贅沢な奴なので呪っておこう。
「なにか?」
『ジョルジオ様の御顔に傷をつけたこと、絶対に許しません。後悔させて差し上げます!』
「左様で。ならばご自由にどうぞ。いつでもお待ちしております」
『ちょっと、御待ちなさ……』
誰かは分からないものの、面倒そうだったので通話を切る。
この数分でだいぶ疲れてしまった。
「……」
「どうかされましたか?」
千景が睨んできたので頬を引っ張ってやると、
「……がぅ」
犬の真似なのか、首筋を噛まれる。
咬筋力は高が知れているので気にしないのだが、いささか行儀が悪い。
「千景様は皇位継承権をお持ちなのですから、無作法はお止めください。広重さんも悲しみます」
「これは印よ」
「はい?」
「休日にしか会えないのに平蔵は仕事ばかり。せめてこの痕が消えるまでは……」
言葉の途中でアラームが鳴る。
音からして俺のものではない。
「……もう時間なのね」
溜息を残して千景が離れる。
なんの時間なのか、問い質そうとする間に扉がノックされた。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは直虎さんと、後ろには日桜殿下にノーラ。
直虎さんは手に野点籠を、ちび殿下は白い小箱、ノーラは鉄瓶と敷物を持っている。
時計を見れば一〇時を過ぎていた。
「休憩のお茶をお持ちしました。榊殿も一休みされては如何ですか?」
「……おかしも、あります」
ちび殿下は持った小箱を掲げようとして、俺の隣にいる千景に気付く。
当の千景はスカートの裾をつまみ、優雅に一礼し、
「日桜殿下、ご機嫌麗しく……」
挨拶の口上を述べようとしたのだろうが、驚きと歓喜とを混ぜた殿下が小走りで駆け寄る。
「……ちかげちゃん、こんにちは」
「で、殿下!?」
「……きょうは、おやすみですか?」
「はい。学校は休みですので、殿下と平蔵と、ノーラにご挨拶を……」
「……うれしい、です」
あまりの気安さ、歓迎の度合いに千景が困惑している。
今にも飛びつきそうな殿下とは対照的に、ノーラは鉄瓶を置くと二人の元に歩み寄り、
「殿下、千景さんは今日一日こちらにいらっしゃいます。お昼も、夜も一緒です」
「……! ほんとう、ですか?」
「は、はい。ご迷惑でなければご一緒させていただきたいと……」
ちび殿下の顔が喜びで溢れている。
同い年くらいの友人が少ない殿下にとって、千景とノーラは得難い存在だ。仲良くしてくれるのは俺にとっても嬉しい。
「殿下、まずは手に持っているものを置いてください。落としますよ」
「……?」
そこで殿下の視線が俺に、いや俺の首へ向かう。
「……さかき、けがをしてますか?」
「いえ、大したものではありません。千景様に噛まれただけですから」
「噛む?」
俺の言葉に真っ先に反応したのは事態を見守っていたノーラ。
柔和な微笑を浮かべていたのに、一瞬だけ目付きが鋭くなったのは気のせいではないだろう。
「千景さん?」
「待ってノーラ。これには理由が……」
「ふぅん」
ブラウンの瞳が千景を射貫く。
先ほどまで勝気だった千景が今は少し慌てているようにも見えた。
一人取り残されたお子様は不思議そうに首を傾げるばかり。
「……のーらちゃん、どうしてかみますか?」
「殿下、噛むとどうなりますか?」
「ノ、ノーラ!」
「ダメです」
割って入ろうとする千景をノーラが眼で制する。
一一歳とは思えない眼光に、千景は動きを止めるしかない。
「日桜殿下、噛むと痕が残ります。その痕を見るたび、ヘイゾウさんは誰を思い出しますか?」
「……ちかげちゃん」
「そうです。つまり、千景さんはヘイゾウさんに思い出してほしかったのです。さて、どうしてでしょう?」
「……」
ちび殿下は眉をへの字に曲げ、宙を見上げて考える。
「……さかきが、おしごとばかりしているから、です!」
帝王学を修めた第一皇女が出した答えにノーラは天を仰ぎ、千景は苦笑いを浮かべている。
どうしたものかと考えている間にちび殿下は千景に向かって自らの首を差し出し、
「……わたしも、ちかげちゃんをおもいだしたいです。かんでください」
笑顔で迫る。
とんでもない発言に微笑ましくも見守っていた直虎さんが背筋を伸ばし、ノーラが咳き込む。
首を差し出された千景は目を白黒させていた。
「千景さん、日桜殿下は純粋な御方です。一時の損得、プラスマイナスで考えては立場を危うくします」
「ノーラの苦労が手に取るようだわ」
「察してくださるなら抜け駆けはなしです。接触は構いませんがキスマークはルール違反ですから」
二人は不穏な会話をしている。
なんというか、頭が痛い。
「……だめ、ですか?」
「日桜殿下、平蔵を噛んだのは彼が鈍感だからです。私の憤りを示すために付けました」
「……いきどおり?」
「私が会いに来ているのに、仕事ばっかりなんです」
「……さかき、ほんとう、ですか?」
「はぁ……まぁ、事実ではあります」
少なくとも嘘はいっていないので肯定すると、ちび殿下はこちらまで歩み寄ってくる。
「な、なにか?」
「……わるいこ」
前置きをしてから手に噛みついた。
直虎さんの目付きが鋭さを増し、ノーラが呆気にとられる。
「殿下もいけません」
「……これでちかげちゃんといっしょ、です」
嬉しそうに笑うのだからどうしようもない。
お手上げだと思っていると、
「じゃあ、次は私ですね」
「ノーラ?」
「不公平だと思いませんか? こんなに我慢しているのに……」
膝に登ってからべろり、と頬を舐められる。
「ノーラ!」
「……のーらちゃん!」
ちび三人に寄って集られ、もう仕事どころではない。
「直虎さん、助けてもらえませんか?」
進退窮まって唯一の常識人に助けを求めたのだが、女剣士は冷たい眼差しのまま首を横に振った。
「榊殿、因果応報という言葉をご存じか?」
「え?」
「私も噛みたい気分ですが、主の前ですので自重させていただきます」
そっぽを向かれてしまった。
姦しい休憩時間はもう少し終わりそうにない。




