九話
東の空がうっすらと白み始めた午前四時。
近衛寮、自室にある備え付けの電話が着信を知らせる。
「はい、榊です」
受話器を取り某国の潜水艦、違法船舶、領海領空侵犯、どんな呼び出しかと耳を傾ければ、
『榊殿、霞が関より緊急の呼び出しです』
夜番を担当する職員、いやその先にいるであろう霞が関からのものだった。
『法務省直下、公安調査庁の方から埼玉県戸田市の荒川付近の倉庫街にて共和国の工作員が集団で潜伏している可能性が高く、鷹司副長が単独で調査に向かわれたとのこと』
「……法務省、霞が関?」
職員の報告に腹の中で燃えていた酒精が急激に冷えていくのを感じる。
工作員、法務省、霞が関。点がつながり、一本の線になっていく。
『現在、埼玉県警と北区を担当する赤羽署が包囲網を展開中ですが、工作員に能力者がいる可能性が高いため、副長への援護が難しい状況です』
「副長権限で第二次警戒態勢を発令してください。御所、近衛本部に第四大隊を展開、抜刀は任意で許可します」
『承知しました』
「住民の安全を考慮し、第三大隊を付近に展開、指揮は私が執ります。各隊へ通達をお願いします」
通話を切る。
ここまではほぼマニュアル通り。
鷹司不在の折、重要なものは俺が請け負うことになっているのだが、まさかこんな事態を想定してはいなかった。
「厄介ごとか?」
振り返れば立花が真面目な顔で一升瓶の口に栓をする。
飲み足りなさそうだが今日は我慢してもらわなければならない。
「ああ、戸田市で共和国の工作員らしき集団が潜伏、能力者の可能性が高い」
「戸田? 随分近いな」
ちびたちの世話でヨレたシャツを脱ぎ、新しいものへ袖を通す。
立花は明太を口に詰め込み、お湯で飲み下した。
「第四大隊は御所と本部に展開、指揮は伊舞さんと久世隊長に任せる。俺は第三大隊と一緒に戸田へ行く」
「現場指揮は第三の卯木さんに任せればよくないか?」
「副長が一人で乗り込んでいるらしい。フォローが必要になるだろうから、どちらにせよ俺が行った方が混乱がない。楽観視して問題が起これば大変なのは俺だ。マニュアル通り、前例踏襲が大事なんだよ」
「へいへい、真面目だねぇ、第九大隊長殿」
卯木尚人は裂海の所属する第三大隊長。
裂海曰く、仏頂面がチャームポイントらしい。俺からすれば実直な仕事人というイメージ。
久世薫は第四大隊長。かなり理知的で切った張ったよりも計略に重きを置く。
「立花は殿下とちび達を頼む」
「あいよ」
お休みのところ申し訳ないが、日桜殿下がこのまま俺の部屋にいるのも問題がある。
早々に御所に戻ってもらわなくてはならない。
寝室のドアを開けライトを点ければ各々が好き勝手な格好で寝ていた。
「あちゃー」
後ろから覗き込んだ立花が笑う。
寝相も嫁入り前に治ることを祈ろう。
「榊、俺はリビングで待ってるわ。まだ死にたくないからな」
「分かった。ただし、殿下の寝相については口外してくれるなよ」
「へいへい」
我身可愛さに立花が引っ込む。
気持ちは分からなくもない。まずは裂海から起こそうと丸まっている小動物に近づく。
「優呼、仕事だ。起きろ」
「んん……仕事?」
頬をつまめば裂海はすぐに眼を開ける。
さすがは武士、即応ができるのはさすがだ。
「戸田へ行くぞ。五分で支度をしてくれ」
「分かったわ。手を貸してくれる?」
仰向けで寝ていた裂海の手を引っ張り、上体を起こしてやると大きく伸びをした。
「ありがと」
「俺は下で車を準備する。用意ができたら下りてきてくれ」
「このままでいいわ。ヘイゾーのシャツ貸して」
裂海が立ち上がると、Tシャツの下に巻かれたサラシが解けて落ちる。
本人は気にする様子もなく長い髪をまとめ直し、脱げかけのジーンズを腰まで引き上げた。
「第三大隊総動員なんだぞ。大隊長に怒られないか?」
「そうなの? じゃあ着替えなきゃダメね」
「理解が早くて助かるよ」
自室へと戻る裂海を尻目に、未だ夢の中のお子様たちに向き直る。
