八話
埼玉県戸田市は荒川を挟んで帝都と接している。
首都高池袋線、外環自動車道に面しており関東地方から日本海側への物流拠点。
荒川周辺には倉庫が立ち並び、昼間は車や人の往来が多い場所。帝都の中央部、千代田区霞が関からでも三〇分とかからない。
鷹司の考えはこうだ。
太平洋側、主に北関東から集めた水を目立たないように小さなトラックで運び入れ、倉庫で梱包して大型トラックで運び出す。その目星をつけたのが戸田にある倉庫街。
ルートはこのほかにもいくつか考えられる。
秋田の能代港や山形の酒田港に送るなら福島に集めて磐越道、石川に送るなら神奈川の厚木や静岡の御殿場に集めることも考えられるが、なぜ戸田なのかと車を運転する公安職員に問われた鷹司は、
「近場だからだ」
と、不敵に笑う。
合同庁舎に残っていた職員五人とともに戸田市の倉庫街に着いたのは深夜〇時を過ぎていた。
「さすがに暗いな」
多くの倉庫がコンクリートの塀で囲われ、その入り口を閉ざしている。
見える限りの建物には明かりがなく人気もない。
「どこから手を付けますか?」
「貴官らがリストアップした箇所を回る。順番は任せよう。ただし、私から離れぬことだ」
鷹司が近衛服を翻し、愛刀宗近へ手を置けば、公安職員たちは胸を熱くする。
怯えずにすむという安心感が彼らを突き動かす。目星をつけてある倉庫へ入り込み、丁寧に調べていく。
「どうだ?」
「どれも違います。ですが、こうして調査できるだけありがたいですよ」
「調子に乗って証拠を残すなよ?」
「承知しています」
公安職員たちは手際よく入り込み、鷹司を先導して納められたものを確かめると、施設から施設へと縫うように移動する。
五人という少数が幸いして調査はスムーズに進む。
それでも広い倉庫街を隅々まで調べるとなれば時間は必要だった。
「もう三時か」
「これが最後です」
最後となったのは倉庫街の一番端、荒川に近く、かなり古びた倉庫と事務所が一体となった施設だった。入り口の門は鉄製だがかなり錆びている。少しでも動かせば音を立てるだろう。
「では、行ってまいります」
職員の一人が音がでることを見越して塀をよじ登るのだが、鷹司の眼には嫌なものが映った。
「ちょっと待て」
「た、鷹司殿?」
慌てて裾を掴んで引きずり下ろしたのだが、少し遅い。
暗闇に目を凝らせば細く透明な糸が何本か見え、職員の体に当たった一本が緩んでいた。
「これは……」
鷹司は歯噛みをする。
古典的ではあるものの明かりの少ない場所では極めて見え難い罠だ。
「どうかされましたか?」
「塀の上に糸が張られていた」
「糸……ですか?」
「静かに」
手で職員の動きを制し、耳を澄ます。
音は聞こえない。
「待っていろ」
慎重に壁に登り、糸の先を探せばどうやらほぼ全周に張り巡らされている。
糸は施設内にもつながっており、中で何らかの動作しているのだろう。
「鷹司様?」
「怪しいな」
また古い施設というのがいかにも、だ。倉庫街の端ということもありこの辺りだけ街灯も少ないのも気になる。小さな違和感を積み上げているようで鷹司は気に入らなかった。
鷹司は考える。
応援を頼むのならば今だ。備えはしておいた方がいい。犠牲が出るような事態になったら法務大臣に合わせる顔がない。
問題はまだある。
いくら倉庫街だとしても周辺には住民がいる。一般市民を巻き込むことはできない。
以前の鷹司ならばここで近衛の体面も考えただろう。
応援を頼むのならば事実関係がはっきりしてからでも遅くはない。何かあっても引き連れてきた彼らを逃がしてからでも十分だ、と。
――――恥や外聞を気にする必要はありません。
部下の言葉が頭の片隅にある。
元サラリーマン、営業だった彼は何かあれば自分から頭を下げる。
物事を円滑に進め、軋轢を生まない方法であることを良く知っていた。
優先すべきは職員たち、そして周辺住民の安全。自分が頭を下げるだけで済むのならば安いもの、そう思うことにした。
「私もまだ青い」
「? 鷹司様?」
「ここは私一人で行ってくる。念のため貴官らは退避、警視庁に応援を……いや、ここは埼玉県警が……」
決心したのに嫌な懸念が出てくる。
ここは埼玉だが、施設は荒川に隣接している。
一級河川を管理するのは国交省、揉め事が起これば縄張り争いになることは目に見えている。
加えて隣接する帝都は警視庁の管轄、公安調査庁と連携しているとはいえ出張ってきては無用な対立を招きかねない。
「手間を惜しんでいても始まらんな。二手に分かれて、一方は埼玉県警に、もう一方は警視庁に応援を要請してくれ」
