一一話
秘密主義は時に仇となる。
現場に居合わせた救急車で病院へ向かう途中、鷹司の体には数々の異変が起こっていた。
どんなに拭いても、布を当てても血が一向に止まらない。近衛なら瞬時に、普通の人間でも数分で止まるものが、延々と出続けていた。
ほかにも腕や足の筋肉が痙攣し、呼吸は弱くなる一方。
「なにかご病気が?」
「いえ、そういった事ではないと思いますが……」
「普段から飲まれている薬はありますか?」
「すみません、分かりません」
救命士に聞かれても答えることができず、そうなれば当然専門家でさえ症状の理由がわからない。
人体はケガをすると血小板の働きによって傷口が塞がれる。血液にも凝固作用があり、体外に出た場合も固まるのだが、その兆候すらない。いつまでも鮮血の赤を保っていることもおかしかった。
「……」
考えられるのは先ほどの戦いで通常とは違う何かを受けたこと。
毒、あるいは病。どちらも俺には覚えがある。
新潟での虎、京都での矢矧。毒と病によって死にかけたからこその直感だった。
「何か心当たりはありますか?」
俺に問われても答えられない。ここで信憑性のない話をしても彼らを混乱させるだけだ。
スマートフォンを取り出して伊舞にかけ、状況と直感を告げる。
『……血が止まらない?』
「はい。小さな傷から出続けている状況です。それだけではなく……」
手当をする救命士から顔をそむけ、声のトーンを落とす。
「筋肉が痙攣しているのに体温は下がる一方です。個人的には毒ではないかと思います。相手が虎と同じような能力者であったなら可能性はあるかと……」
『霧姫に意識はある?』
「いえ……ありません」
『あまりよくないわね。今はどのあたりにいるの?』
伊舞の言葉に外をみれば、御所と朝日が見える。
「御所が見えるので文京区……本郷のあたりだと思います。本部にはあと五分もあれば着くと思いますが……」
『アンタの推察が正しければ本部にある設備で対応できないわ。小石川病院に話をするから、そっちへ向かいなさい。私もすぐ行くから』
こちらの返事を待たず伊舞が通話を切る。
小石川病院は近衛や皇族とも関係があり、俺も何度か通ったことがある。大きく、専門的な設備のある大きな病院だ。
「副長……」
手を握っても反応がない。
指先は冷たく、生気は全く感じられなかった。
数分後、病院に着くと待っていた医者と看護師に迎えられ、ストレッチャーに乗せられ手術室へと向かう鷹司を見送るしかできない。
なにもできない自分をもどかしく感じながらも一つの考えが浮かぶ。
本部からやってきた伊舞を見つけて並走しながらこれまでの経緯と状況、それに考えを伝える。
「俺の血は使えませんか?」
「使えないわ。アンタの血なんて劇薬みたいなもんなんだから」
「実績はあります。虎の毒に耐え、京都では敗血症も克服しました」
「素人の考えなんていらないのよ! いいから、そこで待っていなさい!」
怒鳴られ、手術室に入る伊舞を見送るしかできず、立ち尽くすしかできなかった。
◆
白亜の囲いにたくさんの点滴、輸血パック、心電図。
される側としては見慣れた光景なのに、誰かがされているのは痛々しくて見ていられない。
「副長」
呼んでも硝子の向こう、集中治療室の中で鷹司は目を閉じたままだった。
ただ心電図だけが生きていることを知らせるように規則正しい波形を映し出している。
先ほど医師団と一緒に手術室から出てきた伊舞は白衣を脱ぎ捨て、備え付けのソファーに腰を下ろしていた。どこに隠し持っていたのか愛用の長煙管を取り出すと火を付ける。
「ここ、病院ですよ?」
「知ってるわよ」
一瞥もすることなく紫煙を吐きだす。
二、三度と溜息、いや深呼吸にも似た煙を燻らせると煙管を差し出してきた。
「私は吸いません」
「灰を捨ててきて」
「……左様で。では、その間にこちらをどうぞ」
手渡したのは手術中に法務省から届けられた、これまでの経緯を綴った書類。
分厚いものをこんな短時間で誰がまとめたのか、あるいは以前から用意してあったのかは定かでない。
わざわざ病院の外にある喫煙所まで灰を捨てに行って戻れば、伊舞だけではなく鹿山翁まで揃っていた。
「おお、お前さんもいたのか。ご苦労だったな」
「いえ……」
鹿山翁の顔にも疲労の色が濃い。
寝ていないのか、懸念があるのか、あるいはどちらもなのか、渋面から伺い知ることができなかった。
「偉そうに名前を連ねておきながら醜態を晒してくれるのね」
「まったくだ。返す言葉がない」
声にいつものハリがない。
あの鷹司霧姫がこうなるとは、誰しも予想できなかった。
「それで、お前さんは何をみた? 副長が戦っていた相手は……」