「やれやれ」
幸せそうに枕を抱きしめる殿下、シーツを噛む千景、上掛けの中に埋もれるノーラに肩を竦める。
この時以来、一連の事件が解決するまで穏やかとは程遠い毎日が待っているとは誰も思いはしなかった。
◆
迫るはずの朝日も意に介さず、強烈な気配が闇の中にある。
水浸しの床、無造作に散らばる段ボール。
鷹司霧姫の眼が暗さに慣れても立ち姿の輪郭がはっきりしない。
「……ほう」
相手はすでに構えをとっている。
シルエットすらぼかしてしまうほどのダークスーツに揺らめくような独特の足運び。
片方の拳は開かれ、片方には大ぶりの鉈にも似た湾曲刀。最も異形に映るのは仮面。相手は極彩色をまとった猿を思わせる面を付けている。表情は読めず、面に開いた二つの穴から覗く眼だけが苛烈な意思を表していた。
「私は近衛第一連隊所属、鷹司。騒動は避けたいのだが、投降してはもらえないだろうか」
呼びかけにも答えない。
鷹司の名前を聞いても怯える様子は見せず、殺気を膨らませてすらいる。
「貴殿の意思は分かった。やむをえない、か」
鷹司が腰の宗近を抜き放てば呼応するように長い髪が揺らめく。
剣術の構えなどせず、鷹司は肩に宗近を乗せ前傾姿勢をとった。
「……」
「……」
ダークスーツに極彩色の面をつけた相手は鷹司の一挙手一投足を注視している。
わずかに動かした指、摺り足の先に応じて僅かずつ体重の置き場を変えていた。極限の集中が相手を支配している。
――――軽々しく仕掛けるべきではなかったか。
鷹司は安易に刀を抜いたことを後悔していた。
相手の肚は決まっている。何があっても一発は当ててくるだろう。それも乾坤一擲、一撃必殺の大技を、だ。
「右手右足が前に出て、体重は後ろ脚にあるとみるべきか。中国拳法……内家拳だな」
先ほどから突き出された右手にある湾曲刀が左右に波打ち、開かれた左手、左掌は懐深い場所にある。鷹司の見立てでは湾曲刀は囮、本命は左掌。
宗近を解き放てば防御など押し潰せる。が、問題は距離だ。この至近距離では動作を大きくすれば一足飛びで間合いに入られる。刀を打ち下ろすよりも相手の掌が早いだろう。
「……」
ダークスーツが摺り足にも似た歩法でじりじりと間合いを詰め、鷹司は悩む。
確実なのはいったん退いてから宗近を開放し、間合いの外から押し潰すこと。しかし、それでは問題の根本が解決しない。
捕縛して真意を確かめなければ今後も事態が継続する可能性がある。
「手加減できる相手ではなさそうだ」
女傑の背中を汗が伝う。
ダークスーツに面を付けた男か女かもはっきりしない相手は必殺の殺気をみなぎらせている。
果たして、一撃で沈んでくれるだろうか。
命を奪わず、それでいて動けないほどの威力でなければ周囲に害が及ぶかもしれない。
――――私も驕ったものだ。
美貌を歪ませ、笑う。
脳裏をかすめるのは青年の横顔。いつまでも好き勝手にはさせられない。
鷹司が踏み込めばダークスーツも震脚で応じる。
「……!」
「っ!」
影が交錯し、鷹司の左手とダークスーツの湾曲刀がぶつかる。
剣戟の如き金属音を発するのは鷹司の手刀。湾曲刀とぶつかるたびに火花を散らし、間合いに入り込むことができない。
しかし、それは相手も同じ。
鋭利なはずの湾曲刀が何度も女傑の白い肌を叩くにもかかわらず内部への侵入を許さない。それどころか指先の触れ方ひとつで湾曲刀の広い刃に爪跡が残る。
少しでも誤れば鷹司はたちどころに砕いていただろう。だが、ダークスーツは巧みな捌きでそれを許さない。
「やるな!」
「……!!」
体を入れ替え、足技を絡め、ほとんど密着するまでになりながらも視線は互いに宗近と左掌底にあり、切り札を温存したままの攻防が続く。
「見えたぞ!」
先に仕掛けたのは鷹司。
湾曲刀を強引につかむと、ダークスーツを引っ張る。鷹司の剛力をもってしても相手の軸がぶれず、拮抗する。
互いの肘、肩、膝、足とが激突。超密着状態で不利なのは鷹司だった。