頭を下げるのならば一回も二回も三回も変わらない。
ダメなら鹿山翁にも頼めばいい。しかし、当然といえば当然なのだが職員たちは難色を示す。
「そんな、それでは……」
「貴官らは法務大臣の夢だ。ここで何かあっては日本の安全保障は確実に遠退くだろう」
「ですが……」
「ここで縄張りや手柄を考えてはいけない。重要なのは確実に処理することだ。その点、私ならば心配ない」
鷹司は丹念に言い聞かせる。
「鷹司様、せめて我々が応援を呼んでくるまで待ってください」
「分かっているが、相手に気取られたことも考慮する必要がある。私ならば即刻退避するが、証拠を残さないためにも色々と処分するだろう。直ぐには動かないはずだ」
今すぐ突入したいが乱戦になれば職員たちの安全が確保できない。
相手も派手に動けば周辺を巻き込んでの大事、大取物になる。自爆のような真似はしないはずだと思いたいが、安全を優先する。
「時間がない……か」
自分が同じ立場なら夜明け前に出たい。
暗闇に紛れて少しでも遠くに行きたい。時計を見れば時刻は三時三〇分、夜明けまで一時間を切っていた。
「三〇分待ってから入る。あとは時間との勝負だ」
「……分かりました。お任せします」
「近くで携帯を使うなよ。傍受されてはかなわん。十分に離れてからにしてくれ」
「はっ!」
「すまない。事が済んだら皆で祝いをしよう」
職員たちが走り去るのを見送る。
「私も口が上手くなったものだ」
苦笑いすら浮かんでくる。
誰の影響なのか考えたくもない。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
神経を研ぎ澄まして施設内から漏れ聞こえる音に耳を傾ける。
寝ていたのか作業をしていたのか分からないが、用心深い相手なら察するはずだ。
普通なら仲間を焚き付けて準備をさせ、証拠を破棄して脱出の機会を伺うだろう。
鷹司には一分、一秒がとても長く感じる。
「……さて、いくか」
きっかり三〇分、遠くにパトカーのサイレンを聞きながら施設へと入る。
古いコンクリート特有のかび臭さを感じながら入り口から入り、中を進んだ。
「……!」
広い空間に出たと思えばブーツの底が水を踏み、窓から入り込むわずかな明かりにシルエットが浮かぶ。
目の前にあるのは切り裂かれた大量の段ボールとポリエチレン製のタンク。
「……いる」
強烈な気配が倉庫の奥にある。
逃げることもせず、ただじっと鷹司を見ていた。
◇
自由とは贅沢品であり、孤独とは嗜好品である。
二つの共通点は自分に選択権があること。
今となってはどちらも縁遠いものになった。
「お疲れ」
「立花こそ付き合わせて悪かったな」
自室なのに深呼吸をしながらソファーに座る。
対面には立花宗忠が座り、背もたれに体を預けている。時刻は午前三時、深夜と呼ぶのは少しばかり抵抗がある。もう一時間もすれば東の空が明るくなり始めるだろう。
「全員寝たのか?」
「ああ、ぐっすりだ。ハチミツ入りのホットミルクは効果抜群だったよ」
「榊も人が悪いな。パジャマパーティーを妨害するなんて」
「人の部屋で、それも四人でやる方が悪い。それに優呼まで混ざるとは思わなかった」
「アイツも色々複雑だったらしいからな。女の子同士でなにかをするってのはほとんど経験がない。遊びにしろ稽古にしろ男だらけの中で育ったらしいからな」
立花の言葉に寝室に目を向ける。
俺の寝室、なのに今ベッドを占領しているのは殿下とノーラ、千景に裂海だ。
いくらキングサイズのベッドでも四人並べば狭い、と思いきや殿下を中心にバランスを取っている。四人ともミニマムなのも幸いした。
「殿下と千景、ノーラが揃った時は眩暈がしたんだが、優呼が混じってくれて良かった。それに立花も。正直助かった」
「なんだよ、俺はオマケか?」
「だったらもう少し相手をしてくれ。ゲームの相手しかしてないだろ」
「やめろよ。高貴な方々を相手に無礼を働くなんて俺にはできない」
立花はもろ手を挙げる。
まぁ、コイツの場合は殿下に一定の距離を置こうとする。ノーラや千景に対してもスタンスは同じだ。
「疲れたな。少し飲まないか?」
「悪いが酔わないんだ」
断ろうとすると立花は片目を閉じる。
「酒ってのは酔うためだけに飲むものじゃない。俺からすれば榊が羨ましいよ。延々と呑んでいられる。お湯を沸かしておいてくれ」
ちょっと待っていろ、と立花がいったん部屋を出る。
その間に注文のお湯を沸かし、冷蔵庫の中を覗いたのだが、エナジードリンクとコーヒー豆しかない。何かつまめるものを、と考えたのだがやめた。
「お待たせ」
