一五話
四月も下旬を迎え、大型連休を前に世間は忙しない。
皇族は世間に関係なくいつでも忙しいのだが、このところは比較的ゆったりしている。
帝都付近に潜伏する共和国工作員のせいなのだが、公表するわけにもいかず、政財界を含めて動きが緩慢になりつつあった。
「日桜殿下、お会いできて光栄です」
「よく、おいでくださいました」
赤坂の迎賓館にある応接室では日桜殿下に米国海軍司令官が表敬と着任の挨拶をしていた。
太平洋、南シナ海、果てはインド洋までを担当する米国海軍第七艦隊は国防の要といっても過言ではない。
増長する共和国、北海を虎視眈々と狙うロマノフへの対応は日本の海軍だけではできないものとなっているからだ。
「司令官殿、日本の春は如何ですか? 横須賀はピッツバーグよりも南ですので幾分か過ごしやすいと思いますが……」
「とても良い気候だと思います。寒すぎず、日差しも風も心地良い。次の休暇は妻や娘を連れて行楽に出かけたいと思っています」
「それは良いお考えです。新緑の城ケ島はとても綺麗で、散策にはよいでしょう。海産物もありますが、海風で育った葉山牛は格別です。きっと奥様、お嬢様も気に入ることでしょう」
「日桜殿下のお心遣いに感謝いたします」
細面の海軍指令はペンシルベニア州ピッツバーグの出身。
生真面目で、妻はハワイ州の出身、二人の娘と一家四人で日本に来ている。
海のない州で育ったためか海軍将校なのに海産物は苦手らしい。
好物は故郷のワインと牛肉、趣味は映画鑑賞。愛国心と共に育った町を愛している人物。
「本物の和牛を食べることを楽しみにしておりました。神戸牛はニューヨークで一度食べたことがあるのですが、小さすぎて味がよくわかりませんでした」
「それはそれは……。たくさん召し上がって頂けるよう、私からも申し伝えておきます」
事前調査で今回の司令官殿はかなりの恐妻家、本人よりも体格のいい奥さんに尻に敷かれている。
ご機嫌取りに葉山牛と海産物の詰め合わせ、あとは八景島シーパラダイスの優待券と城ケ島に別荘でもあれば海軍や近衛にも好意的でいてくれるはずだ。
日桜殿下の雄姿を壁際で眺めていた俺に、司令官の取り巻きをしていた一人が近寄ってくる。
「アンタがヘイゾー・サカキ?」
「俺に米国人の知り合いはいないはずなんだが……」
「そう警戒するな。前のボスからだ」
少し厚めの封筒をスーツの内側にねじ込まれる。
前のボスとは先代の司令官ということになる。
確か今は大西洋打撃艦隊司令に就いているはずだ。
「今回の件は聞いた。タカツカサとユウコ・サクミに恩がある。役立ててほしいとさ」
「前司令官殿にお礼をお伝えください。私でできることでしたらなんなりと協力いたします」
「分かった伝えよう。それからもう一つ、個人的な要望があるんだ」
「裂海と日桜殿下のスリーサイズなら諦めてくれ。鷹司副長のは聞いておくよ」
俺の言葉に取り巻きが肩を竦め、首を振る。
「勘弁してくれ。こっちも命が惜しい」
「国家機密よりも知っている人間は少ないのに、残念だ」
「新婚でね、妻に疑われたくはないのさ。俺たちの家族サービスにも協力してくれよ」
「葉山牛でいいなら届けさせる。あとはシーパラダイスのチケットでどうだ?」
「舞浜の方が好みだ。故郷がカリフォルニアでね」
「分かった」
答えると彼は肩を叩いて自分の位置へ戻る。
軍人のノリはあまり好きではないのだが、向こうがわざわざ提供するという情報だ。
誰の差し金かは分からないものの、あって損はない。
周囲に目配せをしつつ裏へと引っ込み、封筒の中身を確かめる。
「これは……」
出てきたのは太平洋の公海上における不審な船舶と潜水艦の情報をまとめたもの。
偵察機からの画像もあれば、衛星写真もある。
添え書きには丁寧に共和国所属、あるいはロマノフ所属とある。二つの国の潜水艦、貨物船が洋上でやりとりをしているものも含まれていた。
もう何枚かめくれば、ロマノフと共和国の資料もあった。どうやら両国は頻繁に会談を重ねているらしい。モスクワと北京だけではなく黒竜江省哈爾浜市やウラジオストクでも工作員の交流があることが書かれていた。
「……なるほど。これで可能性が高くなったか」
独り言も出る。
こちらの推察が正しければ、共和国内部は親ロマノフに染まりつつある。
あとは外務省からの情報が揃えば確度もさらに高くなるはずだ。
「水……麻薬……金。親ロマノフ、白凱浬……」
頭の中で一つ一つの点が線でつながり、おぼろげながら全体像が見えてくる。
相手の目的が分かれば対抗手段も講じ易くなるだろう。
「……さかき、さかき」
「で、殿下?」
袖を引っ張られ、驚いてみればそこには日桜殿下がいる。
「どうなされたのですか? 歓談は……」
「……もう、おわりました。さかきこそ、なにをしていますか?」
「あー、これは……その……」
目を細めたちび殿下は不機嫌そうだ。
誤魔化そうかとも思ったが、封筒も書類も見られている。
諦めた方がいいだろう。
「申し訳ありません。一連の騒動を受けて前艦隊司令よりお手紙を頂きました。鷹司副長と裂海優呼のために役立ててほしいと……」
「……」
ちび殿下の顔が曇り、続いて不安に眉根を寄せ、最後に俯いた。