「さすがは大陸拳法……!」
密着状態にあってもダークスーツの肘や膝は的確に鷹司の急所を捉えた。
剣術の間合いにおいては鷹司が有利でも、拳の間合いならば相手が有利となる。
無理はできるが無視できないダメージが蓄積され、ダークスーツは鷹司の剛力にも恐れず二度目の震脚を踏み、
「……!」
右手で持った湾曲刀を一回転させ、逆手に持って引っ込めると本命の左腕と掌底を震わせた。
「くるか!」
鷹司は油断しない。
一発は当ててくる、当たってやることは織り込み済み。
近衛、鷹司と名乗っても相手は引かなかった。
如何に共和国工作員とて鷹司霧姫の名を知らないはずがない。相打ち覚悟なら分からなくもないが、向かってくる眼に諦めは見えなかった。
ダークスーツの左掌底に透明なものが収束していく。
硝子か水晶と思った鷹司だが、輪郭がはっきりとしないことに気付き、相手の素性に達する。その頃には高圧の刃となった水が左胸に迫る。
宗近と掌底が交錯し、互いの動きが止まった。
「水っ!?」
「っ!」
苦悶と驚愕が重なる。
直前で体を斜にして直撃を避けた鷹司だが、驚きに目を見開く。
先日閲覧した共和国の能力者に関する資料、その中に記述もあった。
「白凱浬! まさか、共和国の筆頭が日本にいるだと?」
「……」
ダークスーツの名前を鷹司も知っている。実際に会うのは初めてだが、あまりにも有名だ。
白凱浬は共和国随一の能力者。水を操り、あの騎士王ジョルジオ・エミリウス・ニールセンとも互角に戦えるほど。
「なぜ……」
鷹司の頭が混乱で埋まる。
大物どころではない。本来なら共和国で国家主席の警護を務めていなければならない人物。
それが日本に、それもこんな不可解な事件の中心にいる。
「語っては……もらえないのだろうな」
「……」
白凱浬は終始無言。
右鎖骨と右胸部、恐らくは肋骨までに深い傷を負いながらも気迫を衰えさせることがない。
「貴殿が相手である以上、私も加減などできるはずがない。その仮面は見事に欺いてくれた。恐れ入る」
素性が分かってしまったからには引くことができない。
手掛かりを掴むどころか少しでも気を抜けばやられる。
無敵と称される鷹司の腕からは血が滴っていた。
「参った」
苦笑いが浮かぶ。
鷹司の固有、宗近の能力を以ってすれば如何に共和国筆頭といえど一刀で伏すことができる。だが、当たってくれるかどうかは定かではない。隙が大きければたちどころに反撃を、それも致命的な一撃を受けることになる。
――――どうする。
考える間に白凱浬は三度震脚をすると刃を前、掌底を腰だめに迫る。
「仕方ない」
鷹司も前に出る。
刀を肩に担いだまま左の拳を握り、二つの影が激突する。
首を狙った湾曲刀を避けずに拳を突き出し、心臓を狙う。
刃が致命的な部分に達するより早く鷹司の一撃が白凱浬の腹部に食い込み、ダークスーツが宙を舞って壁に激突する。
これで沈んでくれれば楽なのだが、事は簡単に運んでくれない。
白凱浬は崩れた壁から抜け出すと同じ構えを取る。
ダメージを感じさせない足取りで迫り、かなり手前で崩拳のように突き出された手から何かが放たれ、近衛服に当たって砕けた。
「!」
軽い衝撃、ダメージには遠いがバランスを崩すには十分。
鷹司が驚き足を止めていると迫る白凱浬の左手が縦横無尽に動く。
突かれ、振り下ろされ、容赦なく鷹司を打つものの正体に気が付いた。
「なるほど、水に石が混ぜ込んであるな」
近衛服に張り付いた、大小さまざまな小石や瓦礫が落ちる。おそらく、激突した壁の破片だろう。
この石があるから貫通力と重さが増している。あまりもらいすぎると近衛服の性能限界を超えてしまう。
「長引かせるわけにはいかないか」
鷹司の髪が逆立ち、銀色に変化すると宗近を中心に光が渦巻いて辺りを照らせば、
「……!」
鷹司の異変に白凱浬は憶することもなく震脚を踏む。
窓の外には朝日が昇り始めていた。