立花が一升瓶と大きめのタッパーを持って戻ってくる。
お湯をポットに移し、湯呑を二つ盆にのせてソファーへと戻れば酒宴の始まりだ。
「それは?」
「熊本の焼酎。最近のお気に入りなんだ」
立花は湯呑に焼酎を入れ、お湯を多めに注ぐ。
タッパーの中身は辛子明太子。さすが九州の譜代武家出身だけある。
「乾杯」
湯呑を軽く当ててお湯割りを一口含む。
日本酒にも似た風味とさらりとした口当たりがなかなか美味しい。
「思ったよりクセがないな」
「米焼酎だからな。榊は関東の人間だろ。最初から芋焼酎はハードル高いとおもってさ。米焼酎は日本酒にも通じるところがあるから飲みやすいだろ?」
「ああ」
なるほど、米焼酎。
そう思って飲むと抵抗が少ない。
「で、これがまた合うんだよ」
立花は大きめに切ってある辛子明太子を箸でつまみ、口に含むと何度も噛んで呑み込む。
追っかけるようにお湯割りを含めば心底幸せそうだ。
「くぅ~、旨い! 榊もやってみろよ!」
促されるままに真似をして辛子明太子を食べてからお湯割りを飲む。
確かに悪くない。
「うん、美味しいな」
「これだけは男の聖域だぜ」
「大げさだな」
男二人で酒杯を重ねる。
「それで、御三方が揃った理由は?」
「ノーラだ。あの子は千景とほとんど毎日文通しているらしい」
「ぶ、文通? また古風な」
「近衛は通信機器や情報端末の所持に厳しい。本人は日本語の勉強にもなるといってたが、あれは確信犯だ」
「はぁ~、末恐ろしい」
立花が感嘆の声を漏らす。
そう、事の発端はノーラと千景の文通。あの子は機密を除いた書ける範囲の出来事を綴り、千景へと送っていた。本人は公平のためと言っていたが、真意は分からない。
手紙によって暴発寸前だった千景が近衛寮へと乗り込んできて、不幸にも殿下と一緒だったところに遭遇、ノーラを巻き込み騒ぎへと発展する手前で裂海と立花が偶然通りかかってくれた。
女が三人寄れば姦しいものだが、四人集まると静かになる。
裂海の提案でパジャマパーティーが開催され、さっきまで騒いでいた。
「榊はその手紙見たのか?」
「いや、見てない。でも検閲はされているはずだからそんなに妙な内容ではないと思うんだが……」
男二人で再び視線を寝室へと向けた。
無理に聞きたくはないが気になるのは確かだ。
「どんな内容かは分からないが、耐えかねた千景様が乗り込んできた、と」
「千景本人は殿下に会いに来たらしい。だったら御所でやればいいのに……」
「よせよ、刺されるぞ」
咳き込んでしまう。
嫌な想像だ。
「女敵ってのはそういうもんだ。直接会って決着をつけたいんだろ。千景様は殿下を相手に大したもんだよ。将来は大物になるかもな」
「女敵って、やめろよ。俺はそんなつもりはない」
「あーなるほど。ノーラはそれを狙っているのかもな。お前に気がないのを分かって、漁夫の利を狙う。あの子もなかなか大物だ」
「あのな……」
睨めばすっかり顔を赤くした立花はとても楽しそうだ。
「年貢は早めに納めた方が身のためだぜ。まぁ、日桜殿下は難しかろうが無理じゃない。元服のときに皇位を放棄すればいいんだからな。もっとも、周囲が許さないだろうし、帝が在位の間は立場的にも殿下の存在は重要だ」
「あのちんちくりんに手を出せと?」
「そういう即物的なものじゃない。私が愛するのは貴女だけです、って宣言すればいい。そうすれば他を断る名目にもなる。無用なトラブルも避けられる」
「……」
「榊が優しくするからこうなるんだ。少しは責任を自覚しろ色男」
「逆に聞くが、お前が俺の立場だったらどうする。はいそうですかと受け取るか?」
「俺は榊じゃないから答えないぜ。自分に都合の良い部分だけを取り出すなよ」
なかなか話に引っ掛かってくれない。
さすが立花、あの直虎さんの義弟なだけある。
「それが嫌ならさっさと見合いでもして結婚しろ。話くらいは来てるんだろ?」
「さぁな」
溜息をついて一升瓶から焼酎を注ぎ、そのまま飲んだ。
自棄酒なんてしたくはないが、飲みたい人の気持ちが今なら分かる。
「立花こそ……」
どうなんだ。
問い返してやろうと思ったところで部屋に備え付けてある電話が鳴る。
時計を見ればもう午前四時に近い。こんな時間に連絡というのは悪い知らせである場合がほとんどだ。
「はーい、榊大隊長の御呼び出しでーす」
「うるさいぞ酔っ払い。ちょっと待ってろ」
最近だと潜水艦か、あるいは領海侵犯。
どちらも副長室での対処が多いのだが、
「はい榊です」
受話器の向こうから届けられたのは意外な報告。
腹の中で燃えていた酒精は一気に醒めてしまうものだった。