どうやら言いたいことがあるらしいので、膝を折りって目線を合わせる。
「どうかなさいましたか?」
「……むりをして、いませんか?」
「私がですか?」
「……だって、まえといっしょ、です。むずかしいかお、ばかり」
「前……ああ、ノーラの時ですね。難しい顔ですか……」
していただろうか。
鏡を前に仕事をしていないので実際は分からないが、殿下が言うのだからしていたのだろう。
次からは気を付けなければならない。
「無理はしていません。今回は許可も取っていますし、協力してくださる方がたくさんいますから大丈夫ですよ」
「……ほんとう、ですか?」
「はい。本当です」
上目使いかと思えば、不意にちび殿下が腕を広げ、俺の顔を抱く。
膝を着いていたことと、両手に封筒と紙を持っていたので防げなかった。
「……しんぱい、です」
「こればかりは信用して頂くほかありません」
「……だめ」
「殿下?」
耳元に迫る小さな唇が震えていることにようやく気付く。
首に回された手に力が籠り、押し付けられた御子服の奥にある鼓動までが聞こえてくるようだった。
「……きりひめがたおれて、さかきまで……」
抱きしめられる腕の力が強くなる。
こういう時、どうしたらいいだろうか。
誤魔化さず、ありのままを伝えるには言葉だけでは足りない。
両手から封筒と書類が落ちて、殿下の小さな腰に手を回し、背中を抱く。
「……」
「……」
言葉だけ伝えきれず、そのままの時間が過ぎる。
どれくらいの時間そうしていただろうか。侍従が殿下を呼ぶ声で、ようやくか細い腕の力が緩んだ。
「お時間です」
「……わかっています」
「主役がいなくては周りが心配します。さぁ、お早く」
ようやく体が離れて一息つけた。
周囲を見渡しても誰もいない。
まぁ、見られたら大騒ぎになっているだろう。
「……それは、いんゆですか?」
「穿ち過ぎです」
瞳は真っ直ぐにこちらを見ている。
再び背中を叩けば手が離れ、体温が遠ざかった。
名残惜しいと思ってしまう自分に嘆息し、立ち上がる。
「……さかきがいなくなったら、わたしがしんぱい、します」
「光栄です」
「……しんぱい、します」
「分かっています」
「……ばか」
腹部をペチペチ叩かれるものの、背中を押して顔を出した侍従へと向かせた。
振り返る姿に手を振る。
「さて、手立てを講じますかね」
散らばった書類を集めながら心配されない方法を考える。
最善を求めるというのは簡単ではないらしい。
◆
迎賓館の応接室、仕切の裏で抱き合う二人を立花直虎とエレオノーレが見ている。
米国海軍司令官との歓談が終わり、次の接見まで合間を縫って着替えや食事をとらなければならない時間なのに、二人は動こうとしない。
「よろしいのですか?」
「私、そこまで無粋ではありません」
「ご無礼を……」
「貴女こそ、日桜殿下の忠臣と伺いました。このような事態をお許しになるのですか?」
「私は日桜殿下の幸せを願うものです」
「女の幸せ、それとも人としての幸せ、どちらかしら……」
エレオノーレの微笑みに、美貌の女剣士は目を伏せた。
彼女自身、幸せの在り方について悩んでいるのかもしれない。
「エレオノーレ殿は……」
「ノーラで結構です」
「では、ノーラ殿はどのような未来を望んでいらっしゃるのですか? 貴女も榊殿が欲しいものと存じますが」
「あら、欲しいだなんて直接的な物言いをなさるのですね」
「不躾をお許しください」
男児として育てられた立花直虎が女として認められてから一一年、エレオノーレも一一歳なのだが、環境に違いがありすぎる。今でも女という自覚の薄い直虎と、日本に来るまで一国の王女だったエレオノーレでは比べるに値しない。
「勿論、私はヘイゾウさんが欲しい。でもそれは肉体的なものではありません。私が真に願うのはあの方の幸せ。一緒になって頂けるのなら、私があの方を幸せにします」
「愛とは奪うものではない、と」
「その通りです。愛とは与えるものですから」
堂々と宣言する幼女に、直虎はわずかに顔をほころばせる。
「直虎さん、貴女の笑顔はとても素敵です」
「日桜殿下の母君、皇后陛下も愛とは与えるものであると私に授けてくださいました。ノーラ殿はどなたから?」
「母からです。私たちお友達になれそうかしら」
「恐悦至極に存じます」
幼女から差し出された手を女剣士が取り、情が結ばれる。
しかし、穏やかだったのは最初の数分だけ。
あまりに動かない二人にエレオノーレは呆れ始める。
「少し長すぎると思うのですけれど……」
「では割って入りますか? 私もいささか長いと思います」
「証拠を残しましょう。私も日桜殿下を尊敬していますが色恋は別です。千景さんとの約束もありますから、過度は許しません」
「証拠……ですか?」
「はい」
天使もかくやという笑顔のまま、ブラウンの瞳からは喩えようのない雰囲気を放ちながら、ノーラはスマートフォンで二人の様子を撮影すると侍従を呼びに向かう。
証拠などとは微塵も考えなかった直虎は冷や汗を浮かべていた。
「怖いものだな……女の争いとは」
自分が女であることも忘れ、一一歳の背中を嘆息しながら見送るのだった。