「私が到着したときには勝負が決していました。相手は白凱浬と仰っていましたが、それ以上は分かりません」
白凱浬の名前に鹿山は深く息を吐き、伊舞は舌打ちをした。
二人の反応をみるに容易な相手ではないのだろう。
「霧姫も子供じゃないし、立場もある。一緒にいなかったことを責めるつもりはないわ。でも、相手が白凱浬だなんて……」
「共和国が関係していたことは分かっていた。能力者が噛んでいることも間違いはないだろうと踏んでいた。だが、その相手が白凱浬だとはな」
沈黙が重たい。
鷹司、重鎮二人が懸念する白凱浬とはいったい何者なのか。
「副長も懸念されていましたが白凱浬とは?」
「共和国の能力者、通称武官の筆頭。水気を操り、天候までを司るという向こうでは守護神のような存在だ。顔は見たのか?」
「一瞬でしたので、あまり詳しくは。ですが……」
鹿山の言葉に自分の腕を抱えて走り去るダークスーツを思い出す。
身長は俺や鷹司とそう変わらないように見えた。印象に残っているのは極彩色の猿を模した仮面をしていたということ。あれで顔も表情も分からなかった。
「極彩色の猿面?」
「はい。真っ黒なスーツにはとても異様で、そればかりに気を取られていたように思います。体格は私と変わりません。あとは特徴といえるものはありませんでした」
「……厄介ね」
伊舞が吐き捨てる。
今のところは手掛かりゼロといってもいい。
「近衛に資料はないのですか?」
「共和国の能力者で分かっているのは国外で活動するものがほとんどだ。外国要人の暗殺、潜伏任務、諜報活動に従事する人間に限られる。全体の人数すら推測でしかない」
「私たちが持っている情報は欧州連合からの提供によるものが多いのよ。アンタと戦った虎も大英帝国とインドでぶつかったから記録も能力も残っているの」
欧州連合、大英帝国。どちらも耳に痛い。
それにしても、
「虎、ですか」
今回は嫌なことばかり蘇る。
あの痛みを思い出すだけで身震いがした。
「私が気掛かりなのは、それだけじゃないの」
「どういうことだ?」
「今回の相手が、白凱浬だけではなさそうってことよ。あの子の血液から検出された成分がいくつあると思う?」
成分という言葉に、俺と鹿山翁は眉を顰めるしかできない。
「分かっているだけでもイリドイド、エフェドリン、プソイドエフェドリンに代表されるアルカロイド系。センシノイド、硫酸ナトリウム、アミグダリン。判明していないものもあるわ」
聞きなれないものばかりだが、引っ掛かるものもある。
エフェドリンにプソイドエフェドリンは鷹司からも資料請求があったからだ。
「共通するのは生薬として使われるものに含まれること。アルカロイド系は芥子の実、センシノイドは大黄、硫酸ナトリウムは芒硝、アミグダリンは杏仁ね」
「漢方薬……?」
「そうよ。でも薬も過ぎれば毒になる。特にアルカロイドは危険だわ。経口摂取ではなく体内に直接打ち込まれたものだと効果が強すぎる」
「なるほど、白凱浬は水気を司る。しかし、水気だけでは副長の体から検出されたものの説明ができない」
「そうなると仮説は二つになる。副長が戦った相手が白凱浬ではない場合と、白凱浬ともう一人の能力者がいる場合だ」
「ええ、そうよ」
鹿山翁の言葉に事態にさらなる暗雲が立ち込める。
今のところ不安要素しか出てこない。
こうした状況でとる手段は二つ。
一つ目は積極介入をして事態を終息させ、二つ目は手を引くこと。
前者はリスクが前提となり、後者は犠牲こそ避けられるかもしれないが今後に影響する。
「分かった。この件、しばらくは儂が専任となる。朝来は大隊長を招集して説明と、副長の代理を決めてくれ」
「ちょっと、私にばっかり面倒を押し付ける気なの? 介護には早いんだから自分の尻くらい拭きなさいよ」
「しかしな、近衛が弱腰をみせれば共和国は必ずつけ上がる。圧力はどうしても必要だ」
「大隊長集めて説明してからでも遅くないわ。どうせ足取りなんて掴めな……」
目上が言い争う姿に辟易していると足音に気付く。
枯葉色のスーツと、黒い軍服をまとった壮年の二人。
共に身なりには品があり、白髪交じりではあるものの背筋は伸びて年齢を感じない。
「川島大臣、それに菅原陸軍参謀」
思わず漏れた声に伊舞は嫌そうな顔をして、鹿山翁は頭をかく。
集中治療室の前まで来ると二人は揃って目を閉じたままの鷹司へ頭を下げてからこちらを向く。
「すぐそこで会ってしまってね。ご一緒させてもらったんだ。一人では……ね」
「この度は、どうお詫びをしてよいか……」
複雑な顔の菅原参謀と、眉根を寄せる法務大臣には生気がなかった。
「榊、部屋を借りてきてくれないか。立ち話では誰が聞いているか分からんからな」
「承知しました」